Reconsideration of the History
126.国際表記を「日本海」から「東海」へ ── 日本海を巡る韓国側主張の矛盾 (2003.8.8)

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極東地図 成14(2002)年8月、国際海図の指針を策定している国際機関「国際水路機関」(IHO)が、平成15(2003)年に改訂する国際海図作成のガイドライン『海洋の境界』に於いて、「日本海」(Sea of Japan)を「表記紛争海域」であるとして削除・空欄とする最終案を加盟各国に提示し、日本に衝撃を与えました。結果的に、この問題は日本の抗議が受け入れられる形で、「日本海」項目復活(現状維持)の方向で一件落着した訳ですが、では、何故、この様な騒動が起きてしまったのか? 実は、韓国がIHOに対して、ある政治的圧力をかけた事がきっかけだったのです。曰く、

「現在、国際的に定着してしまっている『日本海』と言う呼称は、そもそも日本による植民地支配によって広まったものであり、我々は古代より『東海』(トンヘ)と呼んでいた。故に、国際表記に於いても、『日本海』から『東海』へ変更するか、若しくは暫定措置として、『日本海』と『東海』を併記すべきである。」
この圧力を受けたIHOは、日韓双方の板挟みになる事を嫌い、
「IHOは政治的問題に関与できない。」
として、この問題を今後、日韓両国間の協議に委ねる事とし、その結果が出る迄は暫定的に「日本海」の項目を削除して対処しようとした訳です。そして、その顛末が前述の様に、日本の抗議と主張が概ね加盟各国に受け入れられた事で決着した訳ですが、これで一件落着したとは言えません。何故なら、韓国は自国の主張を撤回して等いないのですから。と言う訳で、今回は、「日本海」呼称問題を歴史的経緯から見てみたいと思います。

国は、「日本海」の呼称について、

「『日本海』と言う呼称は、そもそも日本による植民地支配によって広まった」
と主張していますが、果たして本当にそうなのでしょうか? それを検証するのには、古地図に「日本海」がどの様に記載されていたのかを見るのが一番です。以下に掲げるものは、Qun氏が大阪大学所蔵『西洋古版アジア地図』の調査を基に作成した日本近海の呼称変遷表です。

大阪大学所蔵の『西洋古版アジア地図』における日本近海の呼称
No. 制作年 日本海 朝鮮海 東海 カムチャツカ海 その他 制作地 制作者 基資料 備考
1 1572           T.Porcachi オルテリウス 朝鮮半島無し
2 1640           N.Sanson バルブダ  
3 1650           Blaue バルブダ  
4 1650           J.Jansonius マルコポーロ タルタリア図・日韓共に無し
5 1650           N.Sanson バルブダ  
6 1650           N.Sanson No.4 タルタリア図・朝鮮が島・日本無し
7 1670           N.Sanson パーチャス 朝鮮は島
8 1677           P.Duval パーチャス  
9 1670           G.Sanson サンソン図 北海道あり(大陸と結合)、津軽海峡の記述あり
10 1683           Manesson-Mallet マルティーニ  
15 1683           Vignola サンソン図  
16 1684           Duval Vignola タルタリア図・日韓共に無し
17 1690           de Wit マルティーニ 北海道あり(ぼかし)
18 1690           Witsen ロシア調査記録 日本無し
19 1703           H.Scherer B.Ginnaro 北海道あり(本州と結合)
20 1705           N. de Fer マルティーニ 北海道あり(大陸と結合)、津軽海峡の記述あり
21 1710         H.Moll   北海道あり(大陸と結合)
25 1738  ●?  ●?     Tirion マルティーニ 「カムチャッカ海」の一部として、「Mer de COREE」(朝鮮海)・「MER SEPTNTRIONALE DU JAPON」(北日本海?)あり
26 1738         Tirion マルティーニ  
27 1739         J.M.Hass 康煕内府図→ダンヴィル 「MARE ORIENTA」(オリエント海)と記述
29 1745           G. de L'Ile ロシア調査記録 日本は端に一部が描かれている
30 1745         Tirion マルティーニ 日本の東側が「MARE DEL GIAPONE」(日本海)
33 1749         Vaugondy 日本本土はケンペル図、大陸部分はダンヴィル図  
34 1752         J.Gibson マルティーニ  
35 1750           J.N.Bellin プレヴォー  
36 1752  ●?  ●?       J.N.Bellin ケンペル 玄界灘を「MER DE CORRE」(朝鮮海)とし、日本南側を「MER DU JAPON」(日本海)としている
39 1752         英国地図を模写 遼東半島及び朝鮮図
43 1755           Pretot ダンヴィル  
44 1755         Vaughondy ダンヴィル  
45 1771           R.Bonne ダンヴィル  
47 1772           Vaughondy ダンヴィル  
48 1776           R.Bonne ダンヴィル・康煕内府図  
49 1776           R.Bonne ダンヴィル・康煕内府図  
55 1786           R.Bonne ダンヴィル  
56 1788           R.Bonne ダンヴィル  
58 1788           R.Bonne ダンヴィル  
59 1788           R.Bonne ダンヴィル  
62 1794         Lamarche   「津軽海峡」の記述あり
63 1797           La Perouse ダンヴィル+ケンペル 対馬海峡を「DETROIT DE COREE」(朝鮮海峡)と記述
64 1798         La Perouse    
74 1803         E.Mentelle R.Bonne+La Perouse  
76 1804         ダンヴィル 対馬海峡を「DETROIT DE COREE」(朝鮮海峡)と記述
77 1809         J.Pinkerton ダンヴィル+ヴォーゴンディ 対馬海峡を「DETROIT DE COREE」(朝鮮海峡)と記述
78 1810         J.Playfair ダンヴィル 対馬海峡を「STRAIT OF COREE」(朝鮮海峡)と記述
79 1815         J.Thomson ダンヴィル 同上
80 1817         J.Thomson ダンヴィル  
84 1835         J. & C. Walker クルーゼンシュテルン、ケンペル 対馬海峡を「STRAIT OF COREA」(朝鮮海峡)と記述
85 1844         A.K.Johnston ダンヴィル 対馬海峡を「STRAIT OF COREE」(朝鮮海峡)と記述
86 1847         V.Levasseur ダンヴィル  
87 1851         J.Rapkin J. & C. Walker 対馬海峡を「STRAIT OF COREA」(朝鮮海峡)と記述
90 1864         J.Bartholomew 地図編集で世界的に名高いバーソロミュー家 同上
91 1865         A.-H.Brue ダンヴィル 対馬海峡を「DETROIT DE COREE」(朝鮮海峡)と記述
93 1865         カトリック伝導団   同上
94 1870         A.Petermann Hand-Atlas 国境線が描かれているが、竹島のみならず鬱陵島まで日本。尖閣諸島も日本領とされている。
95 1872         E.Weller 日本輿地路程全図 対馬海峡を「STRAIT OF COREA」(朝鮮海峡)と記述
96 1874         J.Migeon ダンヴィル  


