Reconsideration of the History
263.二千年来、世紀の御成婚!?── 皇室と出雲国造家の深遠なる縁結び (2014.6.11)

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天皇皇后両陛下と言葉を交わされる桂宮宜仁親王殿下
天皇皇后両陛下と言葉を交わされる桂宮宜仁親王殿下
昭和23(1948)年2月11日、三笠宮崇仁(みかさのみや-たかひと)親王の第二皇子として御降誕され、昭和63(1988)年1月1日、昭和天皇より「桂宮(かつらのみや)」の称号を賜って宮家を創設された宜仁(よしひと)親王殿下。NHKに嘱託で勤務なされた他、オーストラリア留学の縁から、日豪協会や日・ニュージーランド協会の総裁を務められ、伯父(おじ)の高松宮宣仁(たかまつのみや-のぶひと)親王殿下の後を襲って、大日本農会、大日本山林会、日本工芸会、日本漆工協会の各総裁を受け継がれた。宮家創設から半年に満たずして病に倒れ、その後は車椅子での生活を余儀無くされつつも、御公務を積極的にこなされ、今上(きんじょう)天皇の従弟として輔翼なされた。6月8日、66歳の若さで薨去(こうきょ)された事は誠に以て悔やまれるが、先に逝った兄、ェ仁(ともひと)親王殿下との再会を果たし、常世国(とこよのくに)から皇室を、そして、日本を見守り頂ける事だろう。
月から今月に掛けて、皇室を巡る大きなニュースが二つありました。一つは、三笠宮崇仁(みかさのみや-たかひと)親王殿下(通称「三笠長老」)の第二皇子で天皇陛下の従弟(いとこ)に当たる桂宮宜仁(かつらのみや-よしひと)親王殿下が6月8日、66歳の若さで薨去(こうきょ)された事。(余談だが、テレビ・新聞等では「桂宮さま逝去」等と表現していたが、『皇室典範』にも規定されている通り「桂宮さま」では無く「桂宮宜仁親王殿下」、その死も一般人の様に「逝去」では無く、貴人には「薨去」を用いるのが相当。天下のNHKからして、この正しい表現を用いていない事自体、受信料を国民から徴収する資格無しと言わざるを得ない) 昭和63(1988)年1月1日、昭和天皇より「桂宮」の称号を賜(たまわ)り、戦後、独身の儘(まま)、独立の生計を立てる初の宮家として独立を果たされましたが、宮家創設から半年と満たない同年5月26日、宮邸内居室に於いて急性硬膜下血腫で倒れ、同年11月の退院後は右半身麻痺の後遺症を抱えた儘、車椅子での生活を余儀無くされました。然(しか)し、宜仁親王殿下は、その様なお身体であり乍(なが)らも、大日本農会、大日本山林会、日本工芸会、日本漆工協会の各総裁を務め、御公務を積極的にこなされて、よく天皇陛下を輔翼されました。その宜仁親王殿下が平成20(2008)年9月28日、敗血症と見られる症状に見舞われ、第63回国民体育大会への観覧出席を急遽取り止め東大医学部付属病院に入院。平成21(2009)年3月29日の退院後、リハビリに専念されるも入退院を繰り返し、遂に去る6月8日薨去された事は前述の通りです。宜仁親王殿下の薨去により、平成14(2002)年11月21日の第三皇子、高円宮憲仁(たかまどのみや-のりひと)親王殿下、平成24(2012)年6月6日の第一皇子、ェ仁(ともひと)親王殿下(通称「お髭の殿下」)と、三笠宮崇仁親王殿下の三人の皇子は全て薨去され、三笠宮崇仁親王殿下に繋がる御一家も存命者の薨去を以て断絶する事となるのです。扨(さて)、皇室を巡る大きなニュースの一つとして、桂宮宜仁親王殿下の薨去を挙げましたが、もう一つの大きなニュースは、それとは反対に慶事です。

御婚約が内定された高円宮家の典子女王殿下と千家国麿氏
御婚約が内定された高円宮家の典子女王殿下と千家国麿氏
平成26(2014)年5月27日、宮内庁は高円宮(たかまどのみや)家の典子女王殿下と第84代出雲国造(いずもこくそう)千家尊祐(せんげ-たかまさ)氏の長男で出雲大社の禰宜(ねぎ)・祭務部長を務める千家国麿(くにまろ)氏の御婚約を発表した。皇室も出雲国造家も系譜上は共に天照大神を祖先に戴く日本でも有数の古い家柄。そして、長い皇室の歴史に於いて、出雲国造家との縁組みは実は初めて。昨年(平成25=2013年)の伊勢神宮・出雲大社同時遷宮にも勝る共劣らない日本史上のトピックと言える。
成26(2014)年5月27日、宮内庁のホームページに僅か一行の文章乍らも、とてつも無いインパクトのある発表が掲載されました。曰く、

