Reconsideration of the History
252.韓国の妄言を改めて糺す! ── 韓国領「竹島」はこの島の事だ! (2012.12.1)

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内閣府調査2012結果
「獨(トクト)は我が(韓国)領土!」 ── この一点張りで日本領「竹島」に対する侵略・不法占拠を正当化する韓国政府と、それを支持する韓国民にはいい加減辟易していますが、従来は「一部の右翼」に限られていたとする嫌韓の風潮が、韓国の気付かぬ間、いつの間にか日本全体に広がっていた事が先般の報道で明らかになりました。それを如実にしたのが、内閣府が平成24(2012)年11月24日に発表した「外交に関する世論調査」の結果です。この調査で「中国」(支那)に対し「親しみを感じない」・「どちらかと言うと感じない」の合計が調査が始まった昭和53(1978)年以来、過去最高の80.6%(対前年比9.2ポイント増)を記録。又、日中関係を「良好だと思わない」に付いても過去最高の92.8%(対前年比16.5ポイント増)を記録した事は、尖閣群島(諸島)海域に対する「中国」公船の常態化した侵入事案や、「中国」国内諸都市で吹き荒れた反日暴動を目の当たりにした結果としては至極当然だったと言えますが、韓国に対する日本国民の意識もかなり手厳しいものとして表れました。例えば韓国に対し「親しみを感じない」との回答が対前年比23.7ポイント増の59.0%。これは平成8(1996)年の60.0%に次ぐ過去2番目の高さですし、日韓関係を「良好だと思わない」との回答も対前年比42.8ポイント増の78.8%と急上昇。今年の大晦日のNHK「紅白歌合戦」に韓流歌手やグループが一組も出場しない事が韓国で大問題になっている様ですが、8月の李明博韓国大統領による「獨島パフォーマンス」(竹島への上陸)や「天皇訪韓謝罪発言」による対韓感情の悪化は当然の事乍ら、今迄「韓流」に絆(ほだ)されていた日本人(主として女性)の急速な韓流離れも手伝って、日本の「国民感情」として韓流スター出場ゼロが「支持」されている事も又、事実です。この状況を単に「日本の右傾化」としてしか捉えられない韓国には、ある意味「救い難(がた)い」としかコメントしようが無い訳ですが、憐憫(れんびん)の眼差(まなざ)しで同情を寄せる程、一日本国民である私も甘くはありません。大統領を筆頭に頑として日本領である竹島(韓国名「獨島」)に対する侵略と不法占拠を正当化し続ける以上、鉄槌(てっつい)を下(くだ)さざるを得ません。其処(そこ)で今回は、韓国側の自己矛盾を突いて韓国による竹島領有の不法性を明らかにしたいと思います。

(コリョ,こうらい)第17代王・仁宗(インジョン)治世の1145年に編纂された『三国史記(サムグクサギ,さんごくしき)(現存する朝鮮半島最古の史書)に登場する「于山国」(于山島)こそが「獨島」(竹島)の事である ── これが韓国側の公式見解です。それによれば、新羅(シルラ,しらぎ)第22代王・智証麻立干(チジュン-マリッカン,ちしょう-まりつかん)13年(512年)に「于山国」が新羅に服属したから、と言う事なのですが、既にこの主張の時点で矛盾を来(きた)しているのです。それでは、『三国史記』の当該記事を実際に見てみる事にしましょう。

『三国史記』巻第四 新羅本紀 智證麻立干紀

【原文】

十三年夏六月 于山國歸服 歳以土宜爲貢 于山國在溟州正東海島 或名欝陵島 地方一百里 恃嶮不服 伊飡異斯夫 爲何瑟羅州軍主 謂于山人愚悍 難以威來 可以討服 乃多造木偶師子 分載戰船 抵其國海岸 誑告曰 汝若不服 則放此猛獸踏殺之 國人恐懼則降


