Reconsideration of the History
65.「世界」を意識した極東の新興国 織豊政権の世界戦略−其の弐−(2000.1.7)

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織田信長 正6(1578)年11月6日、大坂湾(現・大阪湾)は木津川河口に於いて、未曾有(みぞう)の大海戦が繰り広げられました。この海戦で、西国の雄・毛利輝元の誇る無敵艦隊600余隻は、織田信長(右肖像画)麾下(きか)の九鬼水軍6隻の「巨大戦艦」に完膚無き迄に撃破されてしまったのです。九鬼水軍の誇る「巨大戦艦」 ── 全長13間(けん 23.4m)・全幅7間(12.6m)、厚さ2〜3mmの鉄板で装甲した大安宅船(おおあたけぶね)は、ポルトガル人宣教師オルガンティノをして、

「此の船は、信長公が伊勢国に於いて建造せしめたる日本国内最大にして最も華麗なるものにして、王国(ポルトガル)の船に似たり。予オルガンティノは行きて之(これ)を見たるが、日本に於いて此(かく)の如き物を造る事に驚嘆したり」
とイエズス会に報告させた程です。なぜなら、この九鬼水軍の「巨大戦艦」は、鉄板装甲(ヨーロッパでは17世紀以降採用)・巨大艦体・重武装と、当時のヨーロッパ諸国でさえ建造なしえなかった最新鋭艦だったのです。又、とかく、日本は欧米の「猿真似」等と揶揄されますが、こと信長の「巨大戦艦」については、「猿真似」どころか、独創性溢れるハイテク艦だった訳です。

て、かくの如き「巨大戦艦」を6隻も建造したり(早い話が、あの戦艦大和を6隻も建造するようなもの)、ポルトガル人宣教師ガスパル・コエリョをして、

「それはヨーロッパの最も壮麗な建築物にも匹敵する」
と本国へ報告させた安土城を築城した天下人・信長。彼の最終目標は一体何だったのでしょうか。「天下布武」 ── 天下(日本)統一は勿論ですが、信長はちっぽけな「日本」に満足する様な器では無かったのです。当時、信長は好んで宣教師の献上品である「地球儀」や「世界地図屏風」を眺めていました。又、信長の信任を得ていたポルトガル人宣教師ルイス・フロイスの著書『日本史』の天正10(1582)年5月の条に、

「信長公は、日本六十六ヶ国を平定した暁には、大艦隊を率いて明国へ出兵し、其の広大な領土を我が子達(信忠・信雄など)に分封させるつもりだ」
と所見し、天下統一を果たした信長が海外への進出を考えていた事は確かです。結果的に、信長は天正10(1582)年6月2日、本能寺の変で自害してしまい、天下統一、そして、海外進出は幻に終わりました。しかし、信長の偉業を継承した男がいました。彼こそ、信長のなし得なかった「天下統一」を果たした天下人・豊臣秀吉だったのです。

臣秀吉。天下人・織田信長の数ある家臣の中で、「正統な後継者」の地位を手にした彼は、多分に信長を意識し、信長に追いつき追い越そうとしたのです。そんな秀吉でしたから、当然の事ながら、信長の夢想した海外進出も念頭にあった筈です。それが証拠に秀吉も、信長が建造した「巨大戦艦」に触発され、「海に浮かびし城」共言える、壮麗な天守を備えた艦隊旗艦「日本丸」を建造し、日本・明国(支那)・朝鮮(コリア)の地図が描かれた「三国地図扇面」を愛用しました。更に、秀吉は威勢をかって、琉球・朝鮮・高山国(台湾)・呂宋(ルソン:スペイン領フィリピン)に対して入貢(要は日本の属国になれと言う事)を促す使者を派遣し、世界に対して「日本」の存在を誇示しました。そして遂には、時のマニラ総督ダスマリニアスをして、日本と呂宋との間に軍事同盟を締結させたのです。(英国人ホーノマン著『フィリッピン群島誌』に所見) そして迎えたのが文禄元(1592)年。文禄・慶長の二回にわたって断行された朝鮮征伐 ── 「明国征服」作戦は、「天下人・織田信長の正統な後継者」としての自負と、信長に追いつき(戦国の覇者)追い越した(天下統一達成)天下人・豊臣秀吉の自信の表れだったのではないでしょうか。


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