Reconsideration of the History
102.「満州国」を「偽満」と呼び、「満州」を「東北」と称す支那の欺瞞 (2002.5.7)

前のページ 次のページ


満州国旗「新五色旗」 つて「満州」 ── 現在、支那が「中国東北部」と呼ぶ地域に、建国から僅か13年で消滅した「合衆国」がありました。その名を「満州国」(1932-1945)と言います。日本の関東軍作戦主任参謀であった石原莞爾が、わざわざ「満州事変」を起こす迄して産み出した極東の理想国家。清朝最後の皇帝・愛新覚羅溥儀(宣統帝)を国家元首(当初は執政、後に皇帝)に戴き、「五族協和の王道楽土」を国家の根本理念とし、満州の地に「五族」(日本・朝鮮・満州・蒙古・漢民族)、ロシア革命によって亡命した白系ロシア人・ユダヤ人等の多民族からなる「合衆国」が存在したのです。しかし、「日満一体」(日本と満州国は一蓮托生であり運命共同体)の名の下、日本との結び付きが余りにも強固だったが故に、大東亜戦争(太平洋戦争)に於ける日本の敗戦に際して、「満州国」もその歴史に終止符(ピリオド)を打ったのです。そして、今日、支那全土を支配下に置く「中国」は、「満州国」を日本が「中国」の固有領土である満州を軍事占領・分断して作り上げた「傀儡国家」である、と言う意味を込めて「偽満」(偽満州国)と呼び、同時に、地域名である「満州」(マンチュリア Manchuria)を「中国東北部」と改称し、「満州」の呼称を事実上禁じています。しかし、果たして支那の「偽満」と言う主張は正しいものなのでしょうか? 「満州」と言う地域名は禁忌(タブー)扱いされるべきものなのでしょうか? 私は決してその様には思いません。むしろ、支那によるこの様な主張にこそ、大きな問題があると思っています。と言う訳でこの問題について書いてみたいと思います。

「満州」は一体誰のもの(何処の国の領土)か? この単純な質問に皆さんはどの様に答えられるでしょうか? もし、あなたが、「満州」は「中国」(支那)のものである、と答えられたとしたら、それはあなたの「満州」に対する認識(見方)が浅いと言う事になります。と言うのも、「満州」が支那の正式な領土(実際には「正式」では無いのだが)に編入されたのは、1949(昭和24)年の「中華人民共和国」成立以降、つまり、「中国四千年」と称す支那の悠久な歴史の中では、文字通り「つい最近」の事なのです。そんなまさか、と思われるでしょうが、これは事実です。

「満州」の語源は、清朝を建国したツングース系遊牧民族である女真(ジュルチン)族の「文殊(もんじゅ)菩薩」(文殊師利菩薩:梵語で「マンジュシュリ」)信仰と関係があり、の太祖・ヌルハチが、1616年、全女真(満州)族を統合・建国した際、国名を「後金国」(Aisin Gurun)又の名を「満住国」(満州国 Manju Gurun)とし、自らの民族名を「満州」(Manju)と称した事に由来すると言われています。つまり、ヌルハチが、従来からの民族名である「女真」(「女直」共書く)を「満州」に改め、自分達の住む土地を「満州」(満住)と称したのが、「満州」と言う語の起源なのです。ちなみに、「満州」を領有した民族・国家は、

「満州」を領有した民族・国家
等ですが、何(いず)れも非漢民族国家ばかりです。ヌルハチが生きていた時代、明王朝が支那を統治していましたが、その明でさえ、「満州」 ── 当時の「女真」(南から「建州・海西・野人」の三地域に大別)については、地域の部族長に適当な官職を授けて懐柔し、明に刃向かわない様にし向ける程度で、直接支配をする気はありませんでした。と言うよりも、そもそも、(支那)は、万里の長城の東端、山海関を境に北に広がる「野蛮人」(遊牧・狩猟民族)の住む「満州」に足を踏み入れよう等とは露とも思ってはいなかったのです。そして、その明を、ヌルハチに始まる清朝が滅ぼし、ヌルハチの曾孫(ひまご)康煕帝の代に支那全土の「征服」を達成したのです。ですから、支那本土と「満州」が一体(一つの国)だったの時代とは、支那が「満州」を併合したのでは無く、逆に「満州」が支那を併合したと言うのが正しい見方な訳です。しかし、こう言われる方もおありでしょう。
「満州国」建国前、既に満州は、張作霖・学良父子(奉天軍閥)が支配していたでは無いか。いや、それ以前に、満州には多くの漢民族が住んでいたでは無いか
と。確かに、「満州国」建国以前、「満州」に既に多くの支那人が住んでいたのは事実です。しかし、だからと言って「満州」が支那人の土地であるかと言うと、決してそうではありません。何故なら、当時、「満州」に住んでいた支那人の多くが「不法侵入者」(及びその子孫)だったからなのです。