「典子女王殿下には、本日、千家(せんげ)国麿(くにまろ)氏とご婚約がご内定になりました。」

これは、高円宮家の第二王女、典子女王殿下(25歳)と、出雲大社の禰宜(ねぎ)・祭務部長を務める千家国麿氏(40歳)の御婚約内定の発表でしたが、既にネットを中心に盛り上がりを見せているので、ご存じの方も多々居(お)られる事と思います。(因(ちな)みに挙式は今秋、出雲大社で執り行われると言う) 典子女王殿下は皇族の一員であり、正真正銘、平成日本の「プリンセス」である訳ですが、御婚約相手である千家国麿氏の家系出雲国造家系譜も、それに勝る共劣らないとんでも無い家柄なのです。千家国麿氏の御父上、千家尊祐(たかまさ)氏は出雲大社(いずものおおやしろ)祭主にして、第84代出雲国造(こくそう)。高祖伯父(ひいひいじさんの兄)である第80代出雲国造、千家尊福(たかとみ)氏は埼玉県知事・東京府知事を歴任すると同時に、皆さんもご存じの唱歌『一月一日』の作詞者としても知られています。

   『一月一日』
千家尊福(せんげ-たかとみ)作詞  上眞行(うえ-さねみち)作曲

年の始めの 例(ためし)とて
(おわり)なき世の めでたさを
松竹(まつたけ)たてて 門(かど)ごとに
(いお)ふ今日こそ 楽しけれ

初日(はつひ)のひかり さしいでて
四方(よも)に輝く 今朝のそら
君がみかげに比(たぐ)へつつ
仰ぎ見るこそ 尊(とお)とけれ

まあ、これだけでも世紀のビックカップルと言える訳ですが、千家国麿氏の家系の凄い所は、その古さです。典子女王殿下の属する皇室(通称「天皇家」)は、初代の神日本磐余彦天皇(かむやまといわれこみのすめらみこと) ── 所謂(いわゆる)「神武(じんむ)天皇」(『古事記(ふることふみ)』・『日本書紀(やまとのふみ)』合わせて『記紀』の伝承では紀元前660年1月1日(現行暦の2月11日)に即位)より数えて現在の天皇陛下 ── 第125代の今上(きんじょう)天皇(代数は史書により多少前後するが、便宜的に現在公式に認められている代数に合わせる)迄、二千年近い歳月を男系男子の継承で紡(つむ)いできた文字通り「万世(ばんせい)一系」、現存の王家としては、世界で最古、最長の単一王朝として認知されている由緒ある家柄です。(因みに、1974=昭和49年、陸軍クーデターによりハイレ=セラトエ1世が退位暗殺される迄は、古代イスラエルのソロモン王とシバの女王との間に産まれたメネリク1世を始祖とするエチオピア帝国の皇室「ソロモン王朝」が日本の皇室を抜いて世界最古の王家とされていた) それに対しては、千家国麿氏の家系はと言うと、これ又、皇室に勝る共劣らない古さを誇ります。

出雲大社本殿遷座祭で仮殿に進む千家尊祐第84代出雲国造ら神職
出雲大社本殿遷座祭で仮殿に進む千家尊祐第84代出雲国造ら神職
平成25(2013)年の出雲大社平成の大遷宮を取り仕切った千家尊祐(せんげ-たかまさ)国造(こくそう)は、皇祖(すめおや)天照大神(あまてらすおおみかみ)の子で始祖である天穂日命(あめのほひのみこと)から数えて84代目。共に天照大神を祖先に戴く皇室と同様、男系男子により継承されてきた古い家柄で、今次、高円宮家の典子女王殿下との御婚約が内定した国麿氏は尊祐国造の長男であり、孰(いず)れ第85代として国造出雲臣(こくそう-いずものおみ)の座を継承する運命にある。(写真の中央、多くの神職を従えて歩を進めているのが千家尊祐国造)
家国麿氏の属する千家(せんげ)家は国麿氏の御父上で現当主の尊祐氏で第84代。南北朝時代の1343(南朝の興国4、北朝の康永2)年、第54代の三郎清孝(きよのり)が亡くなる迄「国造出雲臣(こくそう-いずものおみ)」として出雲氏を名乗り、出雲大社の祭主を一統相伝してきましたが、彼の歿後、二人の弟、五郎孝宗(のりむね)と六郎貞孝(さだのり)の間に後継争いが生じ、遂に当時の出雲国守護代にして富田城主の吉田厳覚の裁定により、出雲国造家を両者で分かち祭事も分掌する事となりました。そして、この時、五郎孝宗は「千家」姓を、六郎貞孝は「北嶋(北島)」姓を夫々(それぞれ)名乗る様になり、両家共に代々「出雲国造」を継承する事となったのです。その後、両家共に家系は現在に至る迄続いている訳ですが、明治6(1873)年、時の政府が北島家の国造、北島脩孝(ながのり)に岡山県の吉備津(きびつ)神社宮司への転勤を命じた事で(但し、北島脩孝はこの政府命令を断固拒否した)、出雲大社の祭事は唯一の国造である千家家の専権となり、現在に至っています。

