Reconsideration of the History
120.不磨の大典『日本国憲法』は国際法違反の産物 (2003.5.7)

前のページ 次のページ


 We,the Japanese people,acting throuth our duly elected representatives in the National Diet,determined that we shall secure for ourselves and our posterity the fruits of peaceful cooperation with all nations and the blessings of liberty throughout this land,and resolved that never again shall we be visited with the horrors of war through the action of government,do proclaim that sovereign power resides with the people and do firmly establish this Constitution.Government is a sacred trust of the people,the authority for which is derived from the people,the powers of which are exercised by the representatives of the people,and the benefits of which are enjoyed by the people.This is a universal principle of mankind upon which this Constitution is founded.We reject and revole all constitutions,laws,ordinances,and rescripts in conflict herewith.

 We,the Japanese people,desire peace for all time and are deeply conscious of the high ideals controlling human relationship,and we have determined to preserve our security and existence,trusting in the justice and faith of the peace-loving peoples of the world.We desire to occupy an honored place in international society striving for the preservation of peace,and the banishment of tyranny and slavery,oppression and intolerance for all time from the earth.Werecognize that all peoples of the world have the right to live in peace,free from fear and want.

 We believe that no nation is responsible to itself alone,but that laws of political morality are universal;and that obedience to such laws is incumbent upon all nations who would sustain their own sovereignty and justify their sovereign relationship with other nations.

 We,the Japanese people,pledge our national honor to accomplish these high ideals and purposes with all our resources.

頭からいきなり、長文の英文で面食らった方もおありの事かと思いますが、皆さん、これが一体何だと思われますか? 実は、これが『日本国憲法』の前文なのです。しかし、

『日本国憲法』はその名の通り「日本国の憲法」なんだし、なんで前文が「英文」なんだ? それに学校で教わった時だって、ちゃんとした日本語だったぞ。

と思われる方もおありでしょう。確かに仰る通りです。しかし、『日本国憲法』(以下、『新憲法』と略)の「前文」は、英文の原文が先にあって、後から日本語に訳された代物で、前掲の英文の前文の方が「由緒正しい」と言う事になってしまうのです。いや、前文ばかりではありません。はっきり言えば、『新憲法』は憲法全文にわたって英文が先に出来上がり、後から日本語訳されたものなのです。では、何故、この様な事になってしまったのでしょうか? それには『新憲法』の成立過程が深く絡んでいたのです。そして、よりはっきりと言えば、『新憲法』は国際法に照らしても極めて「違法」な代物なのです。では何故、『新憲法』が国際法違反の産物なのか? それを知る為に、先ずは、『新憲法』の成立過程を眺めてみる事にしましょう。

和20(1945)年8月14日、日本は連合国に対して『ポツダム宣言』の受諾を通知、翌15日、終戦(敗戦)を迎えた訳ですが、当時の日本政府には敗戦は受け入れるものの、「国体」(日本の国家体制)や、国家の規範共言うべき『大日本帝國憲法』(以下、「明治憲法」と略)の全面的変更については、全くと言っても良い程、考えてはいませんでした。何故なら、『ポツダム宣言』第13項には、

ポツダム宣言

第13項

吾等ハ日本国政府ガ直ニ全日本国軍隊ノ無条件降伏ヲ宣言シ且右行動ニ於ケル同政府ニ対ノ誠意ニ付適当且充分ナル保障ヲ提供センコトヲ同政府ニ対シ要求ス右以外ノ日本国ノ選択ハ迅速且完全ナル壊滅アルノミトス

と謳(うた)われている様に、あくまでも「日本軍の無条件降伏」(軍事的降伏と武装解除)であって、日本と言う国家(大日本帝国)そのものが無条件降伏する等とは一言も謳われてはいなかったからなのです。ところが、いざ、GHQ(連合国軍総司令部)が日本に進駐してくると事態は一変しました。GHQの最高司令官・ダグラス=マッカーサー元帥は、同年10月4日、東久邇宮(ひがしくにのみや)内閣の副総理格で元総理の近衛文麿(このえ-ふみまろ)公に対して、又、翌日、同内閣が総辞職すると、同月11日に幣原喜重郎(しではら-きじゅうろう)新総理に対して、それぞれ、『明治憲法』の改正を示唆したのです。これを受けて、幣原総理は松本烝治(じょうじ)国務相の下に憲法問題調査委員会(通称「松本委員会」)を設置、憲法の改正草案を作成したのです。

本委員会による改正草案では、帝国議会(国会)の議決権拡大や、内閣(政府)が帝国議会に対して責任を負う事等が謳われていたのですが、所謂「天皇条項」については基本的に『明治憲法』を踏襲するものでした。つまり、日本側は、『明治憲法』の「大枠」(骨格)はあくまでも残し、時代に合わない条文等を時代に即したもの、より現実的なものに「改正」する程度で充分と判断していたのです。現に、当時、様々な方面で独自に憲法の改正草案が作成されましたが、一部の過激なもの(皇室を廃止し、共産主義に基づく人民共和国にする等)を除けば、あくまでも明治憲法の「大枠」に沿ったものがほとんどだったのです。ところが、この日本案を目にしたマッカーサー元帥には、日本案が非常に保守的で、『明治憲法』と大差無い旧態依然たる代物に映ったのです。そこで、マッカーサー元帥はある行動に出たのです。

