Reconsideration of the History
121.改憲論議最大の論点 ── 『日本国憲法』第9条 (2004.5.21)

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回のコラム120.不磨の大典『日本国憲法』は国際法違反の産物で、『日本国憲法』(以下、『新憲法』と略)の違法性について書きましたが、皆さんの中には、

成立過程に多少の問題があったにせよ、『日本国憲法』は日本が世界に誇る素晴らしい憲法だ。

等と仰る方もおありの事でしょう。そして、その根拠として、「九条」(所謂「戦争放棄」条項)を挙げる方もおありの事でしょう。しかし、改めて「九条」の条文を読んでみると、矛盾と欠陥が存在する事に気付かされます。そこで、今回は、将来の『新々憲法』改正(法的に有効であった『大日本帝国憲法』の改正)を睨む観点から、「九条」について取り上げてみたいと思います。

ずは、改憲論議の際に必ず挙がる「九条」の条文を見てみましょう。

     日本国憲法

第9条(戦争放棄と軍備不保持及び交戦権否認)

  1. 日本国民は、正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求し、国権の発動たる戦争と、武力による威嚇又は武力の行使は、国際紛争を解決する手段としては、永久にこれを放棄する。
  2. 前項の目的を達するため、陸海空軍その他の戦力は、これを保持しない。国の交戦権は、これを認めない。

理念理想として、日本国民が「正義と秩序を基調とする国際平和を誠実に希求する」事自体にどうこう言うつもりはありません。(但し、「正義」や「秩序」については、様々な解釈や視点がありますが) しかし、「国権の発動たる戦争」を放棄するとなると、話は全く別です。一般的に「戦争」には、他国を侵略する「侵略戦争」と、侵略を受けた際に反撃する「自衛戦争」の二種類があると考えられています。しかし、「九条」で言う「戦争」を、侵略・自衛の如何に関わらず全ての「戦争」に適用し、日本がその全ての「戦争」を放棄したとなると・・・例えば、北朝鮮から「大浦洞」(テポドン)ミサイルが日本に向けて発射されたとしても、どこかの都市に着弾し被害が出るのを、ただ指をくわえて見ているしか無いと言う事になってしまいます。何故なら、ミサイルに対する「迎撃」(反撃)は「自衛戦争」の行為に含まれ、侵略も自衛も「戦争」である事に変わりが無いとの厳格な解釈に立つならば、自衛の為にミサイルを迎撃する事すら、「憲法違反」となってしまう訳です。『新憲法』が「日本国の憲法」であり、日本国とその国民の平和と繁栄を求めている物だとすれば・・・「戦争放棄」はそれに反して、外部からの脅威に対して「丸腰」でいろ!! と言っている訳で、正に滑稽であると言えます。

、「九条」第2項で、「陸海空軍その他の戦力」の不保持を謳(うた)っていますが、では、今現在、存在している「自衛隊」は何なのでしょうか? 国内で侃々諤々(かんかんがくがく)どの様な論議がなされ、どの様な解釈がなされよう共、諸外国は「自衛隊」を「軍隊」(日本軍)として認識しています。又、北朝鮮不審船沈没事件(2001年12月)でも脚光を浴びた「海上保安庁」も、米国の「沿岸警備隊」等と同様に、諸外国では「海軍」の一部あるいは予備戦力として認識しています。つまり、誰が何と言おうと、「自衛隊」や「海上保安庁」は、明らかに「陸海空軍」や「その他の戦力」に分類される訳で、そうなると憲法との整合性はどうなるのか? 「九条」第2項で、「陸海空軍その他の戦力」の不保持を謳っている事からすると、「憲法違反」では無いのか? と言う事になってしまうのです。

現実に日本の国防を担っている「陸海空軍その他の戦力」
陸上自衛隊 海上自衛隊 航空自衛隊 海上保安庁
陸上自衛隊 海上自衛隊 航空自衛隊 海上保安庁

に言えば、「国権の発動たる戦争」を放棄し、「国の交戦権」を認めない、と言うのも、ある意味において非常に「危険」な側面を持っています。前述の様に、「九条」では、軍備の不保持を謳っており、建前上、日本は「軍隊」を持っていない事になっています。しかし、事実上の軍隊である「自衛隊」は厳然として存在しています。そこで、禅問答の様な質問ですが、「軍隊」(自衛隊)とは一体何の為に存在しているのでしょうか? 元来、雲仙普賢岳や阪神・淡路大震災、三宅島等の被災地における「災害復旧」の為に存在している訳ではありません。「災害復旧」等の活動は、「軍隊」にとってはあくまでも二次的(副次的)な行為であって、本業はあくまでも「戦争」(国防)です。つまり、当たり前かも知れませんが、「軍隊」と言う物は「戦争」をする為に存在しているのです。そこで、もう一つ質問を出しますが、事実上の軍隊である「自衛隊」は誰の物(所有物)なのでしょうか? これも当たり前かも知れませんが、「日本国」の物です。すると、この様なとんでも無い事態も起こりうるのです。