出雲国造家が祭事を司る出雲大社
出雲国造家が祭事を司る出雲大社
平成25(2013)年、60年に一度の大遷宮が執り行われた島根県出雲市の出雲大社(いずもおおやしろ)。その歴史は神話時代迄遡(さかのぼ)り、高天原(たかまのはら)から降臨した皇孫(すめみま)瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)に「国譲り」する条件として大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)が「我が住処(すみか)を、皇孫の住処の様に太く深い柱で、千木(ちぎ)が空高くまで届く立派な宮を造って頂ければ、其処に隠れて居(お)りましょう」と述べた事を受けて、出雲の多芸志(たぎし)の浜に天之御舎(あめのみあらか)を造営した事が起源とされる。現在の社殿でも高さ8丈(約24m)あり、全国有数の規模を誇るが、上古に於いては地上30階建てのビルディングに相当する程の超巨大木造建築物だったと言う。
皇室の宗廟たる伊勢の神宮
皇室の宗廟たる伊勢の神宮
出雲大社と同じく平成25(2013)年、20年に一度の式年遷宮が執り行われた三重県伊勢市の神宮。神宮は通称「伊勢神宮」と呼ばれ、天照皇大神(あまてらすすめおおかみ)を祀(まつ)る内宮(ないくう)と、豊受大神(とようけおおかみ)を祀る外宮(げくう)からなる皇室の宗廟(そうびょう)だ。(写真は、平成25年10月2日、天照皇大神の御霊代(みたましろ)が、右側の旧正殿から左側の新正殿に遷御(せんぎょ)された内宮)
(さて)、千家家の由来に付いて簡単に述べましたが、話はこれでお仕舞いではありません。南北朝時代に、千家・北島両家に分立する以前の出雲国造家に付いて論じなければ全く意味が無いからです。出雲国造家は「こくそう」と読みますが、他の「国造(くにのみやつこ)」と同様、古代日本に於ける各地方の政治・軍事・裁判各権を管掌(かんしょう)する世襲制統治者の事で、大化改新を境に主に祭祀(さいし)を管掌する世襲制名誉職となりました。出雲国造家もその一つで、現存としては唯一の国造家です。又、出雲国造家の当主は「出雲国造」として代々、出雲大社の祭事を司ってきた存在(出雲大社では最高位の神官を「神主」・「宮司」とは呼ばず、「出雲国造」と称す)で、その格式は社(やしろ)の鎮座する島根県の知事よりも高い共言われています。出雲国造家の系譜を遡(さかのぼ)っていくと、天穂日命(あめのほひのみこと)に辿(たど)り着きます。天穂日命は系譜上、天照大神(あまてらすおおみかみ)の子で、天之忍穗耳尊(あめのおしほみみのみこと)の弟神とされています。天照大神は、ご存じ皇室の祖先神 ── 「皇祖」と称される女神で、子の天之忍穗耳尊、孫の瓊瓊杵尊(ににぎのみこと;通称「天孫」)、曾孫(ひまご)の彦火火出見尊(ひこほほでみのみこと;通称「山幸彦」)、玄孫(やしゃご)の盧茲草葺不合尊(うがやふきあえずのみこと)を経て、来孫(きしゃご)の神武天皇に至り、その子孫は現在の皇室 ── 詰まり、高円宮家の典子女王殿下も含まれる ── に至っています。そして前述の通り、皇室の祖先、神武天皇の高祖父(ひいひいじいさん)に当たる天之忍穗耳尊の弟神が、出雲国造家の始祖に当たる天穂日命なのです。詰まり平たく言えば、高円宮家の典子女王殿下は天之忍穗耳尊を通じて、婚約者である千家国麿氏も天穂日命を通じて、共に皇祖・天照大神で家系が一つに繋がる訳で、日本で一二を争う古くて由緒ある両家の御令嬢と御曹司の御婚約は、日本史上とてつも無いインパクトのある出来事である訳です。何せ、二千年の時を超えて分かれた血が再び一つになるのですから。又、昨年(平成25=2013年)は、伊勢神宮(正式には単に「神宮」)が20年に一度の式年遷宮、一方の出雲大社も60年に一度の大遷宮が執(と)り行われましたが、奇(く)しくも、伊勢神宮は天照大神を祀(まつ)る皇室の宗廟(そうびょう)、もう一方の出雲大社は皇室を戴(いただ)く天津神(あまつかみ:天孫族)に「国譲り」した国津神(くにつかみ:出雲族)の主神、大国主大神(おおくにぬしのおおかみ)・事代主大神(ことしろぬしのおおかみ)父子を祀る出雲族の宗廟であり、日本史上初の伊勢神宮と出雲大社の同時遷宮は、今回の世紀の御婚約の露払いだったのでしょうか? それ共、高円宮憲仁親王殿下御存命中から高円宮・千家両家の親交があった事から、度々、出雲の地を訪れていた典子女王殿下と、次期出雲国造の千家国麿氏の仲を、「縁結びの神」として名高い出雲大社の神が取り持ったのか・・・真相は凡人である私には量(はか)りかねますが、兎(と)に角(かく)、何かしらの「神慮(しんりょ)」が働いているのだと私は思っています。

