Reconsideration of the History
214.天皇陛下は朝鮮人の子孫? いや、日本人だって朝鮮の王だった!! (2009.9.1)

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桓武天皇肖像画(比叡山延暦寺蔵)
桓武天皇肖像画 (比叡山延暦寺蔵) 
「桓(かんむ)天皇の生母は百済(くだら)の武寧王の子孫であると『続日本紀(しょくにほんぎ)』に記されている事に韓国との所縁(ゆかり)を感じています」 ── これは、平成13(2001)年12月23日、天皇陛下が68歳の御誕生日に先立つ記者会見の席に於いて、翌年開催予定だったサッカー・ワールドカップ日韓共催に関するコメントの中で口にされたお言葉です。

武天皇(左肖像画)とは第50代の天皇(在位 781-806)で、延暦3(784)年に平城京(現奈良県奈良市及び大和郡山市一帯)から長岡京(現京都府向日市・長岡京市・京都市西京区一帯)へ、延暦13(794)年には後(のち)に「千年の都」と称される事になる平安京(現京都市中心部)へ遷都した事で知られ、平安時代の幕を開いた天皇として夙(つと)に有名です。その桓武天皇を引き合いに出して、母親が百済武寧王の子孫 ── 詰まりは、朝鮮人の子孫 ── だと「現役の天皇」(今上天皇)が発言した訳で、日本国内では大した反応は無かったものの、韓国のマスコミでは大々的に取り上げられ、「天皇家は韓国人の血筋を引いている」、「日本皇室の起源は百済にある」等と正(まさ)に鬼の首でも取ったかの様に話題となったものです。

大内義隆公像(大寧寺蔵)
大内義隆公像 (大寧寺蔵) 
あ、桓武天皇の生母であった贈太皇太后・高野朝臣新笠(たかののあそみにいかさ;789年崩御)が渡来人の子孫だった事は確かです。彼女に付いては、先述の通り、『日本書紀(やまとのふみ)』に次ぐ勅撰(ちょくせん)史書『続日本紀』に、百済第25代武寧王(在位 502-523;諱(いみな)を「斯摩(しま)」と言い、『日本書紀』にも「嶋君(しまのきみ)」として登場する)10世の子孫(武寧王から4代、和氏(やまとのうじ)となって6代)として記述されており、祖先が半島の出身だったであろう事は疑う可(べ)くも無いでしょう。然(しか)し、高野朝臣新笠の代で既に10代目とも成れば相当以上に日本に同化していた筈で、祖先の出自は兎(と)も角として、当の本人を「百済人」(朝鮮人)と果たして呼べるか否(いな)か甚(はなは)だ疑問です。(ロシア人の血が16分の1、体の中に流れている私はロシア人なのか? いや、そうでは無いでしょう。これでも、れっきとした日本人です) 例えば、戦国時代、周防国(すおうのくに;現山口県東部)を拠点に、長門国(ながとのくに;現山口県西部)・石見国(いわみのくに;現島根県西部)・安芸国(あきのくに;現広島県西部)・備後国(びんごのくに;現広島県東部)・豊前国(ぶぜんのくに;現福岡県東部及び大分県北部)・筑前国(ちくぜんのくに;現福岡県西部)、そして、山城国(やましろのくに;現京都府南部)をも領した西国(さいごく)随一の大大名、大内氏(多々良氏)は、百済武寧王の子、第26代聖明王(在位 523-554)の第三王子・琳聖(りんしょう)太子の子孫を称していましたが、だからと言って彼らは「百済人」だったのでしょうか? その出自がどうであれ、彼らはれっきとした「日本人の大名」であり、誰もがその事に何らの疑問も抱いて等いませんでした。日本に帰化後も、百済人同士で何世代にも亘(わた)って通婚し、百済人の血(の濃さ)を保ったと言うのであれば「百済人」共言えるでしょうが、他の日本人との通婚を重ね同化していったのであれば、例え、祖先が百済人だったとしても、それは最早(もはや)「日本人」、百歩譲ったとしても「百済系日本人」と言うのがせいぜいだったのでは無いでしょうか?

