Reconsideration of the History
14.「倭国」は滅亡していた!! 白村江の戦の結末 (1997.8.23)

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663年、朝鮮南西部の白村江(はくすきのえ)で、東アジアを揺るがす一大決戦が行われました。決戦の名は「白村江の戦」。唐・新羅(しらぎ)、倭国(九州王朝)・百済(くだら)の二つの連合軍による、朝鮮半島の権益を巡る一大決戦は、唐・新羅連合軍の勝利によって幕を下ろしました。この戦いにより、百済は名実共に滅亡し、新羅による朝鮮半島統一へと時代は動き始めます。この教科書でも習った白村江の戦が、実は日本にも多大な影響を及ぼしていた事をどのくらいの方がご存じでしょうか? 近未来の朝鮮半島有事にも少なからぬ示唆を与えるこの戦いの結末について、書いてみたいと思います。

(九州王朝)は、かつて、北方の大国・高句麗と朝鮮半島で、その権益を巡って戦いました。なぜ、倭国、ひいては日本が朝鮮半島に古代から関わらなければならなかったのかと言う問題は、この際は抜きにしますが(いずれ取り上げようと思っています)、とにかく、倭国は事ある毎に朝鮮半島に一定のプレゼンス(影響力)を行使してきました。その帰結が先に挙げた「白村江の戦」なのですが、この戦争で負けた倭国・百済連合の一方の当事者・百済は名実共に滅亡し、その領土は新羅に併合されてしまいました。では、もう一方の当事者、倭国にはどの様な結末が待っていたのでしょうか?

国は滅亡していた」。ずばり、それがこの答です。国が滅亡したと言う証拠は、「日本書紀」671年の条の、

筑紫君薩夜麻(ちくしのきみ・さちやま)が唐から帰国した」(要約)
と言う記事です。「筑紫君」と言うのは、「倭王」の事です。自らは、「日出づる処の天子」・「オオキミ」等と称していた倭王ですが、大和朝廷(日本国)側からは、筑紫君と呼ばれていました。しかし、この事が倭国の滅亡の証拠になるのかと思われる方もおられるでしょう。それが、証拠になるのです。

村江の戦で、戦争が終結したのが、663年。倭王(筑紫君薩夜麻)が唐から帰国したのが、671年。その間、実に8年。一国の王(現代で言えば、天皇だとか首相)が他国に8年間もいたと言う事実。更に、倭国・百済連合が「敗戦国」だったと言う事実。これらが物語るものは一つ。それは、倭王が「戦犯として戦勝国・唐に抑留されていた」と言う事です。

戦国の元首(王)が戦勝国に抑留される。これは、先の大戦で満州国皇帝だった愛新覚羅傅儀(ラストエンペラー)がソ連、更に中国の撫順収容所に「戦犯」として収監された事実を見ても、明らかです。倭王の場合も、おそらく、傅儀同様、戦後、唐に抑留されていたものと思われます。そして、8年後、ようやく、「釈放・帰国」を許されたのでしょう。しかし、帰国を許された倭王に、帰るべき祖国は最早ありませんでした。

州、かつて、東アジアの超大国、隋・唐に対して対等外交で臨んだ「倭国」の地は、倭国に代わって日本列島の新たな「代表」となった「日本国」(大和朝廷)の領土と化していました。そして、その新領土・九州を管理統括する為、「日本国」が設置したのが、かの有名な「太宰府」なのです。

宰府と言うと、皆さんは単に朝廷(政府)の九州に於ける地方出先機関と言ったイメージしか無いのでは無いでしょうか? しかし、当時の太宰府と言うのは、現代人のイメージとは全く違った存在でした。倭国の異称・「九州」の意味を皆さんはご存じでしょうか? これは字義通り、「九つの国(州)」の事です。倭国は九ヶ国で構成されていたので、「九州」なのです。これは関東地方をかつて「関八州」等と言ったのと同じです。その九ヶ国の統治を朝廷に代わって代行したのが、太宰府なのです。これは東北(蝦夷)地方の統治を朝廷に代わって代行した「奥州鎮守府」と同じです。そして、近・現代史に当てはめれば、「朝鮮総督府」や「台湾総督府」と同じ、つまり、「新たな領土となった他国(植民地)経営の為の行政機関」なのです。その様な機関である太宰府が九州に設置されたと言う事実が物語るものは、一つ。やはり、「倭国は滅亡した」と言う事なのです。

村江の戦がもたらしたものは「倭国の滅亡」だけではありませんでした。筑紫君薩夜麻らの帰国は、唐人2000人の「進駐」(日本書紀に記述)を日本側に告知する為になされた措置だったのです。つまり、先の大戦終結後、米軍が「進駐」してきたのと同様に、唐人が進駐してきたのです。更に、様々な資料から、唐人だけでなく、もう一方の戦勝国・新羅人も、亡国の民・百済人も、日本に流れ込んできました。日本側の史料では、彼らを日本に「帰化」したと書いていますが、実際は、日本に「進駐」したと言う方が正しいでしょう。その証拠に、その後の「親唐路線」や、朝廷内に於ける「帰化」系氏族の増加(彼らの多くが先の敗戦まで「貴族」としての特権を有していた)と言った事実が挙げられます。

し、近未来の朝鮮半島で有事があった際、日本が日米防衛協定(現在調整中のガイドライン)に則って介入し、「敗戦」したとしましょう。おそらく、その時は、白村江の敗戦同様、中国人民解放軍が日本に進駐、五星紅旗をはためかせ、日本政府に中国人の閣僚を多く送り込み、「親中路線」と言うよりは、「中国の属国としての日本」を強要すると言う「悪夢」が現実のものになるのでは無いでしょうか? これが単なる「悪夢」ならば良いのですが、軍拡まっしぐらの中国・北朝鮮情勢・「歴史は繰り返す」と言う法則が重なり合い、「現実」にならなければと只々願うばかりです。


提供情報

以下、平成16(2004)年11月4日に、50代男性の読者から頂いたメールをご紹介致します。

「白村江で検索して、ここを見つけました。
学士会会報2004-VI No.849の『法隆寺のものさしは中国南朝尺』川端俊一郎著 pp104-124に、
「倭の五王が筑紫にあって、白村江の戦いでこの王朝が滅亡し、法隆寺は筑紫にあったものを移設したのでは」
との説が、建設に用いられた寸法標準の違いから説かれていて、非常に説得性があります。
ご参考まで。」


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