Reconsideration of the History
22."Authorities Defact" 北の大地に潰えた夢〜幻の蝦夷共和国 (1998.2.4)

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治元(慶応4 1868)年8月19日夜、突如、江戸湾(現・東京湾)を8隻の黒船(軍艦)が、北へ向けて出航していきました。彼らは旧幕府海軍副総裁(海軍次官)・榎本武揚(えのもと-たけあき)に率いられた旧幕府艦隊でした。彼らは維新政府に反発し、旧幕府艦隊と言う軍事力を使って、新天地を目指したのです。そして、その新天地とは蝦夷地(えぞち)−北海道だったのです。

12月15日、彼らは箱館(現・函館)一帯を占領、蝦夷地の領有を宣言します。いわゆる世に「蝦夷共和国」(以下、「共和国」と略)とか「北海道共和国」と呼ばれる事になる榎本政権が樹立されたのです。彼らは日本で最初の「選挙」を実施しました。この「選挙」で榎本武揚を、蝦夷島総裁(共和国大統領)に選出、諸閣僚をも選任しました。

蝦夷共和国政府首脳
                ┌海軍奉行 荒井郁之助
                ├陸軍奉行 大鳥圭介───陸軍奉行並 土方歳三
                ├会計奉行 榎本対馬・川村録四郎
総裁 榎本武揚┬副総裁 松平太郎┼開拓奉行 沢太郎左衛門
       │        ├松前奉行 人見勝太郎
       │        ├江差奉行 松岡四郎次郎─江差奉行並 小杉雅之進
       │        └箱館奉行 永井玄蕃───箱館奉行並 中島三郎助
       └フランス士官隊 ブリュネ 以下十名

そして何よりも重要な事は、列強諸外国から、

"Authorities Defact"(事実上の政権)

として、維新政府と共に日本列島に存在する「もう一つの政治実体」(政権)として承認された事でした。この位置づけが何を意味するのかと言いますと、現代に例えれば、「中国」(大陸)に対する「台湾」の様なものです。台湾自体は自らの国を「中華民国」と称していますが、諸外国は、中国の唱える「一つの中国」と言う国是に憚り、「台湾」と通称し、"Authorities Defact"(事実上の政権)として扱っています。

蝦夷共和国艦隊旗艦・開陽 かし、「運命の女神」は共和国に微笑まなかったのです。当時、日本最強の軍艦と呼ばれた共和国艦隊旗艦・開陽が、12月27日、江差港内で座礁沈没したのです。この「共和国の守護神」フリゲート艦・開陽の沈没によって、共和国と維新政府の海軍力に逆転が生じてしまったのです。フランスは早速、日本への売却を留保していた装甲砲艦・甲鉄(ストーンウォール・ジャクソン号)を維新政府側に売却し、維新政府側の海軍力が共和国を凌駕する所となったのです。又、一時は、"Authorities Defact"(事実上の政権)として共和国を承認した筈の列強諸外国が、翌28日、共和国に対して、局外中立の撤回、交戦団体不認定を通告した事で、大勢は半ば決しました。この時点で、列強諸外国は「共和制」を標榜する榎本政権ではなく、「天皇制」を国体とする維新政府を、「日本を代表する唯一合法な政権」として国際的に承認したのです。つまり、共和国を支援する列強諸外国はなくなったと言う事であり、共和国は国際的に「孤立」した事を意味したのです。

の後の共和国は軍事力を増強した維新政府軍に押され続け、明治2年5月11日、箱館戦争最大の山場「5.11の決戦」が土方歳三の戦死で敗北した事により、「共和国 対 維新政府」の戦は大勢を決しました。5月18日午前6時、榎本武揚ら共和国首脳は、最後の拠点・五稜郭を開城、維新政府軍に投降し、ここに共和国は名実共に崩壊したのです。そして、この日(明治2年5月18日)は、箱館戦争の終結であると同時に、戊辰戦争の終結でもあり、日本が維新政府によって「統一」された瞬間でもありました。そして、いつの間にか、共和国は歴史の片隅に忘れ去られてしまったのです。しかし、たった5ヶ月とは言え、この日本に−北の大地に「共和国」が存在した事はれっきとした事実なのです。そして、その共和国が一時的とは言え、列強諸外国より、"Authorities Defact"(事実上の政権)として承認されたのも、又、事実なのです。

榎本武揚 後に余談ですが、蝦夷島総裁・榎本武揚の「その後」を書いてみようと思います。維新政府軍への降伏後、獄中に繋がれましたが、明治5年(1872)年、罪を許され、蝦夷地改め北海道開拓の指導者として尽力しました。明治7年(1874)年には、海軍中将駐露公使に就任、日露間で、『千島・樺太交換条約』を締結、北方国境線を確定しました。その後、海軍卿(海軍相)・逓信相(運輸通信相)・文相・枢密顧問官(天皇補佐官)・外相・農商務相(農林通産相)等を歴任し、子爵にまで登りつめました。かつて、維新政府に真っ向から対抗し敗れ、薩長土肥出身でもない経歴にもかかわらず、かつての「敵」であった維新政府の要職を歴任したと言う意味では、正に波瀾万丈の人生ではなかったでしょうか。


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