(さて)、此処迄(ここまで)は、日本の皇室に百済(朝鮮)の血が入っていたと言う話でしたが、それとは反対に、朝鮮のとある王朝に日本人の血が流れていたと言う話をしたいと思います。古代朝鮮には、満洲から半島北半に掛けての地域に夫余(ふよ;大夫余)と其(そ)の後身である高句麗(こうくり;高麗 こま)、南半に三韓(馬韓・弁韓・辰韓)を経て、西側に百済、東側に新羅(しらぎ)、そして、南岸に伽耶(かや;加羅)諸国が林立していました。此(こ)の内、夫余→高句麗→渤海(ぼっかい)と、南扶余(みなみふよ)→百済が、実は日本と兄弟関係にある国だった事は以前の小論で述べましたが(詳しくは「16.日本と満州は兄弟国だった!! 幻の日本・渤海同盟」を参照の事)、今回、取り上げるのは、高句麗でも無ければ百済でもありません。百済、次いで高句麗を「虎の威」たる唐の軍事力を背景に滅亡させ、676年、遂に朝鮮半島の統一を果たした新羅の王朝に付いてです。

羅の王朝は、朴(ぼく,パク)・昔(しゃく,ソク)・金(きん,キム)の三姓からなる複雑な王統を有し、朴姓の王統が滅んで昔姓の王統に、更に昔姓の王統が滅んで金姓の王統に交替した訳ではありません。金姓王統の継続継承確立以前は、姻戚関係と国人の推挙を基本とする「王位の持ち回り」だった観があります。この三姓王統の内、昔姓王統の祖が実は日本人だったのです。然(しか)も、その事は朝鮮側の史料にきちんと記述されている事なのです。

姓王統の祖は新羅第4代の王、脱解尼師今(だっかい-にしきん,タレ-イサグム;在位 57-80)と言います。因(ちな)みに、新羅では、初代・赫居世(かくきょせい,ヒョッコセ;在位 前69-後4)が「居西干(きょせいかん,ゴソガン)」、第2代・南解(なんかい,ナメ;在位 4-24)が「次次雄(じじゆう,チャチャウン)」、第3代・儒理(じゅり,ユリ;在位 24-57)から第18代・実聖(じっせい,シルソン;在位 402-417)迄は「尼師今」、第19代・訥祇(とつぎ,ヌルジ;在位 417-458)から第22代・智証(ちしょう,チジュン;在位 500-514)迄は「麻立干(まりつかん,マリッカン)」と独自の王号が用いられ、初めて「王」を称号として用いたのは、第23代・法興王(ほうこうおう,ポップンワン;在位 514〜540)とされています。(日本の「天皇(てんのう)」が、当初、「大王(おおきみ)」や「主明楽御使(すめらみこと)」を名乗っていたのに相通じる) 話が横道に逸(そ)れてしまいましたが、この昔姓王統の祖である脱解尼師今に付いて、現存する朝鮮最古の史書『三国史記(さんごく-しき,サムグク-サギ)(1145年完成)の新羅本紀(ほんぎ)・脱解尼師今紀に、この様な記述が残されています。(以下、全文)

原文

 脱解尼師今立、一云吐解。時年六十二、姓昔。妃阿孝夫人。脱解本多婆那國所生也。其國在倭國東北一千里。初其國王娶女國王女為妻。有娠七年、乃生大卵。王曰「人而生卵不祥也。宜棄之」。其女不忍、以帛卵裏寶物置於櫝中、浮於海、任其所往。

 初至金官國海邊、金官人怪之不取。又至辰韓阿珍浦口。是始祖赫居世、在位三十九年也。時海邊老母、以繩引繋海岸。開見之、有一小児在焉。其母取養之。及壮身長九尺、風神秀朗、智識過人。或曰「此児不知姓氏。初来時、有一鵲飛鳴而隨之、宜省鵲字、以昔為氏。又解而出、宜名脱解」。

 脱解始以漁釣為業、供養其母、未嘗有懈色。母謂曰「汝非常人、骨相殊異、宜従學、以立功名」。於是、専精學問、兼知地理、望楊山下瓠公宅、以為吉地。設詭計、以取而居之。其地後為月城。

