Reconsideration of the History
104.日本にとっても壮大な実験場だった「満州国」 (2002.7.7)

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103.対日国防委任=傀儡国家「満州国」論は成立しない・前々回102.「満州国」を「偽満」と呼び、「満州」を「東北」と称す支那の欺瞞と二回にわたって、私は、「満州国」が日本の「傀儡国家」では無い事を論じてきました。とは言え、「満州国」に於ける日本の立場やその影響力まで否定するつもりは毛頭ありません。むしろ逆に、「満州国」と言う国家が、日本あっての「満州国」であったとさえ思っています。これは、「傀儡国家」論を否定してきた事と相矛盾するかも知れません。しかし、石原莞爾等の計画の下、関東軍の「独断」によって満州事変が勃発、「満州国」建国に至った経緯と、その後、本国たる日本が「満州国」を正式に承認し、政治・軍事・経済とあらゆる面で、「満州国」を支援してきた点から考えて、むしろ当然の帰結と言えます。いや、それ以上に「海洋国家」(島国)である日本は、独仏両国を合わせたよりも遙かに広大な「大陸国家」、「満州国」の国土を、壮大な実験場としてフル活用しました。と言う訳で、今回は「満州国」で開花した日本によるプロジェクトの一端を紹介したいと思います。

和39(1964)年10月1日、東京─新大阪間に「夢の超特急」が開業、運転を開始しました。これこそ、当時、東京オリンピック(同年10月10日開催)に合わせる形で、国鉄(現JR)が営業運転を開始した「新幹線」です。しかし、実は新幹線開業を遡(さかのぼ)る事30年前、既に日本は「夢の超特急」を完成、営業運転を開始していたのです。それも、満州の地で・・・。

大陸縦貫特別急行「あじあ号」 和9(1934)年11月1日、「満州国」で世界を驚嘆させる列車が運行を開始しました。満鉄(南満州鉄道株式会社)がその技術の粋を集め、日満両国がその威信に賭け、世界に先駆けて完成実用化したその列車こそ、大陸縦貫特別急行「あじあ号」だったのです。初代新幹線(ひかり号)にも通ずる流線型のモダンな外観(フォルム)と、スカイブルーに塗装された「パシナ」型(パシフィック7型)蒸気機関車に牽引された「あじあ号」は、当時の世界各国の主要鉄道を凌ぐ平均時速82.5Km・最高時速120Kmで運行、それ迄二日かかっていた大連─新京(「満州国」の首都、現・長春)間701.4Kmを、何と8時間30分で接続したのです。(翌年、ソ連から北満州鉄道を買収後、大連─ハルビン間944Kmに路線延長、当初は13時間30分、後に12時間30分で接続) ちなみに、当時、日本国内で最も速かった営業車輌は、特急「燕」(つばめ)の平均時速60.2Km・最高時速95Kmで、最高時速100Kmを超える蒸気機関車は存在しませんでした。そんな時代、超特急「あじあ号」は許容最高時速130Kmを誇ったのです。しかし、超特急「あじあ号」が誇ったのは、「速さ」だけではありませんでした。

特急「あじあ号」は前から順に、手荷物郵便車・3等客車(定員88名)2輌・食堂車・2等客車(定員68名)・展望1等客車(定員計48名、内展望1等車30名・展望室12名)の全6両編成だったのですが、何と、全車輌が寒暖の差が激しく厳しい満州の気候風土(真夏は摂氏30度以上、真冬は氷点下3〜40度)に対応する為に密閉式の二重窓を備え、客車には冷暖房装置(エアコン)を完備していました。当時、日本国内の鉄道でさえ、前述の特急「燕」が食堂車に冷房装置(クーラー)を装備していた程度で、世界を見渡しても全車輌冷暖房完備の鉄道は殆ど類例が無く、運行速度・豪華装備から見ても、超特急「あじあ号」は、その優雅さで知られるオリエント急行、あるいは現在の新幹線にも匹敵する正に「夢の超特急」だったのです。しかし、陸上交通は何も鉄道だけとは限りませんでした。

「瀋大高速公路」関連地図 和17(1942)年、「満州国」でアジア初の高速道路建設がスタートしました。ハルビン(哈爾浜)から新京、奉天(現・瀋陽)を経て、大連に至る総延長900Km超の高速道路は「哈大道路」と呼ばれ、「満州国」に於ける自動車道の大動脈となる事を期待されていました。しかし、建設着手から3年後の昭和20(1945)年、路線の一部が完成した状態で終戦を迎えました。その後、「哈大道路」の建設は支那に引き継がれましたが、結局、支那の要請によって日本が技術協力し、平成2(1990)年、瀋陽(旧・奉天)─大連間375Kmが完成、終戦後45年を経てようやく「中国」初の高速道路「瀋大高速公路」として、「哈大道路」は全線開通したのです。ちなみに、「哈大道路」の建設着手は、昭和40(1965)年に全線開通した日本初の高速道路「名神高速道路」(愛知県小牧市─兵庫県西宮市)を遡る事、実に20年も前です。

水豊ダム の他、世界屈指の豊満ダム(第二松花江)を始めとして、鏡泊湖(牡丹江)・桓仁(渾江)・水豊(鴨緑江;左写真)と言った巨大な水力発電用ダムが次々と建設されると共に、「満鉄」に続いて、日本産業株式会社(鮎川財閥)を母体とする「満業」(満州重工業開発株式会社)が設立される等して、日本は「満州国」と言う壮大な実験場で、ちっぽけな「島国」では出来なかった大プロジェクトを次々と実現させていったのです。そして、「満州国」の国土に於ける様々な「実験」を通して得たデータと技術力で、日本は敗戦後の焦土から奇跡の復興を果たし、ひいては、世界有数の、新幹線に代表される鉄道網、東名・名神に代表される高速道路網が整備されるのに必要なバッグボーンを獲得したのです。

方、現在の満州(現・「中国東北部」)は、「満州国」時代に整備された多くのインフラによって、戦後半世紀を経た現在も、依然として支那における重工業地帯として重要な地位を占めています。そして、現在の「中国」=共産党が、国共内戦を制して支那の支配権を獲得出来たのも、実は、彼らが「傀儡国家」と称する「満州国」があったからこそなのです。その事は、昭和20(1945)年4月、毛沢東が首都・延安で開催された中国共産党七全大会に於いて、

「もし、我々が全ての根拠地を失ったとしても、東北(満州)さえあれば、それだけで中国革命の基礎を建設する事が可能である」
と発言した事が、いみじくも証明しており、同時に、戦後、「満州国」の膨大な遺産を食い潰(つぶ)して国家を「発展」させてきた「中国」(支那)の限界をも証明しているのです。(了)


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