Reconsideration of the History
95.韓国による「侵略」 ── 竹島問題 (2001.11.7)

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根県隠岐郡五箇村*註。現在、私も含めて皆さん方の誰一人として、この村内のとある島へは行く事が出来ません。何故なら、そこは韓国によって「侵略」 ── 不法占拠されているからなのです。そして、その島こそ、日韓両国によって、今尚、領有権が争われている「竹島」に他ならないのです。と言う訳で、今回は、韓国によって「侵略」された島、「竹島」について触れてみたいと思います。

註:「竹島」は嘗(かつ)て島根県隠岐郡五箇村の管轄だったが、所謂(いわゆる)「平成の大合併」により、平成16(2004)年10月1日、同郡下の西郷町、布施村、都万村と共に合併し、現在は「島根県隠岐郡隠岐の島町」の管轄となっている。

竹島
▲ 韓国によって占領されている「日本の領土」、竹島

島。島根県隠岐島の北西85浬(海里)、北緯37度9分・東経131度55分に位置し、東島(女島)・西島(男島)の二つの小島と周辺に点在する数十の岩礁からなる、東京・日比谷公園とほぼ同面積の絶海の孤島です。では、本来「日本領」である筈のこの島が、何故、韓国側に不法占拠される事となったのか? 先ずは、その辺りを韓国側の主張を通して見てみたいと思います。

竹島所在地
▲竹島の位置(竹島の南東には隠岐島が、北西には鬱陵島がある)


韓国による「竹島侵略」の歴史

年次 事績
昭和27(1952)年1月18日 韓国、李承晩大統領による「海洋主権宣言」と、「李承晩ライン」の一方的設置
昭和28(1953)年2月4日 「李ライン」に出漁した第一大邦丸、韓国警備艇に捕獲される(翌年にかけて捕獲頻発)
昭和28(1953)年2月27日 韓国、竹島領有を一方的に宣言
昭和28(1953)年5月21日 韓国、竹島に海軍駐在を声明(翌年より、韓国警備隊の常駐)
昭和29(1954)年9月28日 韓国、竹島領有権について国際司法裁判所へ提訴の日本提案を拒否

国側の主張によると「竹島」 ── 韓国名「独島」(ドクト)の初見は、『三国史記』等のコリア史書の記述、

「新羅智証王の時、于山国を征服した」
の「于山国」が「竹島」の事であるとしており、又、他に、「于山島」又は「三峰島」と記述されているのが「竹島」であるとしています。つまり、「竹島」は古代・新羅の時代に征服・編入されたのだから、「韓国固有の領土」であると言う訳です。しかし、「于山島」(国)や「三峰島」が「竹島」に該当している事を実証出来る積極的根拠は無く、むしろ、同文献等には註釈として、「于山国」が「竹島」の西隣、「鬱陵島」(ウルルンド)であるとさえ明記しているのです。又、「于山」・「武陵」・「羽陵」・「蔚陵」・「三峰」は、全て「鬱陵島」の別称であって、決して日本が領有権を主張する「竹島」とは違う島を指しているのです。

韓国側主張の矛盾

  領有根拠とする島名 左記呼称に該当する島
韓国側の主張によると 于山・三峰 「竹島」
韓国側古文献によると 于山・武陵・羽陵・蔚陵・三峰 鬱陵島

つまり、上表からもお分かり頂ける様に、韓国側の主張では「竹島」、古文献では鬱陵島となり、相矛盾する事となってしまうのです。しかし、この「矛盾」にはある「からくり」があるのですが、それは後回しにする事として、次に日本側の主張を見てみましょう。

本側の所見では、『竹島渡海由来記抜書控』に、元和4(1618)年、伯耆国(ほうきのくに:現在の鳥取県)米子の大谷九右衛門が江戸幕府より「竹島」を拝領し、毎年、鮑(あわび)や海驢(アシカ)等の漁猟、檀木・桐等の木竹伐採等を営んだ旨の記載があります。さて、ここで、前述の「からくり」について説明しましょう。実は、大谷氏が幕府より拝領したと言う「竹島」は、現在、「鬱陵島」と呼んでいる島の事なのです。当時、日本側では、鬱陵島の事を「竹島」あるいは「磯竹島」と呼んでおり、現在、日韓が領有権を争っている「竹島」は、元来、「松島」と呼ばれていました。

混乱を招く「竹島」の呼称変遷

現島名 旧島名(日本側) 旧島名(韓国側)
竹島(韓国名:独島) 松島  
鬱陵島 竹島・磯竹島 于山(武陵・羽陵・蔚陵)・三峰

つまり、前述の韓国側の主張 ── 「竹島」は「鬱陵島」の事を指しており、韓国に領有権がある ── は、当時の日本が、鬱陵島を「竹島」と呼んでいた歴史的事実から正しい事となる訳です。しかし、そうなると、幕府が「竹島」=鬱陵島の経営を大谷氏に委ねた歴史的事実から、鬱陵島が当時、幕府治下の日本に「支配」されていた共取れ、鬱陵島の領有権を日本が主張する事も可能となる訳ですが、その事は今回論じない事とします。さて、横道に逸れましたが、話を日韓がその領有権で争いっている「竹島」 ── 当時の日本が「松島」と呼んでいた島に戻す事にしましょう。

島。現在、「竹島」と呼ばれている島については、当時の「竹島」(鬱陵島。以後、「鬱陵島」と記載)同様、明暦2、3(1656-7)年頃、大谷氏が幕府より拝領し、鬱陵島への渡海往来の中継地として利用されていました(前述『竹島渡海由来記抜書控』)。その後、元禄9(1696)年、幕府が「竹島渡海禁制」(鬱陵島への渡海・出漁の禁止)を布き、鬱陵島の「領有権」を事実上放棄しましたが、「松島」(現在の「竹島」)については、『長生竹島記』(1801年)に、