 至南解王五年、聞其賢、以其女妻之。至七年、登庸為大輔、委以政事。儒理将死曰「先王顧命曰[吾死後、無論子壻。以年長且賢者、継位]。是以寡人先立。今也宜伝其位焉」。

 二年春正月、拜瓠公為大輔。二月、親祀始祖廟。

 三年春三月、王登吐含山、有玄雲如蓋、浮王頭上、良久而散。夏五月、與倭國結好交聘。

 五年秋八月、馬韓将孟召、以覆巖城降。

 七年冬十月、百済王拓地、至娘子谷城。遣使請会、王不行。

 八年秋八月、百済遣兵、攻蛙山城。冬十月、又攻狗壌城、王遣騎二千、撃走之。

 九年春三月、王夜聞、金城西始林樹間、有鶏鳴聲。遅明遣瓠公視之。有金色小、掛樹枝、白鶏鳴於其下。瓠公還告、王使人取開之。有小男児在其中、姿容奇偉、上喜謂左右曰「此豈非天遺我以令胤乎」。乃収養之。及長聡明多智略、乃名閼智、以其出於金、姓金氏。改始林名鶏林、因以為國號。

 十年、百濟攻取蛙山城、留二百人居守。尋取之。

 十一年春正月、以朴氏貴戚、分理國内州郡。號為州主、郡主。二月、以順貞為伊伐委以政事。

 十四年、百濟来侵。

 十七年、倭人侵木出島、王遣角干羽烏、禦之。不克。羽烏死之。

 十八年秋八月、百濟寇邊、遣兵拒之。

 十九年、大旱。民饑。發倉賑給。冬十月、百濟攻西鄙蛙山城、抜之。

 二十年秋九月、遣兵伐百濟、復取蛙山城。自百濟来居者二百餘人。盡殺之。

 二十一年秋八月、阿吉門與加耶兵、戦於黄山津口、獲一千餘級。以吉門為波珍賞功也。

 二十三年春二月、慧星見東方。又見北方、二十日乃滅。

 二十四年夏四月、京都大風、金城東門自壊。秋八月、王薨。葬城北壌井丘。
和訳

 脱解尼師今が立った。一説に吐解と云(い)う。時に年62歳、姓は昔。妃(きさき)は阿孝夫人。脱解、本(もと)は多婆那国(たばなこく)で生まれた。その国は倭国の東北一千里に在(あ)る。初め、その国王は女国(場所不明)の王女を娶(めと)って妻とした。懐妊から7年、大きな卵を産んだ。王が言うには「人にして卵を生むのは不祥である。適当に廃棄せよ」と。その王女は忍び難(がた)く、絹布(けんぷ)に卵を包み、宝物と一緒に棺(ひつぎ)の中に安置し、海に浮べ、その行く先任を(潮流に)任せた。

 初めは金官国(現韓国慶尚南道金海市)の海辺に着いたが、金官人はこれを怪しんで取得せず。又、辰韓の阿珍浦海岸(現韓国慶尚北道慶州市)に漂着した。是(これ)は始祖・赫居世の在位39年(紀元前19年)のこと也。その時、海辺の老婆が(船を)縄で引き寄せて海岸に繋留させた。之(これ)を開けて見ると、一人の童児が中にいた。其の老婆は之を拾得して養育した。成長すると身長9尺、風貌は秀逸で明朗、智識は人に優れていた。或(ある)いは曰(いわ)く「此(こ)の児(こ)の姓氏は不明。初めて来た時、一羽の鵲(かささぎ)が飛来し、鳴きながら随伴したのだから、鵲の字を省略して、昔を以(もっ)て氏(うじ)と為(な)す。又、解(と)いて出てきたのだから、脱解と名付ける」。

 脱解は初め、漁釣(さかなつ)りを生業(なりわい)と為し、その母を供養し、未(いま)だかつて懈怠(けたい)の様子はなかった。母が言うには「汝(なんじ)は常人に非(あら)ず、骨相は特異、宜(よろ)しく学修し、功名(こうみょう)を立てなさい」と。是(ここ)に学問に専念し、地理にも通じ、楊山の麓の瓠公(ひょうこう)の居宅を展望して、吉運を生む地勢と観(み)た。詭計(きけい)を設(もう)け、詐取(さしゅ)して之(ここ)に住む。其の地は後(のち)に月城と為(な)す。

