Reconsideration of the History
176.李氏朝鮮は「何」から独立したのか? ── 「独立門」に見る韓国の歴史歪曲 (2006.11.24)

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独立門 国の首都ソウル。そのソウルの中西部、西大門区(ソデムング)に一つの門があります。その名を「独立門(トンニムムン)と言います。(右の写真は、1979(昭和54)年の独立公園整備に伴う移設以前のもの) 高さ約14m、幅約11.5m、約1,850個の御影石から作られたその門は、フランスはパリの凱旋門を模して建立(こんりゅう)され、韓国の史跡にも指定されています。(韓国史跡第32号 1963(昭和38)年1月21日指定) ところで、この門。「独立」の二字が冠されている以上、「何か」からの独立を記念して建立されたであろう事は想像に難(かた)くありませんが、では一体「何」から独立したと言うのでしょうか? 現在の韓国民の多くは、この門が朝鮮総督府を設置し、朝鮮半島を36年間も植民地支配した「日帝」(大日本帝国)から、自国(韓国)が独立した事を記念して建立された、と思っています。実際にはとんでも無い事実誤認である訳ですが、当の韓国政府は自国民が「独立門」に対して謬(あやま)った認識を持っているにも関わらず、これを積極的に正(ただ)そうと言う気配は見受けられません。まあ、韓国大統領である盧武鉉(ノ=ムヒョン)氏からして、事実誤認が甚(はなは)だしいのですから仕方ありませんが、然(しか)し、その謬った認識を土台にして、日本に対して「正しい歴史認識」を求めてきているとなれば、話は変わります。正すべき所はきちんと正さねばなりません。でなければ、韓国側の謬った認識を出発点にして、「日韓共同歴史研究」等のプロジェクトに於いて、更に事実からかけ離れた「歴史認識」を日本が強(し)いられる懼(おそ)れもあります。と言う訳で、今回は「独立門」を軸に、韓国による歴史歪曲について論じてみたいと思います。

(ま)ず最初に、「独立門」が一体何時(いつ)建立されたのか? この事をきちんと明らかにしておく必要があります。何故(なぜ)ならば、(も)しも、「独立門」が、朝鮮半島の日本からの独立を記念したものであるとすれば、当然、1945(昭和20)年8月15日以降に建立された筈ですから。然し、「独立門」の定礎は1896(明治29)年11月21日、完成も1897(明治30)年11月20日であり、1910(明治43)年8月22日の『日韓併合条約』(韓国併合についての日韓条約)調印 ── 彼らコリア人が言う所の「日帝支配」開始 ── を遡(さかのぼ)る事11年も前の出来事です。これでは、勘定が合わないどころか、「日本の植民地支配」が始まる以前に、既に「日本からの独立を記念」した門が建立されていた事になってしまいます。誰が見ても、整合性が無い事は明らかな訳ですが、然し、「独立門」は建立当時から既に「独立門」と呼ばれていました。いや、正確には、「独立門」は当初から「独立門」として建立されました。では、当時の朝鮮は一体「何」から「独立」したと言うのでしょうか?

大清皇帝功徳碑(全体像)
大清皇帝功徳碑(レリーフ拡大)
ウル特別市松坡区石村洞 ── 通称「三田渡(サムジョンド)」に、とある一つの意味深な記念碑が残されています。その名を『大清皇帝功徳碑(テチョン-ハンジェ-コンドッビ)(建立地に因んで「三田渡碑(サムジョンドビ)」共呼ばれている。以下、『三田渡碑』と略)と言います。(右写真上) この記念碑のレリーフ(右写真下)をよく見ると、奥の最上段に座す人物に対して、中央の人物が「土下座」している様が見て取れます。実は、中央の人物は当時の朝鮮国王・仁祖(インジョ)であり、奥の人物 ── 清朝皇帝アイシンギョロ=ホンタイジ(以下、「皇太極」と略)に対して、「三跪九叩頭(さんききゅうこうとう)の礼」と呼ばれる、支那皇帝に対して臣下がとる最大級の礼法 ── 同時にさせられる者にとっては最大の恥辱でもある ── を以て「許しを請う」ている場面がレリーフとなっているのです。では、何故、朝鮮国王が清朝皇帝に対して「許しを請う」ているのでしょうか?