「これぞ聞伝(ききつた)ふ松島哉(かな)と遠見す本朝西海のはて也」

と記されている事からも分かる様に、依然として「日本領」であると認識されていたのです。つまり、韓国が領有権を主張する「竹島」は現在の鬱陵島の事であり、その観点からすれば、韓国の主張は全く以て正しいものであるが、日本側が領有権を主張する「竹島」 ── かつて「松島」と呼ばれていた島については、現在に至る迄、領有権は日本にあるのであって、韓国の「領有権」主張は、島名変更の「からくり」を逆手に取った不当なものであるとしか言いようが無いのです。では、何故、「松島」から「竹島」へと島名が変わってしまったのでしょうか?

は、天明9(1789)年。日本海を北上中のフランス軍艦が、西方海上から鬱陵島を発見、発見者の名を取って「ダジュレー」島(Dagelet)と命名しました。ついで、寛政9(1797)年、今度はイギリス船が日本海の真ん中で比較的大きな島を発見、船の名を取って「アルゴノート」島(Argonaute)と命名しました。さて、この様にして、英仏人に「発見」された「ダジュレー」・「アルゴノート」二島は、実は双方共に鬱陵島だったのですが、経緯度測距の曖昧さから、別々の島として西欧に認識されてしまったのです。そして、天保11(1840)年、いわゆる「シーボルト事件」で有名なシーボルト(Philip Franz von Siebold)によって刊行された『日本図』に、「ダジュレー」島(日本名「松島」)・「アルゴノート」島(日本名「竹島」:原文では「TAKASIMA」)が日本名を併記した形で収録されたのです。

シーボルト『日本図』による地理的概念

朝鮮本土 「アルゴノート」島
(日本名:竹島)
「ダジュレー」島
(日本名:松島)
隠岐島 日本本土

その後、嘉永2(1849)年に、フランス船が一群の小島を発見し、船名を取って「リヤンクール」列岩(Liancourt Rocks)と命名、日本でも「リャンコ」島と呼びました。又、安政元(1854)年、ロシア軍艦も「リヤンクール」列岩を実測し、「メナライ-オリヴツア」列岩(Menalai-Olivtsa)と命名。その際、「アルゴノート」島が実在せず、「ダジュレー」島のみが言われていた経緯度に存在する事を確認したのです。

朝鮮本土 「ダジュレー」島
(日本名:松島)
「リヤンクール」列岩
(日本名:リャンコ島)
隠岐島 日本本土

その後、欧米の海図に収録されている「ダジュレー」島 ── 日本名「松島」が、どうやらかつて「竹島」と呼んでいた鬱陵島である事が判明しました。又、「リャンコ」島 ── かつての「松島」を明確に「日本領」として欧米に認知させる必要から、改めて「日本名」が必要となったのですが、かつての島名「松島」は、既に欧米において「ダジュレー」島(鬱陵島)の日本名として定着していたので、幻の「アルゴノート」島の日本名として認知されていた「竹島」を採用したのです。

朝鮮本土 松島(鬱陵島)
(旧「竹島」)
竹島
(旧「松島」)
隠岐島 日本本土

つまり、かつての「竹島」が「松島」へ、反対に「松島」が「竹島」へと、島名が逆になってしまった訳です。この島名逆転から話がややこしくなり、韓国の主張、

「竹島」は鬱陵島の事であり、韓国に領有権がある

に理があるかの如く思われる事となってしまったのです。しかし、改めて言います。日本が「領有権」を主張している「竹島」は、かつての「竹島」 ── 鬱陵島の事ではありません。元来、「松島」の名で知られ、島名逆転により「竹島」となってしまった「竹島」です。その意味では、現在、「日本の領土」である「竹島」(旧「松島」)を不法占拠している韓国の行為は、「侵略」に値するものと言えます。日本が国際司法裁判所でシロクロ決着を付けようとの提案をも頑(かたく)なに 拒み、やれ、「軍国主義復活」だの「再侵略」だのと明らさまに「反日」を喧伝する韓国の姿勢には、最早、「武断」による解決(自衛隊による防衛出動・実力による奪還)しか残されていない様に思えてなりません。韓国が「歴史教科書」問題で、「正しい歴史認識」を殊更(ことさら)主張するのであれば、尚の事、韓国側も「竹島」問題で、「正しい歴史認識」に則(のっと)って、「日本の領土」である「竹島」への侵略行為について謝罪し、早期返還に応じるべきでは無いでしょうか?

   余談(つれづれ)

戸元禄年間、日本は鬱陵島 ── 当時の「竹島」の領有権を放棄し、李氏朝鮮に譲りました。しかし、鬱陵島を譲られた李氏朝鮮は、その後、朝鮮人島民を朝鮮本土に引き上げさせ、官吏も常駐させない「空島政策」を実施。島は文字通り、「もぬけの殻」 ── 国際法に言う所の「無主の地」となりました。「空島政策」を採られ、むざむざ「無主の地」にされてしまった鬱陵島には、その後、日本人漁民が度々寄港、上陸しました。もし、穿(うが)った見方をし、国際法に言う「無主地の先占」の観点に立つのであるならば、日本は韓国に「侵略」されている「竹島」と同時に、鬱陵島の「領有権」をも主張出来る事になるのです。


補足情報

参考文献


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