Reconsideration of the History
105.溥儀と「満州国」が傀儡ならば、ポル=ポト政権も「中国」の傀儡 (2002.8.7)

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り返しになりますが、支那は「満州国」を、

日本が「中国」の固有領土である満州を軍事占領・分断して作り上げた「傀儡国家」である
として「偽満」(偽満州国)と称し、れっきとした「独立国」だった歴史的事実自体を否定しています。確かに、「満州国」の建国に当時の日本(関東軍・日本政府・満鉄等)が深く関与した事は事実です。しかし、だからと言ってその事で「満州国」の存在自体を否定し、「日本の傀儡国家」として一蹴してしまうと言うのは、余りにも短絡的です。と同時に、「満州国」が日本の「傀儡国家」であり、日本は「満州国」問題で「中国」に対する「道義的責任」があると言うのであるならば、支那自身も「別の問題」に対する「道義的責任」があると言う事になるのです。そして、支那の「別の問題」に対する「道義的責任」は、「満州国」における日本の「道義的責任」等、遙か足元にも及ばないものなのです。しかし、支那はその「別の問題」に対して、今以て「道義的責任」の精算をしていません。いや、むしろ、関わり合いを避けていると言った方が妥当です。と言う訳で、今回は脇道に逸れますが、支那の「別の問題」を通して、「満州国」について論じてみたいと思います。

1975(昭和50)年4月、場所はカンボジアの首都・プノムペン。北ベトナム正規軍(共産軍)の支援を受けた「クメール-ルージュ」(Khmer rouge:「紅いクメール」の義,通称「ポル=ポト派」)が大攻勢をかけプノムペンは陥落、時の親米 ロン=ノル政権(クメール共和国)が崩壊しました。そして、翌1976(昭和51)年、ポル=ポト派の指導者・ポル=ポトが首相に就任、ここに、極端な共産主義を標榜したポル=ポト政権(民主カンプチア)が成立したのです。ポル=ポト派によってロン=ノル政権が崩壊した直後、市民達は「これで内戦が終わり平和な時代が来る」として、政権の座に着いたポル=ポト派とその指導者であるポル=ポト首相を歓迎・支持し、そして、期待しました。しかし、ポル=ポト政権は市民の期待を大いに裏切り、カンボジアに更なる混乱と闇黒の時代をもたらしたのです。

ル=ポト政権は、首都・プノムペンを始めとする都市部に住む住民を農村に強制移住させ、荒地開墾等の土木事業や集団農業化の名の下に強制労働に駆り立てました。又、時代錯誤も甚だしい貨幣・市場の廃止を断行し、経済を破壊。更には、スターリンの独裁や毛沢東の「文革」(文化大革命)に勝る共劣らない狂信(カルト)的な政策を進めました。それは、「知識は敵である」として、「オンカー」(「組織」の義)による恐怖政治体制の名の下に、医師・教師・技術者・官僚・芸術家等の知識人・文化人を始めとする数百万人もの国民を粛清・虐殺(犠牲者数は一般に300万人から200万人と言われているが、正確な数字は不明)ポル=ポト政権下のカンボジアをして「キリング・フィールド」(Killing field:「虐殺地帯」)と言わしめる所以(ゆえん)となったのです。

1979(昭和54)年1月、ベトナムに亡命していたヘン=サムリン率いるカンボジア救国民族統一戦線がベトナム軍の支援を得て、プノムペンを攻略。ここに、ポル=ポト政権は崩壊し、新たに親越のヘン=サムリン政権(カンボジア人民共和国)が成立した訳ですが、ポル=ポト派は北部の密林地帯に移り、シハヌーク派・ソン=サン派と共に反越三派連合(民主カンプチア)を結成、1993(平成5)年に新生カンボジア王国が成立する迄、武装闘争を繰り広げたのです。さて、ポル=ポト政権成立当時、人口およそ800万人と言われたカンボジアにおいて、政権崩壊に至る僅か四年余で100万人もの国民を虐殺・餓死させ、その他の犠牲者も含む総数が、実に全人口の3割にも相当する200万人から300万人と言われる現代史上稀に見る犯罪を犯したポル=ポト政権ですが、そのポル=ポト政権を陰に日に支援していたのは、他でも無い「中国」(支那)なのです。

ル=ポト政権の政策には、毛沢東主義や文革に見られた「中国」的共産主義が色濃く投影されており、支那自身も同じ共産主義政権と言う親近感と同時に、国境紛争で対立してきたベトナム(所謂「中越紛争」)に対する牽制と、東西冷戦における「東側」の一員としてのカンボジアへの期待感から、ポル=ポト政権への支援を惜しみませんでした。つまり、ポル=ポト政権の存立に支那が関与したと言う事は、同時に、ポル=ポト政権による「大量虐殺」(ジェノサイド)に対して、支援国である支那にも「道義的責任」があると言う事なのです。

本は「満州国」の建国に深く関与し、その後も政治・軍事・社会基盤(インフラ)整備等、多岐にわたって支援しました。しかし、日本は「満州国」において、匪賊(集団的に略奪等を行う支那特有の武装犯罪者集団)掃討を支援し、治安維持には協力しましたが、ポル=ポト政権が行った様な「満州国」国民に対する大量虐殺等には手を染めませんでしたし、よしんば、「満州国」政府がその様な政策を実施しようとしたとしても、許さなかった事でしょう。それに対して支那は、ポル=ポト政権がカンボジア国内で自国民を大量虐殺している事を知りながら、その様な犯罪行為に目を瞑(つむ)り、同政権を支援し続けた訳で、到底「道義的責任」は免れません。しかし、支那はポル=ポト政権による「大量虐殺」については、今以て「知らぬ存ぜぬ」(自国には関係の無い事と言うスタンス)を通し、「道義的責任」についても一切の責任を負ってはいません。もしも、「満州国」が日本の「傀儡国家」であり、日本が「満州国」問題で支那から「戦犯」として「道義的責任」を問われるのだとすれば、日本の支援した「満州国」を遙かに凌ぐ犯罪に手を染めたポル=ポト政権(民主カンプチア)も又、支那の「傀儡国家」と言う事になり、その支援国だった支那も「戦犯」として「道義的責任」を問われなくてはならないと思うのですが、皆さんは、如何思われたでしょうか?


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