Reconsideration of the History |
70.「中国4000年の歴史」は虚構だ!! 白髪三千丈の帝国(2000.5.7) |
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まず、第一に知っておいて頂きたい事、それは「中国」の歴史はまだ百年にも満たないと言う事です。よく皆さんは当たり前の様に「中国」、「中国」と呼びますが、これは「中華人民共和国」(1949年成立)及び、その前身である「中華民国」(1912-1949、1950年以後は台湾)と言った「国号」(国名)の略称なのです。又、我々がよく知っている、漢・隋・唐・明と言った「王朝」は、実の所、「国号」をそのまま王朝名に使っている訳で、「漢」王朝時代の国号は「漢」、「唐」王朝時代の国号は「唐」なのです。つまり、漢や唐は決して「中国」では無いのです。その観点からすれば、「中国」の歴史はまだ百年にも満たないと言う訳です。(「中国」の歴史では、日本の「中国」地方の方が歴史は古い!!) 次に、「中国」を「漢民族の国」の事だとして考えてみましょう。これで「4000年の歴史」が成立するのか? 結論から言うと、やはり、これでも「4000年の歴史」は成立しないのです。何故なのか? その答を出す前に、まずは右の表をご覧になって下さい。この表は最初の王朝・夏から現在に至る支那の諸王朝(政権)を、支配民族別にまとめたものです。最初の王朝・夏から西晋(265-317)迄は基本的に「漢民族」の王朝が続きます。この間、およそ2500年。しかし、西晋時代、匈奴・羯・鮮卑(以上、モンゴル系)・氏・羌(以上、チベット系)等の異民族 ── いわゆる「五胡」が、王族間の内紛(八王の乱)の際に傭兵として重用されたのがきっかけとなり、遂には西晋自体が、飼い犬に噛まれるが如く、自らが導入した五胡によって国を滅ぼされてしまったのです。その後、華北(揚子江以北)の地は、五胡の国々が入れ替わり立ち替わり興亡する、いわゆる「五胡十六国時代」と呼ばれる状態となりました。そして、「漢民族」は、華南(揚子江以南)へと遷り、東晋(317-420)・宋(420-479)・南斉(479-502)・梁(502-557)・陳(557-589)と言った諸王朝(南朝)が交替していったのです。一方、華北は、鮮卑族の拓跋部が建てた北魏(386-534)によって統一され(北朝の成立)、その後、宇文部(匈奴族とも鮮卑族とも言われる)の建てた北周(557-581)の後継王朝である隋(581-619)が、589年、南朝の陳を滅ぼし、支那全土を再統一したのです。 |
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さて、約3世紀ぶりに支那を再統一した隋ですが、これが実は生粋の「漢民族」王朝では無いのです。3世紀もの間、五胡によって華北が支配された結果、華北の「漢民族」は、モンゴル(以下、蒙古と略)系・チベット系等の異民族との混血が進み、五胡化されてしまったのです。そして、これは隋王室である楊氏や、次の唐王室の李氏にも言える事だったのです。更に追い打ちをかけたのが、世界帝国・唐(618-907)の滅亡でした。隋・唐は五胡化されたとは言え、まだまだ「漢民族」としての血を残していました。しかし、蒙古系契丹族が遼(916-1125)を建てた事で、支那の歴史は劇的な変質を遂げたのです。
唐滅亡後、支那には主として、中原(支那の中心地)に「五代」と呼ばれる五つの王朝が、その外縁部に「十国」と呼ばれる国々が相次いで興亡しました。いわゆる「五代十国」の乱世です。この時代、中原に興亡した「漢民族」の王朝である筈の五代諸王朝は、何と蒙古系契丹族の王朝・遼に「臣従」(臣下として仕える事)していたのです。これが一体何を意味していたか? つまり、支那世界における「天命」 ── 正統性が、「漢民族」から異民族へ移った事を意味していたのです。そして、これは女真族の金(1115-1234)・蒙古族の元(1206-1388)へと継承されていきました。元王朝のあと、久々に「漢民族」の王朝・明(1368-1661)が成立しましたが、「天命」は再び異民族である満州族の王朝・清に移ってしまったのです。こう見てみると、隋・唐以後の支那は異民族王朝のオンパレードとも言える訳で、到底「漢民族」の国の歴史とは言い難いものとなってしまいます。つまり、「外国支配」も含めて、ようやく「中国4000年の歴史」が成立すると言う訳です。
「中国」(支那)の故事に、
白髪三千丈
[李白、秋浦歌] 長年の憂いの為に頭髪が白くなり伸び放題になった事。
心配事や悲しみが積る事の形容。又、誇張した表現の例とされる。
と言うものがあります。これは、よく誇張した(大袈裟な)例として引き合いに出されますが、「中国4000年の歴史」も、この故事と対して変わらない様に思えるのです。ひょっとしたら数百年後、「中国四千年之歴史」が、「白髪三千丈」と同義で、故事辞典に載っているのかも知れません。