出雲大社境内遺跡で発掘された心御柱
出雲大社境内遺跡で発掘された心御柱
平成12(2000)年、出雲大社境内遺跡から発掘された遺物が大きな衝撃を与えた。それは、最大径1.2mの巨木を金輪(かなわ)で三本一つに纏(まと)めて一つの柱とした「心御柱(しんのみはしら)」をはじめとする木製支柱だった。従来、絵図でのみ知られていた心御柱の実在が裏付けられた事で、伝承の中古16丈(約48m)、上古32丈(約96m)と言う超巨大建築物が、シュリーマンが歴史的事実を証明した「トロイの木馬」伝説同様、現実味を帯びたのだ。
丸に三丸紋
丸に三丸紋
古代の出雲大社に於いて、巨木三本を金輪(かなわ)で一つに纏(まと)め、高層建築の本殿を支えた心御柱を連想させる「丸に三丸紋」。出雲国造家と、南朝・北朝の二つに分かれた皇室の三者和合を象徴するが如き紋章だ。その数字である「三」は、日本神話の造化三神、キリスト教の三位一体、ユダヤ密教カッバーラの「セフィロトの樹」等にも見られ、安定・均衡を体現している。
在の出雲大社本殿の高さは8丈(約24m)あり、他に比しても大きなものですが、時代を遡ると、中古には16丈(約48m)、上古には32丈(約96m) ── 地上30階建てのビルに相当 ── もある正に古代の「摩天楼」と呼んでも差し支えない程の威容を誇っていたと言います。現在の我々の感覚から見れば、古代に地上30階建てのビルに相当する程の巨大な「ビルディング」を鉄筋金クリートも用いず、木材だけで建設する事等到底不可能、ただの絵空事と断じてしまいますが、それを覆すかも知れないとんでも無い物が平成12(2000)年、境内の遺跡発掘現場から発見されました。それは最大径1.2mの丸太を三本纏(まと)めて金輪(かなわ)で締め上げ、一つの柱とした最大径3.2m、三本で一本の「心御柱(しんのみはしら)」だったのです。因みに、「三つで一つ」と言えば、天之御中主神(あめのみなかぬしのかみ)・高御産巣日神(たかみむすびのかみ)・神産巣日神(かみむすびのかみ)からなる日本神話に於ける「造化三神」や、「父(なる神)と子(なるイエス=キリスト)と聖霊(聖神)の御名に於いて」の文句で有名なキリスト教に於ける「三位一体(さんみいったい)」、果てはユダヤ密教「カッバーラ」に於ける峻厳の柱(左)・慈悲の柱(右)・均衡の柱(中央)からなる「セフィロトの樹」も連想されますが、兎に角、角の数が最少の三角形よろしく「三つで一つ」は安定や均衡を体現している共言えます。話が横道に逸れてしまいましたが、世紀の御婚約により、二千年の時を超えて皇室(大和朝廷)と出雲国造家(出雲神族)が和合しようとしています。これに、更に中世に南北朝として二つに分かれ、その後も、応仁の乱、戦国時代、幕末維新期、先の大戦後と、歴史の大転換期に顔を出しては、再び歴史の奥底に潜(ひそ)んで行った分かたれた皇室 ── 真の意味での南北朝(南朝の血を引く現皇室と、昭和22年の皇籍離脱で「民間人」となった北朝系旧宮家)の和合 ── 出雲と二つに分かたれた皇室の三つが和合する時、日本の歴史に新たな一ページが加わるのでは無いか? そう勝手に解釈しつつ、本小論を締めたいと思います。(了)


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