200X年、某国海軍艦艇が突如、東支那海の日本領海に侵入。尖閣・八重山群島を強襲、上陸占領し、一方的に領有を宣言した。これに対して、海上自衛隊は直ちに護衛艦隊の出動を準備、首相から「防衛出動」の命令が下れば何時でも出動可能な状態で待機していたが、政府・国会共に、「九条」の解釈(「国権の発動たる戦争」の放棄・「国の交戦権」の否認)を巡って論議が紛糾。遂には、護衛艦隊を出動派遣すると、某国と戦争になるおそれが大きいとして、2002年に発生した瀋陽総領事館での北朝鮮住民亡命事件の際と同様、曖昧なまま外交決着で事態の収拾を図る方針を固めてしまった。しかし、この政府方針に納得出来無かった海自幕僚が「独断」で護衛艦隊を出動させ、尖閣・八重山群島海域において、護衛艦隊と某国艦隊が遂に戦闘状態に突入してしまった。この事態に対して、日本政府は、
日本は憲法によって、「国権の発動たる戦争」を放棄し、「国の交戦権」も認めてはいない。当該海域における戦闘は、あくまでも海自の「独断」によって引き起こされた一部の護衛艦隊による「暴走」であり、日本政府としては公的には一切関与してはいない・・・

として、某国艦隊と交戦中の護衛艦隊に対する指揮権を放棄し、「知らぬ存ぜず、関知せず」と言う姿勢を取った・・・

これは、あくまでも仮想の話ですが、半世紀前の日本が現実に経験した「満州事変」と同じ轍を踏む事になる訳です。

州事変(1931年)から「満州国」建国(1932年)に至る一連の出来事について、当時の日本政府は、

あくまでも「関東軍」(当時、関東州と南満州鉄道沿線警護の為、満州に駐留していた日本軍)の「独断専行」によって引き起こされた事であり、日本政府としては一切公式に関与してはいない。

と言ったスタンスをとっていました。まあ、当時の「日本軍」の最高司令官は、憲法規定上、天皇と言う事になっており、軍に対する「統帥権」が政府から独立していたので、下手に政府が軍のする事に介入すると、直ぐに「統帥権干犯」として叩かれた訳で、自衛隊の最高指揮権を首相が握り、「文民統制」(シビリアン・コントロール)が謳われている現在の状況とは、一概に比較出来無い事は確かです。しかし、「飼い犬」である軍隊(自衛隊)に対する管理責任を、「飼い主」である政府(国家)が放棄する事が理に適(かな)った事なのでしょうか?

来、戦争目的の為に用意されている軍隊が厳然と存在しているにも関わらず、「戦争放棄」・「軍備不保持」・「交戦権否認」を謳っている憲法上の制約の為に、様々な解釈によって乗り切ろうとしている日本。「事実上の軍隊」を保持しているにも拘わらず、その存在理由や目的を曖昧にし続けている日本。これでは、「周辺諸国からの疑念」(日本は一体何を考えているのか分からない)が生じたとしても仕方の無い事です。もしも、日本が今後も、「事実上の軍隊」である自衛隊を保持し続け、国防の事を考えていくのであるならば、「九条」を改正、軍隊の保持と、その「存在理由」(「自衛」の為なら、「自衛」の為と明確に謳う事)を明確にし、尚且つ、詳細な「交戦規定」を整備しておくべきです。

2002(平成14)年5月に誕生した21世紀初の独立国・東ティモールでさえ、国軍の創設を目指しています。又、何かと言えば直ぐに、「軍国主義」云々等と不当な「言いがかり」を付けてくる支那・コリアにしても、軍隊を保持していますし(支那に至っては「核兵器」さえ保有している)、戦中・戦後独立した東南アジア諸国にしても、何れも軍隊を保持しています。つまり、「軍隊の保持」自体がいけない事なのでは無く、要は如何に、国家が自国の保持する軍隊に対する管理責任を負うかが問題である訳です。その観点からすれば、「九条」を金科玉条の如く礼賛し、彼らが言う所の「平和憲法」に謳われている「戦争放棄」・「軍備不保持」・「交戦権否認」を念仏よろしく叫んでいさえすれば、日本の安全と世界平和が達成されるとでも考えている人達は、余りにも無責任と言えます。それと同時に、真に「戦争の無い世界」・「世界平和」を希求するならば、軍隊・戦争と言った現実に対して目を背ける事無く直視し、「軍隊とは何なのか?」・「戦争とは何なのか?」と言った議論がもっとなされるべきです。そして、それは、コンピュータ・ゲームの「仮想世界」の中で、「戦争」を身近に体験しながらも、現実としての「戦争体験」が無く、軍隊・戦争について真剣に考えた事すら無い子供の内から、なされるべきでは無いでしょうか?


   余談(つれづれ)

「九条」論議の際、必ずと言っても良い程、比較対象に挙げられるのが、中米はコスタリカの憲法です。コスタリカ憲法も、日本の『新憲法』同様、「軍備不保持」・「戦争放棄」を謳っており、実際、コスタリカには「軍隊」は存在していません。そして、「護憲派」(特に「九条」改正反対派)は、「コスタリカで実現している事が、何故、日本で出来無いのか?」と言った趣旨の事を言います。しかし、日本とコスタリカを「同列」に扱う姿勢には、相当な無理があります。第一に、日本は、東京を始めとする主要都市に対して、核ミサイルの照準を合わせている支那や、「労働」(ノドン)・「大浦洞」と言ったミサイル、「不審船」・邦人拉致問題等で対立する北朝鮮と言った「近隣諸国」(仮想敵国)を抱えています。第二に、コスタリカには失礼かも知れませんが、日本は「G8」(八大主要国)のメンバーであり、日本が独り孤立したく共、世界がそれを許さない程の影響力を持っています。(当の日本自身がそれを自覚しているかどうかは別だが) つまり、昔風に言えば「列強」の一つであり、近隣に複数の仮想敵国を抱えている日本と、直接的な軍事的脅威に晒されてはいない中米の小国・コスタリカを、そもそも同列に扱う事自体に無理がある訳で、現実を直視していない証左と言えるのです。


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