  1. [No.]・・・・・・上記「西洋古版アジア地図」での番号。番号に抜けがあるのは、航海図・港湾図・挿し絵等、無関係な資料を除外した為による。
  2. [制作年]・・・地図が製作された年。
  3. [日本海]・・・「朝鮮海」・「東海」・「カムチャツカ海」・「その他」・・・地図に名称が記載されている所に●印を付けてある。
  4. [制作地]・・・地図が制作(発行)された国。
  5. [制作者]・・・地図の制作者(出版社)の名称。
  6. [基資料]・・・その地図を製作するのに基となった資料。多くはマルコポーロ以降の伝聞により作成された中世の地図の名称。
  7. [備考]・・・・・地図上の特筆事項を記述。
これによると、1700年以前に於ける西洋のアジアに対する知識や情報は甚だ貧弱で、地図の中には、日本列島・朝鮮半島が描かれていない物もあり、同時に、日本列島の記載が無い事から、「日本列島と朝鮮半島・ユーラシア大陸に囲まれた閉鎖海域」である日本海の記載も無い様な状態でした。その後、1700〜1760年代にかけての地図には、「朝鮮海」(Mer de COREE)が多く登場しますが、「カムチャツカ海」(オホーツク海)の一部として「朝鮮海(湾?)」・「日本海(湾?)」を記述している物が多く、中には日本列島東南方の太平洋を「日本海」と記載している物がある等、正確な地理認識に欠けており、これらの地図に登場する「朝鮮海」を以て日本海の原呼称だったと断定するには些(いささ)か無理があるのです。(1760〜1800年代の地図は、フランス人 R.Bonne作成の物が多く、名称の記載が殆(ほとん)ど見られない) この様な状態にあった西洋の地図だった訳ですが、1798年以降の地図は何(いず)れも、「日本列島と朝鮮半島・ユーラシア大陸に囲まれた閉鎖海域」を「日本海」と統一表記する様になり、以後、今日に至っています。これは西洋諸国が極東事情に明るくなった事もさる事ながら、日本国内外に於いて測量が競って行われる様になった事も理由の一つです。兎も角も、この様な歴史的経緯を経て「日本海」の呼称が国際表記として定着した訳です。

て、話を戻しましょう。前述の様に韓国は、

「『日本海』と言う呼称は、そもそも日本による植民地支配によって広まったもの」
と主張している訳ですが、西洋の地図に於いて「日本海」表記が登場したのは、1798(寛政10)年の事です。時は徳川第11代将軍・家斉公の治世で、言う迄も無い事ですが、当時の日本は「泰平の眠り」(鎖国状態)の真っ只中。韓国が主張する様な「植民地支配」どころか、海外渡航でさえ禁止されていたご時世。ましてや、日本に近代軍制に基づく常備軍としての「海軍」さえ存在していなかった時代です。つまり、西洋が「日本列島と朝鮮半島・ユーラシア大陸に囲まれた閉鎖海域」を「日本海」と呼ぶ様になった事に対して、当の日本は何らの働きかけもしてはいなかった事になります。又、韓国は、
「我々は古代より『東海』と呼んでいた。」
共主張していますが、西洋の古地図には、「東海」(トンヘ East See)と言う呼称は只の一度も登場しません。つまり、韓国がこの問題でどの様に主張しよう共、歴史的経緯を見る限り、国際表記としての「日本海」呼称に挟み込む余地等何らあり得ないのです。

に、「日本海」が何故、「日本海」の国際表記で呼ばれるのか?について考えてみれば、より一層合点がいきます。「日本海」と言う呼称は、「日本列島と朝鮮半島・ユーラシア大陸に囲まれた閉鎖海域」である事からそう呼ばれる事となった訳ですが、その「日本海」に対して、韓国あるいは北朝鮮、もしくは、朝鮮半島(南北朝鮮)の海岸線が「日本海」と接している距離と、日本の海岸線が接している距離のどちらがより長いか? 地図を繙(ひもと)く迄も無く、日本の方が圧倒的に長いのです。それにも関わらず、接する距離が大きい日本の名を冠した国際表記「日本海」を差し置いて、わざわざ、接する距離が小さい韓国の「東海」に変更する必然性が果たしてあるのか? これは考える以前の問題だと思うのです。


参考資料


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