【現代語訳】

(智証麻立干)十三年(512年)夏六月、于山国が服属し毎年土地の産物を貢いだ。于山国は溟州(現在の江原道江陵市)のちょうど東の海の島にあり、別名を鬱陵島といい、百里(約40km)四方ある。 渡航が困難なことを恃(たの)みにして服従しなかった。何瑟羅州の軍主となった伊飡の異斯夫が言うには、于山人は愚かで凶暴である。威嚇するのは難しいが計略をもってすれば服従させることができる。そこで木製の獅子の像を多く造り戦艦に分けて載せその国の海岸に着くと、誑(たぶら)かして「お前たちがもし服属しなければ、すぐにこの猛獣を放ち踏み殺させるぞ。」と告げると、于山国人は恐れ慄(わなな)きすぐに降伏した。

「于山国」が溟州 ── 現在の江原道江陵市(カンウォンド-カンヌンシ) ── の東の海上にある島だと言っており、少なく共、この島国が日本海に存在する事だけは確かです。そして、その島の別名は「鬱陵島(ウルルンド,うつりょうとう)」だ共述べています。詰まり、韓国側が「于山国」=「獨島」(竹島)の根拠として挙げている『三国史記』の記述を普通に読む限り、「于山国」=鬱陵島だとしか読み取れないのです。これが鬱陵島=「獨島」(竹島)であるならば、「于山国」=鬱陵島=「獨島」と言う一本の線で繋がる訳ですが、現実は鬱陵島と「獨島」(竹島)は全く別の島ですから、韓国側の主張は既にこの時点で破綻を来している事になります。然(しか)も、現実の「獨島」(竹島)は現在、韓国の警備隊が常駐しているだけで民間人は一人も住んでいません。いや、抑(そもそ)も日本が実効支配していた時代でさえ、満足に暮らせる程生活が容易な島ではありませんでした。何しろ、地形は峻険で断崖絶壁に囲まれており、とても耕作出来る様な環境ではありません。又、飲料水の確保は天水(雨水)に頼らざるを得ず、人が普通に永住するには余りにも過酷な環境です。その様な島にまとまった数の人間が住み、「国」(都市国家)を営んでいたとは到底考えられません。ましてや、昔から人が暮らしていた鬱陵島ならば兎も角、更に東に約90kmも離れた絶海の孤島に侵略をはね除けるだけの勢力が住み、その征服の為に新羅が軍船を差し向けた等とは想像すら出来ません。それが現実の「竹島」なのです。その様に考えると、『三国史記』の記述が示している事実は唯一つ。

新羅が鬱陵島(于山国)を征服した

と言う事だけであり、「獨島」(竹島)に付いては何一つ書かれていないと言う事になるのです。それでも、「いやいや、『于山国』は『獨島』(竹島)の事なのだ!」と言う主張に対しては、更なる矛盾を指摘せねばなりません。そして、証拠として挙げるのは一連の韓国側史料なのです。

こに一枚の地図があります。天明5(1785)年秋、『三國通覧圖説(さんごくつうらんずせつ)』・『海國兵談(かいこくへいだん)』の著者として名高い江戸時代の日本人経世論家・林子平(はやし-しへい)が一枚の地図を製作しました。名付けて『朝鮮八道之圖』と言います。(下写真)

朝鮮八道之図

朝鮮八道之図の内、鬱陵島部分 この地図には鬱陵島が「欝陵嶋」の名で描かれていますが、其処(そこ)には「千山国」と併記されています。(右写真) 字からして「千山国」が「于山国」を指しているのは明白で、林子平自身は鬱陵島=于山国と認識していた事の証左と言えるでしょう。そして、もう一つ注目す可(べ)きは、この地図には韓国側言う所の「獨島」=竹島が描かれていない事です。既に江戸時代初期には竹島に日本人が寄港し活動していた事を考えれば、林子平が竹島の存在を知らなかったとは到底考えられません。それにも関わらず、林子平が『朝鮮八道之圖』に竹島を描かなかったとすれば、考えられる理由は唯一つ。それは竹島が朝鮮八道には含まれない ── 朝鮮領として看做(みな)していなかった(逆説的には「竹島は日本領だ」と言う事)からに他なりません。(地図には対馬が「對馬州」として描かれているが、朝鮮八道とは異なる色が施されており、朝鮮領には含まれない事を示している) ところで、この『朝鮮八道之圖』には元となった地図が存在しました。然もそれは朝鮮で作られたものなのです。それでは、今度はオリジナルを見てみる事にしましょう。