和21(1946)年2月3日、マッカーサー元帥はGHQ民政局に対してある命令を下しました。それは何と、「日本の新憲法」(草案)を民政局で作成せよ!!と言うものだったのです。これに基づき、民政局は突貫工事で憲法草案を作成し、何と十日後の同月13日、民政局長・ホイットニー准将が外相公邸を訪問、吉田茂外相・松本国務相に対して、GHQ草案を手渡したのです。当然の事ながら、吉田・松本両大臣が驚いた事は言うまでもありません。たったの十日で憲法草案が作成された事もさる事ながら、草案作成スタッフの中には、ただの一人も憲法学者や法律専門家が含まれてはいなかったのです。つまり、GHQ草案は寄せ集めの「素人」達が作成した訳です。しかし、日本側が驚いた事はそれだけでは無かったのです。

GHQ草案には、天皇について「国家及び国民統合の"象徴"」と謳われていました。これは結果的に、『新憲法』の第1条となった訳ですが、『明治憲法』において国家元首と規定され、陸海軍の統帥権を総攬し、神聖にして不可侵とされていた天皇が、訳の分からない、しかも法律用語としては馴染まない「象徴」と定義された訳で、日本側の驚きは相当なものでした。その他にも、軍備の不保持と戦争放棄、土地・天然資源の国有化(これでは「民主主義」どころか、まるで「共産主義」)等、それこそ、目にした者が卒倒してしまう様な内容だったのです。しかし、GHQ草案を突き付けられた日本政府はGHQに対して、結果的に「NO」とは言えませんでした。それは、GHQ草案が日本側に渡されるに当たって、ホイットニー准将がこの様な発言をしたと言われているからなのです。曰く、

「本草案に沿った憲法改正案が日本側から示されなければ、天皇の身の安全を保障出来無い」

と。ちなみに、終戦直後の日本政府の最大の関心事は「天皇の戦争責任」問題でした。何故なら、天皇は『明治憲法』において、陸海軍の統帥権を総攬する立場、つまり、日本軍の最高司令官として定義されていたので、連合国側(戦勝国)が天皇を「戦犯」として訴追し、廃位(皇室の廃止を含む)・処刑する可能性も充分考えられたのです。そして、もし、天皇が「戦犯」として裁かれ、廃位・処刑にでもされたりしたら・・・「天皇の命令」(終戦の詔勅)に従って、渋々ながらも敗戦を受け入れ、粛々と武装解除に応じた皇軍将兵達がどの様な行動に出るか分からない。場合によっては、政府が国内をコントロール出来無くなり、日本全土が無秩序な騒乱状態に陥る可能性もあったのです。そこへ持ってきて、ホイットニー准将の発言です。日本側としては、天皇と憲法を両天秤に掛ける様な「究極の選択」の中で、GHQ草案を受け入れざるを得なかったのです。

GHQ草案を受け取った日本側は、英文草案を日本語に翻訳し、如何にして「日本の憲法」として文言の上で違和感の無いものにしていくか、と言った作業に方針を転換したのです。その後、昭和21年3月4日、松本国務相が「憲法改正草案要綱」を発表し、4月17日、政府が同要綱を平仮名交じり・口語体の文面に改めた上で、「憲法改正草案」として発表、6月20日に開会された第90帝国議会において憲法改正審議が始まり、8月24日、衆議院で修正の上、可決されたのです。しかし、9月24日、この草案に対して、マッカーサー元帥から「シビリアン条項」(文民統制)等の修正が要求され、それに基づき、10月6日、貴族院本会議において修正の上、可決、10月7日、再度、衆議院本会議で可決し、最終的に、10月29日、枢密院本会議での可決を経て、11月3日、『日本国憲法』として公布されたのです。(施行は、昭和22(1947)年5月3日)

上、『新憲法』の成立迄の流れを簡単に追ってみた訳ですが、皆さんの中には、

日本は敗戦国だった訳だし、GHQが作成した草案に基づいて新憲法を制定した事は止むを得なかった

と思われている方もおありでしょう。確かに、勝者(米国)と敗者(日本)の力関係から見れば、止むを得なかった面も無かったとは言いません。しかし、別の視点から『新憲法』を眺めて見ると、『新憲法』は明らかに「国際法違反」であり法的には「無効」である事が分かるのです。

治40(1907)年10月18日、オランダのハーグで、一つの国際条約が調印締結されました。その名は、『陸戦の法規慣例に関する条約』 ── 一般には、『ハーグ陸戦法規』として知られている国際条約なのですが、その第43条にはこの様な事が謳われています。

陸戦ノ法規慣例ニ関スル条約(ハーグ陸戦法規)

第43条(占領地の法律の尊重)