 南解王の治世5年(8年)、彼が賢人であるとの噂を聞き、娘を彼の妻にした。治世7年(10年)には大輔に登用して、政事(まつりごと)を委(ゆだ)ねた。儒理(尼師今)が死に際して「先王は遺命に曰く、「私の死後、無論息子や女壻(むすめむこ)を問わず、年長の賢者を以て王位を継(つ)がせよ」と。これを以て私が先に立ったが、今度は宜しく(脱解に)王位を相伝する」と。

 (即位)2年(58年)春正月、瓠公に大輔を拝命。2月、親(みずか)ら始祖廟で祭祀(さいし)

 3年(59年)春3月、王が吐含(とがん)山に登ると、黒い雲が蓋(ふた)のように王の頭上に現れ、しばらくして霧散した。夏5月、倭国と通好を結び、交互に使節を往来させる。

 5年(61年)秋8月、馬韓の孟召(もうしょう)将軍が覆巌(ふくがん)城で降伏した。

 7年(63年)冬10月、百済王が領土を広げ、娘子谷(じょうしこく)城にまで至る。遣使が会談を請うが、王は行かなかった。

 8年(64年)秋8月、百済が兵を送り込んで蛙山(けいさん)城を攻撃。冬10月、また狗壌(くじょう)城を攻撃してきたので、王は騎兵2千を派遣して、之(これ)を撃ち敗走させた。

 9年(65年)春3月、王は夜、金城(きんじょう;新羅の王都)西の始林の木々の間から鶏(にわとり)の鳴声を耳にした。夜明けを待って瓠公を遣(つか)わし、これを視察させた。金色の小函(こばこ)が木の枝に掛かっており、白い鶏がその下で鳴いていた。瓠公が帰還して報告すると、王は人に取りに行かせ、小函を開けた。小さな男児がその中にいた。容姿は大変立派で、王は喜んで左右の臣に曰く「此(これ)はきっと天神が私に後胤(こういん)として授(さず)けたに違いない」。そこで、収容して養育した。成長すると聡明で智略に富んでいたので、閼智(あっち)と名付けた。彼が金の函から出てきたので、姓を金氏とした。始林を鶏林(けいりん)と改名し、因(よ)って国号と為した。

 10年(66年)、百済が蛙山城を攻め取り、守備のため2百人を留(とど)めたが、取り返した。

 11年(67年)春正月、朴氏は貴い外戚なので、国内の統治を州郡で分けた。州主、郡主と号するようにした。2月、順貞を伊伐(いばつ)と為し、政事を委ねた。

 14年(70年)、百済が侵攻して来た。

 17年(73年)、倭人が木出島に侵入したので、王は角干(かくかん)の羽烏を送って、これを防衛させたが、勝てなかった。羽烏はここで戦死した。

 18年(74年)秋8月、百済が辺境で寇盗(こうとう)するが、兵を送ってこれを阻止した。

 19年(75年)、大旱魃(かんばつ)で民は飢餓状態となったので、食糧倉を開いて存分に与えた。冬10月、百済が西鄙(せいひ)の蛙山城を攻撃し、之(これ)を抜いた(敗った)。