氏朝鮮第11代国王・中宗(チュンジョン)治世の1530年に完成した『新増東國輿地勝覽(シンジュン-トングッ-ヨジ-スンナム,しんぞうとうごくよちしょうらん)』の『東覽圖(トンナムド,とうらんず)』に収録されている一つの地図があります。名付けて『八道總圖(パルド-チョンド,はちどうそうず)』と言いますが、これが林子平が作成した『朝鮮八道之圖』の元となった地図です。(下写真)

八道總圖

八道總圖の内、于山島・鬱陵島部分 この地図にも鬱陵島が「欝陵島」の名で描かれていますが、林子平の『朝鮮八道之圖』とは大きく異なる点が見受けられます。それは『朝鮮八道之圖』に於いては「欝陵嶋」=「于山国」が一つの島として描かれていたのが、『八道總圖』では「欝陵島」と「于山島」と言う別々の島として描かれている事です。韓国側はこの地図に描かれているのは、鬱陵島と「于山島」=「獨島」(竹島)であり、「獨島」(竹島)が韓国領である事の証左だと主張しています。然し、そうだとすると、現実の鬱陵島・竹島の地理的位置関係と大きく矛盾する事となります。先(ま)ず、鬱陵島は北緯37度30分0秒・東経130度52分0秒、一方の竹島(獨島)は北緯37度14分30秒・東経131度52分0秒に位置し、竹島(獨島)は「鬱陵島の東側」に存在しています。然し、韓国側の主張 ── 「于山島」=「獨島」(竹島)が正しいとすると、『八道總圖』に描かれた「鬱陵島の西側」に描かれた「于山島」を一体どう解釈すれば良いのでしょう? 正に大いなる矛盾です。その矛盾を「解消」する為に、なんと韓国は証拠を改竄・捏造したのです。

獨島博物館内設置のパネル 獨島博物館内設置のパネルの拡大写真

上の写真は鬱陵島にある「獨島博物館」内に設置されていた『八道總圖』を元にした解説パネルですが、注目す可(べ)きは鬱陵島と「于山島」の位置関係です。オリジナルの『八道總圖』に於いては「鬱陵島の西」にあった「于山島」が、なんとパネルに於いては「鬱陵島の東」に移動されていたのです。流石(さすが)に、このあからさまな歪曲と捏造に対しては、日本側から「悪質な歴史歪曲」との声が度重なり、遂には関係者が位置改竄の事実を認めて別の展示に取り替える始末に追い込まれたそうです。まあ、世界に冠たる「捏造大国」韓国の面目躍如と言いますか、さもありなんと言った所でしょうか。ところで、韓国側が固執する「于山島」=「獨島」(竹島)の主張ですが、今迄散々、竹島問題で韓国を糾弾してきた私が言うのも何ですが、ある意味に於いては大間違いであり、又、ある意味に於いては正しいのです。其処(そこ)で「于山島」=「獨島」(竹島)では無く、「于山島」=「竹島」の観点から韓国を「擁護」する事にしましょう。

「于山島」に関する地図が実は朝鮮に於いて幾つか製作されており、現在も残っているのです。そして、それらの地図が「于山島」の正体を我々に明らかにしてくれるのです。それでは、実際にそれらの地図を見てみる事にしましょう。先(ま)ず最初にご紹介するのは、李氏朝鮮第21代国王・英祖(ヨンジョ)の治世、1770年に製作された『朝鮮地圖(チョソン-ジド)』所収の『鬱陵島圖(ウルルンド-ド)』です。

『朝鮮地圖』所収の『鬱陵島圖』

この地図に於いて鬱陵島の周囲には幾つかの小島が描かれていますが、その一つ、東側(右側)の小島には「于山」と書かれています。韓国側の主張の通り、「于山島」=「獨島」(竹島)であるならば、「鬱陵島の東側」に位置しており、地理的位置関係の観点からすれば合致はしますが、鬱陵島と竹島の間は直線距離にして約90kmも離れているのです。それ程離れた竹島を「鬱陵島の附属島嶼」として描くには相当な無理があります。然し、このモチーフは何も『朝鮮地圖』所収の『鬱陵島圖』に限った事では無いのです。