は1636年。この年、後金国のハーン(王)であった皇太極は、チンギス=ハンの嫡流であり蒙古(モンゴル)最後の正統な大ハーンであったリンダン=フトゥクトゥ=ハンが継承していた「元朝伝国璽」を掌中に収め、これを根拠に自ら満州・蒙古・漢の三民族に君臨する大ハーン(皇帝)の位に即(つ)き、国号を「後金国(アイシン-グルン)改め「大清国(ダイチン-グルン)としました。即(すなわ)清朝の誕生です。この時、皇太極は、朝鮮に対して、朝鮮が長らく宗主国と仰いできた明国との断交と新たな清国への入貢、そして、征明戦争への派兵を求めました。然し、古くから「オランケ」と呼んで蔑(さげす)んできた満州族に対して、朝貢する等言語道断として要求を拒絶。更には清朝皇帝(以下、「清帝」と略)の地位も承認しないと宣言し、皇太極の神経を逆撫(さかな)でしたのです。(「オランケ」は満州人に対する蔑称で「野蛮人」の義。日本人を「倭奴(ウェノム)」と呼んで馬鹿にしていたのと同じ) これに対して、皇太極は躬(みずか)ら兵を率いて朝鮮に侵攻し(丙子胡乱:ビョンジャホラン)、圧倒的な武力を以て朝鮮を僅か45日で制圧してしまったのです。その後、皇太極朝鮮と和議を結ぶに当たり、11項目に亘る朝鮮にとって屈辱的な条件を課し、漢城(現ソウル)郊外の三田渡の地に於いて、仁祖王に「三跪九叩頭の礼」を以て帝に対する臣従を誓わせたのです。そして、この時の模様を後世に伝える為に建立された物が『三田渡碑』であり、これ以後、朝鮮は、1894(明治27)年の日戦争の結果によって、1897(明治30)年に「大韓帝国」として独立する迄、清朝の属国であり続けたのです。(『三田渡碑』は、この様な経緯から「恥辱碑」と呼ばれる事もある) 詰まり、1897年に建立された「独立門」とは、朝鮮清朝からの独立を記念して建立されたものであり、決して日本からの独立を記念して建立されたものでは無かった訳です。然し、にも関わらず、何故、「独立門」が「日本からの独立」を記念して建立されたが如く、曲解されてしまったのでしょうか? それは、『三田渡碑』に勝る共劣らない屈辱を朝鮮清朝から受け続けてきたからなのです。

(かつ)て、「独立門」が建っている場所には全く別の門が建っていました。その名を「迎恩門(ヨンウンムン)と言います。(下写真)

迎恩門

朝鮮が清朝の属国であった時代、遠く北京から帝の名代(みょうだい)がやって来ると、歴代の朝鮮国王は漢城の王宮を出て、郊外の「迎恩門」迄わざわざ出向き、帝の名代に対して、帝に対するのと全く同じ様に「三跪九叩頭の礼」を以て名代を迎えさせられたと言います。相手が帝なら、まだ我慢のしようもあったでしょう。然し、相手がたとえ帝の名代とは言え、所詮は帝の「臣下」です。同じく帝の臣下である朝鮮国王が、同じ帝の臣下に対して屈辱的な礼法で出迎えなくてはならない。これでは性格が屈折しても仕方ありませんし、独立後、過去の屈辱的な記憶(トラウマ)=「歴史」を拭(ぬぐ)い去る為に「迎恩門」を解体して、「独立門」を建立した彼らコリア人の気持ちも分からないでもありません。(私は、「分からないでもない」と言っているだけで、必ずしも「分かる」と言っている訳では無い) 然し、だからと言って、「迎恩門」解体から「独立門」建立に至る経緯をすり替え、恰(あたか)も「独立門」の「独立」が「日本からの独立」を意味する等と主張する事は、彼らコリア人が常日頃から日本に対して事ある事に是正を要求してくる「正しい歴史」に対する歪曲であり、捏造ではないのか? 彼らコリア人は、それでトラウマを克服し、プライドを取り戻す ── 溜飲を下げる ── のかも知れませんが、日本にとっては正にいい迷惑です。何せ、清朝(支那)に代わって憤激の矛先を向けられ、それも原因の一つとして、韓国内の「反日」の火に油を注ぐ訳ですから。

(いず)れにせよ、彼らコリアの「謬った歴史認識」に対しては、日本政府・文部科学省が声を大にして指摘す可(べ)です。今迄の事勿(なか)れ主義が、一つ一つの些細な事を有耶無耶(うやむや)にしてきた事が、そして、その蓄積が、今日のコリアの増長を招き、ひいては日韓関係にも悪影響を与えている事を充分認識し、今後はたとえ相手が大統領であろうが、不当且つ理不尽な発言や要求に対しては、毅然とした態度で臨む事を常に念頭に置いて行動す可きです。それとは反対に、若しも、この儘(まま)今迄と同じ道を歩み続けると言うのであれば、今以上、更にコリアが増長し、日韓関係が益々拗(こじ)れるであろう事を覚悟しておく可きです。何れにせよ、甘やかすにしろ、厳しく接するにしろ、どちらに転んでも結果はその儘、日本へと返って来ます。その事だけは充分肝(きも)に銘じておく可きと言えるでしょう。


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