Reconsideration of the History
64.天皇を北京へ!! 織豊政権の世界戦略−其の壱−(1999.12.7)

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豊臣秀吉 禄元(1592)年、太閤(たいこう)・豊臣秀吉(右肖像画)の命を受けた日本軍およそ16万の兵が対馬海峡を渡り、朝鮮(李氏朝鮮)へと侵入しました。これが、世に言う「文禄の役」(1592-1593:コリア側は「壬辰倭乱」と呼ぶ)です。朝鮮に侵入した日本軍は破竹の勢いで進撃し、同年5月、小西行長率いる軍勢が朝鮮の首都・漢城(京城=現・ソウル)を陥落させ、遂には朝鮮と明国との国境に迄至りました。緒戦の勝利で勢いづいていた日本軍でしたが、明軍の出動・朝鮮人民の蜂起・李舜臣(イ・スンシン)提督率いる朝鮮海軍に敗退する等して、翌年、停戦協定が成立し終結しました。その後、朝鮮の南部四道(「道」は朝鮮の地方行政区分で、日本の「県」に相当)割譲や、勘合貿易の復活を要求した日本と、太閤秀吉を「日本国王」に冊封すると言う明国の意見の相違により交渉が決裂、慶長2(1597)年、日本は再び朝鮮へと兵を進め、「慶長の役」(1597-1598:コリア側は「丁酉倭乱」と呼ぶ)へと繋がっていったのです。

鮮征伐(「文禄の役」と「慶長の役」の総称で、「朝鮮出兵」とも言う)により、日本は二度にわたって大軍を朝鮮へと侵入させた訳ですが、なぜ、太閤秀吉はこの様な命令を発したのでしょうか? それは太閤秀吉が夢想した壮大稀有(けう)な世界戦略が発端だったのです。と言う訳で、今回は朝鮮征伐の基(もと)となった太閤秀吉の世界戦略について書いてみたいと思います。

皇を北京へ!! これが太閤秀吉の描いた世界戦略の根幹であり、それは取りも直さず、明国(支那)の「征服」を意味していました。そして、明国征服の為の橋頭堡 ―― 通過点として、日本軍が朝鮮へと侵入したのです。(朝鮮征伐) それにしても、太閤秀吉はどの様なプランを抱いていたのでしょうか? それは、天正20(1592 12月、文禄と改元)年5月18日付の、太閤秀吉から関白・豊臣秀次へ宛てた二十五箇条の覚書(前田尊経閣文庫蔵『古蹟文徴』所収文書)を見る事で、おおよその輪郭が浮かび上がってきます。

二十五箇条の覚書 抜粋

一、高麗都(ソウルの事)、去二日落去候、然る間、弥急度御渡海なされ、此度大明国迄 残らず仰付(おおせつ)けられ、大唐の関白職御渡しなさるべく候事、

(征服後の明国の関白に日本の関白である秀次を任命する)

一、大唐都(北京の事)へ叡慮(天皇の事)うつし申すべく候、其御用意有るべく候、明後年行幸たるべく候、然らば、都廻の国十ヶ国進上すべく候、其内にて諸公家衆何も知行(ちぎょう)仰付らるべく候、下ノ僧十増倍たるべく候、其上の衆仁躰に依るべく候、

後陽成天皇は明国皇帝として明国の首都・北京へ移し、御料所として北京周辺の十ヶ国を与える)

一、大唐関白、右仰せられ候如く、秀次 譲りなさるべく候、然らば都の廻百ヶ国御渡しなさるべく候、日本関白 大和中納言・備前宰相両人の内覚悟次第、仰出さるべく候、

(秀次が明国の関白に就任した暁には、所領として北京周辺の百ヶ国を与え、日本の関白には大和中納言・羽柴秀保か、備前宰相・宇喜多秀家を任命する)

一、日本帝位の儀、若宮・八条殿何にても相究めらるべき事、

(後陽成天皇が明国皇帝となった暁には、日本天皇に皇太子・政仁親王(ことひと 若宮 後の後水尾天皇)か、皇弟・智仁親王(八条殿)を即位させる)

一、高麗朝鮮の事)の儀は岐阜宰相 然らば備前宰相置かるべく候、然らば丹波中納言九州に置かるべき候事、

朝鮮の総督には岐阜宰相・羽柴秀勝か、備前宰相・宇喜多秀家を任命し、九州の都督には丹波中納言・羽柴秀俊(後の小早川秀秋)を任命する)

以上の様に、明国「征服」後の人事迄考えられていたプランでしたが、当の秀吉自身については何一つ書かれていません。では、秀吉自身は一体どの様な地位に就くつもりだったのでしょうか。実は、先の覚書と同じ、5月18日付の山中橘内(きつない)の書状に秀吉自身の事が書かれています。それに因れば、秀吉自身は、北京、寧波(ニンポー:支那中部の港湾都市)を経て、天竺(てんじく) ―― つまりインドを攻略すると言っているのです(と言う事は、秀吉自身はインド皇帝にでもなるつもりだった?)。つまり、秀吉は、統一日本を拠点に、コリア・支那・インド ―― 東アジア全域にわたる大帝国を築こうと考えていたのです。

果的に「明国征服」は、その端緒である朝鮮征伐の失敗と秀吉の死によって、幻に終わりました。しかし、秀吉をして、そこ迄夢想させたモノとは一体何だったのでしょうか? それこそ、天下人・織田信長の「正統な後継者」としての使命感だったのではないでしょうか? と言う訳で次回は、秀吉をして、「明国征服」に駆り立てたモノについて書いてみたいと思います。




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