にご紹介するのは、18世紀に製作された『江原道地圖(カンウォンド-ジド)』です。この地図にも江原道沖の日本海上に鬱陵島が描かれていますが、『朝鮮地圖』所収の『鬱陵島圖』と同様、鬱陵島の東側に「于山」の名で小島が描かれています。

『江原道地圖』所収の『鬱陵島圖』

そして、最後にご紹介するのは、李氏朝鮮第19代国王・粛宗(スクチョン)治世の1711年に製作された『欝陵島圖形』です。

『欝陵島圖形』に描かれている于山島

この地図にも東側に「所謂(いわゆる)于山島」の名で「于山島」が描かれているのですが、注目す可きは「海長竹田」の表記です。韓国が侵略占領し「獨島」と呼んでいる日本領「竹島」は、「竹」の字を冠しつつも実は一本たりとも竹は自生していません。詰まり、「竹の無い竹島」なのです。然し、「于山島」には「海長竹」 ── 女竹(めだけ)の田=群生地があると書かれているのです。これを一体どう解釈すれば良いのでしょうか? 1711年製作の地図に「海長竹田」として登場する女竹の群生地が、近代日本が改めて正式に領土編入した明治38(1905)年迄のたった200年の間に、全て消え失(う)せてしまったとでも言うのでしょうか? この疑問と「于山島」=「竹島」のトリックに付いて最後に種明かしをしたいと思います。

「于山島」は「獨島」(竹島)に非(あら)ず! 然し、「于山島」は「竹島」である! この一見矛盾した命題を解き明かす鍵は、実は鬱陵島自体にあったのです。

鬱陵島の航空写真

上の写真は鬱陵島を上空から写したもので、上が北に当たります。その鬱陵島の北東に寄り添う様に見える小島があります。韓国名を「竹嶼(チュクソ)」と言い、女竹が群生しています。此処迄(ここまで)書けば、もう皆さんもお分かりでしょう。『欝陵島圖形』に描かれた「海長竹田」=女竹の群生地のある島「于山島」とは、鬱陵島の北東に寄り添う様に附属する「竹嶼」の事だったのです。「嶼」に「島」の意味がある事を考えれば、「竹嶼」は日本語では正に「竹島」となり、「于山島」は「竹島」であると言う事になるのです。

(かつ)て、現在、韓国が侵略し不法占拠し「獨島」と呼んでいる日本領「竹島」は「松島」と呼ばれていました。近代に入り、西欧諸国が日本海に於いて海図を製作する際、測量ミスで「架空の島」を実在するものとして海図に載せた事が契機(きっかけ)で、従来、鬱陵島を指していた「竹島」(別名「磯竹島」)との間で、島名逆転が起きてしまいました。更に「竹嶼」の古名が「于山島」である事をこれ幸いに、韓国は日本領「竹島」と鬱陵島の附属島「竹嶼」を故意に混同し、日本領「竹島」が「于山島」であり、新羅時代に征服したのだと言うレトリックを考え出し、自分達の侵略行為を正当化したのです。尤(もっと)も、元々の「于山島(国)」は小島である「竹嶼」のみならず、鬱陵島(旧「竹島」)全体を指す名称だった訳で、韓国側が、

于山国(竹島)は新羅時代に征服したものだ

と主張した所で、「于山島」=旧「竹島」=鬱陵島と言う公式に当て嵌(は)めれば、単に鬱陵島の領有権の正当性を述べているに過ぎないではないか?と言うだけの事であり、「だから、何だ?」と言ったレベルの話なのです。とは言え、江戸時代、日本が旧「竹島」=鬱陵島を当時の李氏朝鮮に譲ったにも関わらず、その後、態々(わざわざ)李氏朝鮮が鬱陵島に住んでいた島民を本土に移住させ、島に人っ子一人いない蛻(もぬけ)の殻(から)の空島政策を採った事を考えれば、李氏朝鮮が鬱陵島の領有権を放棄したものと捉える事も出来る訳で、昨今、不法占拠している竹島(獨島)に止(とど)まらず、対馬の領有権をも主張している韓国への対抗措置として、日本が鬱陵島と竹嶼に対する領有権を主張するのも一興(いっきょう)だと私は思うのですが、はてさて皆さん如何(いかが)なものでしょうか?(了)


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