 20年(76年)秋9月、派兵して百済を討伐し、再び蛙山城を取り返した。百済からの移住者2百余人を虐殺した。

 21年(77年)秋8月、阿吉門は加耶(かや)兵と黄山津(こうさんしん)の川岸で戦い、獲首(かくしゅ)1千余級。吉門を波珍(はちん)にして論功を賞した。

 23年(79年)春2月、慧星が東方や北方でも観測された。20日で消えた。

 24年(80年)夏4月、都城で大風が暴れ、金城の東門が自壊した。秋8月、王が薨(こう)じた。城北の壌井丘(じょうせいきゅう)に葬(ほうむ)る。

『三国史記』の記述を素直に受け取れば、昔姓王統の祖である脱解尼師今は朝鮮半島で出生した生粋の朝鮮人では無かった事になります。然も、その生国(しょうこく)は、倭国の東北一千里にある「多婆那国」とされ、彼は多婆那国の王と女国から嫁(とつ)いだ王妃との間に出生した多婆那国の王子だったと言う事になります。更に、彼は朴姓の王・南解次次雄の王女(阿孝夫人)を娶って王室に連なり、王の信任を背景に大輔の要職に就いて政務全般を取り仕切り、遂には、朴姓王統に代わって新たな王統を打ち立てる迄になりました。そして、彼の王統(昔姓王統)は、彼を含め、8人の王を輩出したのです。(下記系図の内、赤色が昔姓の王)

新羅王朝系図

三丹地域の地図ころで、昔姓王統の祖・脱解尼師今の出身地とされる「多婆那国(たばなこく)」は一体何処(どこ)なのか? これに付いては、倭国=日本列島内の「丹波国(たんばのくに)」と言う説が有力です。「丹波国」は7世紀から8世紀に掛けて、現在の京都府中部と兵庫県東辺の一部及び大阪府高槻市の一部・大阪府豊能郡豊能町の一部に当たる地域に確定する迄は、「但馬国(たじまのくに)(現兵庫県北部)・「丹後国(たんごのくに)(京都府北部)をも包含する山陰道の上国(現在、「三丹」と称される地域;右地図)で、古くは「田庭・谷端・旦波」等と表記され「たには」と呼ばれていました。そして、太平洋側が「海の表玄関」とされる現在とは逆に、日本海側が大陸・半島との往来を担う「海の表玄関」として機能していた古代に於いて、丹波国は、その中でも極めて重要な位置を占めていました。

、第52代・嵯峨天皇(在位 809-823)の勅命により編纂された日本古代の氏族名鑑『新選姓氏録(しんせんしょうじろく)(弘仁6=815年成立)の右京皇別下新良貴条(うきょう-こうべつのげ-しらきのくだり)には、以下の様な記述もあります。

原文

新良貴、彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊男稲飯命之後也。是出於新良国。即為国主。稲飯命出於新羅国王者組合。日本紀不見。
現代訳

新良貴(しらき)(氏)は彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけ-うがやふきあえずのみこと)の男(むすこ)である稲飯命(いなひのみこと)の後(のち)也。是(これ)新羅国に出(い)ず。即(すなわ)ち国主なり。稲飯命は新羅国に出て、王は祖合す。日本紀(やまとのふみ)には見えず。

此処には、日向(ひゅうが)三代の彦波瀲武鸕鶿草葺不合尊(ひこなぎさたけ-うがやふきあえずのみこと)の皇子(みこ)で、神日本磐余彦尊(かむやまと-いわれひこのみこと) ── 後に大和国畝傍橿原宮(やまとのくに-うねびのかしはらのみや;現奈良県橿原市畝傍町の橿原神宮)に於いて初代・神武天皇(伝在位 前660-585)として即位 ── の兄宮に当たる稲飯命(いなひのみこと)が、新羅王の祖先になったと書かれており、「多婆那国」から朝鮮半島へと渡り、新羅の王となった脱解尼師今の説話に相通じるものがあります。孰(いず)れにせよ、これらの点からすれば、日本(倭国)の「王子」であったか否(いな)かは別にしても、古代丹波地方の出身者=日本人(倭人)が朝鮮半島西南部を占めた新羅に渡り、彼(か)の地の王になったと記す『三国史記』の説話も、あながち架空とは言えないのです。

上の様に、日本人が新羅の王になったと言う話をしてきましたが、この事を現代のコリア人は一体どれ程、認識しているのか? 天皇陛下の御発言を「鬼の首でも取った」かの様に引き合いに出し、「天皇家は韓国人の血筋を引いている」、「日本皇室の起源は百済にある」等と言う前に、先(ま)ずは、朝鮮半島を初めて統一した王朝・新羅の第二の王統(昔姓王統)の祖が実は日本人だったと言う伝承こそ、民族の歴史として認識す可きでは無いのか? そう私は思うのです。(了)


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