の時代、王朝(政府)によって、「満州」は「父祖発祥の地」(母国)であると言う理由で、

漢民族は入るべからず

と言う政策(封禁策)が概ね採られていました。この封禁策が廃止され、満州への非満州族移民が解禁されたのは日清戦争以後の事ですが、解禁以前から御法度を破って満州に侵入し土着する支那人が後を絶ちませんでした。そして、その流入量は、辛亥革命によって清朝が滅亡し、各地に軍閥が乱立した「中華民国」の時代、爆発的に増加し、戦乱と荒廃を避ける様に大量の支那人流民が「駆け込み寺」としての満州を目指したのです。これは、アフガニスタンの内戦を避けて、隣国パキスタンに大量のアフガン難民が流入したのと同じです。つまり、「満州国」建国以前、既に「満州」には多くの支那人が住んでいましたが、だからと言って、その事で「満州」が「支那人の土地」であるとは、到底言えないのです。そして、もし、その様な論理が通用するとなると、パキスタンに流入したアフガン難民達が、「ここは我々の土地である」、と主張する事も認められる事になってしまいます。しかし、その様な主張をされたとして、パキスタン側がそれを認めるでしょうか? 答えは端から決まり切っています。

て、ここで改めて、「満州国」が支那の主張する様に「偽満」 ── 「偽満州国」であったかどうかについて論じます。今迄見てきた様に、支那が「満州」を領有した歴史は一度たりともありません。又、「満州国」建国以前、既に多くの支那人が「満州」の地に住んではいましたが、彼らが清朝による封禁策を破って移住した不法侵入者とその子孫、内戦を避けて流入した難民(流民)であった以上、現在の支那が、

「満州国」は、日本が「中国」の固有領土である満州を軍事占領・分断して作り上げた「傀儡国家」である
と言う主張に正当性はありません。いや、むしろ、終戦の混乱の中、康徳帝(溥儀)の退位によって崩壊した旧「満州国」が領した広大な土地(独仏両国に匹敵する面積)を併合した支那が、その正当性を裏付ける為に叫んでいる欺瞞、それが「満州は中国固有の領土である」と言う主張であり、「満州」と言う地域名を「中国東北部」と改称し、「満州」と言う語を禁忌とする事で、「満州」(に存在した国であり民族)そのものを、歴史の中に風化・埋没させようと画策しているのです。


   余談(つれづれ)

那に「中国東北部」(旧満州) がある様に、日本にも「東北地方」があります。しかし、両国の「東北」に対するスタンスは正に似て非なるものです。日本では「東北地方」に対して、ある種の郷愁(ノスタルジア)を込めて、今でも「みちのく」(陸奥)と呼ぶ事があります。その「みちのく」はと言えば、日本(大和朝廷とその後継政権)によって併合された地域な訳ですが、日本が「みちのく」の呼称を禁忌とし、国の内外に対して「東北」と呼ぶ様、強要した事は一度もありません。(「沖縄」に対する「琉球」の旧称についても同様) それに対して、支那は・・・前述の通りです。同じ「東北」に対する両国のスタンスの違い ── これこそ、支那が「満州」に対して、「後ろめたさ」を感じている証拠とは言えないでしょうか。(了)


   読者の声 (メールマガジン ≪ WEB 熱線 第1146号 ≫ 2009/3/6_Fri ― アジアの街角から― のクリックアンケートより)

アンケート結果