国ノ権力カ事実上占領者ノ手ニ移リタル上ハ、占領者ハ、絶対的ノ支障ナキ限、占領地ノ現行法律ヲ尊重シテ、成ルヘク公共ノ秩序及生活ヲ回復確保スル為施シ得ヘキ一切ノ手段ヲ尽スヘシ。

つまり、敗戦によって国土が他国に占領され、国家(敗戦国)の権力が占領者(戦勝国)に移った時には、占領者は絶対的な支障が無い限り、占領地の現行法律を尊重しなければならない、と言っているのです。これを、終戦当時の日本に当て嵌めた上で解釈すると、

敗戦によって日本の国土がGHQ(実質的には米国)に占領され、日本の国家権力が占領者であるGHQに移った時には、GHQは絶対的な支障が無い限り、日本の現行法律を尊重しなければならない。

と言う事になり、GHQは、『明治憲法』はおろか、日本の各種法令にさえ手を付けてはならないと言う事になる訳です。ましてや、日本政府を差し置いて、GHQが憲法草案を作成し、それに沿った形での『新憲法』制定を強いたとなると、明確な『ハーグ陸戦法規』違反 ── つまりは、「国際法違反」と言う事となり、当然の事ながら、『新憲法』自体も「無効」であると言う事になるのです。

て、それでは、「国際法違反」で且つ法的に「無効」である『新憲法』を一体どの様にすれば良いのでしょうか? 『新憲法』が「無効」であるならば、話は簡単です。先ずは、法的に「有効」であった『明治憲法』を復活させれば良いのです。『新憲法』の前文の前に置かれている「上諭」(じょうゆ)には、

「朕(ちん:天皇の自称)は、日本国民の総意に基いて、新日本建設の礎(いしずえ)が、定まるに至つたことを、深くよろこび、枢密顧問の諮詢(しじゅん)及び帝国憲法第73条による帝国議会の議決を経た帝国憲法の改正を裁可し、ここにこれを公布せしめる」

と謳われています。つまり、『新憲法』は、『明治憲法』を廃棄して新規に制定された訳では無く、あくまでも『明治憲法』の改正版である訳です。更に言えば、『新憲法』の条文の何処にも、「日本国憲法は絶対不可侵で、一言一句に至る迄改正してはならない」等とはただの一言も書かれてはいません。であるならば、GHQによって作られた『新憲法』に代わって、日本最初の独自憲法である『明治憲法』を根幹に、『新憲法』中の良い部分は踏襲し、更には各国憲法において新たに設けられている「環境条項」等を追加した『新々憲法』(改正大日本帝国憲法)への改正に着手すべきです。そして、『新々憲法』の内容が固まった時点で、一旦、法的に無効である『新憲法』を失効、『明治憲法』に復した上で、その『明治憲法』を改正すると言う手続きを取って、『新々憲法』を公布すれば良いのです。

『新々憲法』公布迄の流れ

『新々憲法』(改正大日本帝国憲法)の検討に着手
『新々憲法』草案の完成
国会で『新々憲法』草案を承認
国会で『日本国憲法』の法的無効と失効を承認
『日本国憲法』の失効に伴い『大日本帝国憲法』を復活
承認済の『新々憲法』草案を以て『大日本帝国憲法』の改正を承認
『新々憲法』を公布・施行

ずれにせよ、「憲法」と言うものは、一言一句の変更も許されぬ「不磨の大典」等では決して無い筈です。その時代々々の動向・情勢を加味し、不具合が出たなら、積極的に改正していくべきです。1814(文化11)年に制定されたノルウェー憲法は、1995(平成7)年迄に実に139回、256ヶ条もの改正をしていますし、日本と同じ「敗戦国」であるドイツでさえ、1949(昭和24)年の制定から2000(平成12)年迄に48回も改正しています。各国がその都度、改正・追補をしている事を考えると、『日本国憲法』はその成立過程もさる事ながら、昭和21(1946)年の公布以来、一度も改正された事が無い極めて特異な憲法である共言えるのです。


   余談(つれづれ)

「憲法改正」論議等と言うと、直ぐに社民党(旧社会党)をはじめとする左翼団体・進歩的文化人が、「護憲」・「改悪反対」等とシュプレヒコールを挙げますが、その「護憲」(改正反対・現行憲法維持存続)を看板にしている社民党をはじめとする左翼が、かつて、積極的に「改憲」(改正推進・自主憲法制定)を唱えていた事を皆さんはご存じでしょうか? 今でこそ、『日本国憲法』を「不磨の大典」・「平和憲法」として持ち上げていますが、成立当時は、「米製憲法」である等として、「改憲の最右翼」(旧社会党は「左翼」なので、「改憲の最左翼」と言うべきか?)だったのです。それが、昭和33(1955)年に、「自民党 対 社会党」と言う所謂「55年体制」が確立、更に、自民党が党綱領に「現行憲法の自主的改正」を盛り込むと、「右(右翼)の反対は左(左翼)」よろしく、「改憲の反対は護憲」とコロッと変心してしまったのです。「米製憲法」であるとして最も「改憲」に熱心だった社民党(及びその前身の社会党)の変心ぶり。一度、じっくりとご説明頂きたいものです。


前のページ 次のページ