Reconsideration of the History |
175.環境破壊、食糧危機、農民反乱・・・全てが絶望的な「中国」の未来像 (2006.10.24) |
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私は、昨年(2005年)の春発表した小論(『146.北京五輪は開催されない? 胎動し始めた「共産中国」の崩壊』)の中で、現在の「中国」(支那)が再来年(2008年)の北京五輪迄保(も)たずして、国家が崩壊するだろうと書きました。然(しか)し、依然として巷間では著しい経済成長に湧く新興大国として「中国」が持て囃(はや)され、急速な軍拡共相まって、何(いず)れ日本が「中国」に併呑され「中華人民共和国日本自治区」になるかの如き発言が横行しています。然し乍(なが)ら、果たして本当にその様な事が起こりうるのか? 私には到底信じられません。いや、寧(むし)ろ昨今の「中国」の動静を見るに付け、自らの唱える「中国崩壊」にますます確信を持つに至っています。と言う訳で、今回は、前回とは異なった視点から、再度、この問題について論じてみたいと思います。
先ずは、『産経新聞』(2006年9月8日付)に掲載された以下の小さな記事をお読み下さい。
中国の環境汚染損失7兆円
中国の国家環境保護総局と国家統計局は(2006年9月)7日、初の「グリーンGDP研究報告書」を発表し、2004年の水質、土壌汚染などによる1年間の経済損失額が5,118億元(約7兆5100億円)に上ることを明らかにした。報告書によると、汚染によるこの損失額は、国内総生産(GDP)の3.05%に相当。仮にこうした汚染を防止・処理しようとした場合、費用は1兆800億元で、GDPの6.8%を必要とすることも試算された。しかし、05年までの5年間で、実際の汚染対策投資額は、GDPの1.18%(各年平均)にとどまっていた。当局は今回、グリーンGDP自体の数値は公表していない。
(北京 福島香織)
扨(さて)、上記の記事を元として、2004年を初年度に2013年迄の10年間の試算を私なりにしてみたのが以下の表です。
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▲ バスクリン色の廃液を河川に垂れ流し |
「中国」では都市部だけでも、成田空港の約126倍に相当する13万4千ヘクタールもの広大な面積が、ダイオキシンと並び称される猛毒物質「六価クロム」等のクロム廃棄物によって汚染されており、その他、重金属・残留農薬等の有害物質によって全土で実に100万ヘクタールもの農地が深刻な土壌汚染状態に置かれています。又、同じく全土を流れる河川の60%も重金属・残留農薬等に汚染されており、その汚染面積は何と2000平方キロメートルにも及んでいます。その様な汚染された農地で、汚染された河川からの灌漑(かんがい)用水を使って栽培された農産物を「中国」人民は食しており、その結果、頭部が大人並みの奇形乳幼児が次々と産声(うぶごえ)を上げています。そして、「中国」の農産物が安さも手伝って日本にも輸出されていた事は皆さんもご存じの通りです。尤(もっと)も、日本の検査基準がより厳しくなった為に、「中国」からの輸入農産物によって、「中国」と同様の深刻な状況(奇病発生等)が日本で発生する事は無いとは思いますが。とは言え、単に「安さ」で購買する「中国」産品については、我々消費者も考え直す可(べ)きです。多少、高くても品質が確かな国産品を購買する事が、結果的には国内農業を支え、安全で誰もが安心して口にする事が出来る農産物を安定供給する道を開く訳で、長い目で見れば「安くつく」訳です。(「中国」からの農産物輸入に極度に依存する状況で、環境汚染により「中国」の農業生産が壊滅したら、果たして我々は野菜を口にする事が出来るのだろうか? 「中国」産品に席捲され日本農業が壊滅した中、極めて危険な品質であり乍ら、値段が高い野菜でも買わざるを得ないとしたら?) そして、農業への深刻なダメージが国を揺さぶるのです。
極度の土壌・水質汚染によって、安心して耕作出来る農地が奪われ、地方党幹部の「鶴の一声」により、「開発」の名の下(もと)に僅かばかりの補償金で無理矢理、土地を接収された「失地農民」が今や急速に増加しています。時折、日本のメディアでも流れる農民対武装集団の衝突は、「お上(かみ)」の横暴に反旗を翻(ひるがえ)して叛乱を起こした農民と、それを武力によって鎮圧せんとする地方党組織(とそれに雇われた傭兵集団)との模様である訳で、漏れ聞く所では1年間にこの様な農民叛乱が何と1万件も発生しているそうです。又、土地を失い、職(農業)を失った農民が仕方無く、「民工」となって都市部へと流入するのですが、彼らが満足な職に就ける保証は何処(どこ)にも無く、結果的に体制への不満だけが蓄積していく事となります。
ところで、昨年春の「反日デモ」は多分に共産党指導部によって組織された「官製デモ」だった訳ですが、いざデモが始まると、当局の予想に反して参加者が膨れ上がり、遂には当局のコントロールを離れて暴走してしまいました。その結果が、日本大使館等への襲撃事件となた訳で、当局が実力で鎮圧せず、只黙って見ていた事で、その後、日本国内の反中・嫌中感情が増加した事はご承知の通りです。(この件に付いては、『145.「反日デモ」の原因は日本にある? 否、全責任は支那にあり!!』を参照の事) 然し、それを承知の上で、共産党指導部は暴走したデモの鎮圧をしませんでした。いや、正確には、「鎮圧したくても、手が出せなかった」訳です。それは何故か? 飛び入りのデモ参加者のかなりの数が農民であり、民工であり、社会に不満を抱く分子だったからです。そして、彼らの「怖さ」を知っていたからこそ、共産党指導部は敢えて見て見ぬふりをし、腫れ物に触るが如き対応に終始したのです。
紀元前209年(秦・二世皇帝元年)の「陳勝・呉広の乱」、184年(後漢・中平元年)の「黄巾の乱」、1351年(元・至正11年)の「紅巾の乱」は何(いず)れも天下を傾けた大乱ですが、注目す可(べ)きは何れも大規模な農民反乱だったと言う事です。始皇帝の崩御(ほうぎょ)による帝位を巡る「お家騒動」の中起こった陳勝・呉広の乱が、秦帝国を崩壊させ、覇を唱えた項羽を破った劉邦が漢帝国を興した事は有名です。又、魏の曹操・呉の孫権・蜀の劉備で有名な「三国志」も、黄巾の乱による後漢の混乱が無ければ、物語は生まれませんでした。更に、紅巾の乱が起こらなければ、明王朝は産声を上げず、元(蒙古)の支那支配が継続していたかも知れません。詰まり、支那の王朝交代劇には、少なからず「農民反乱」が重要な役割を果たしていた訳で、今尚、共産党による一党独裁体制下にあるにも関わらず、大小合わせて年間1万件以上もの「農民反乱」が起きている「中国」の状況は非常に深刻であると言えます。若(も)しも、前代未聞の大規模な農民反乱が起きたりしたら、各地の農民反乱が連携したら・・・それこそ、共産党指導部が最も恐れる「王朝転覆劇」が正に現実のものとなる訳です。
毛沢東をして、「政権は銃口から生まれる」と言わしめた支那の王朝(体制)は、同時に、
政権は農民反乱によって倒されてきた
訳で、歪(いびつ)な経済発展の中、着実に進行してきた環境破壊と、その副産物としての食糧危機、更には苛斂誅求(かれんちゅうきゅう)の中、私利私欲を貪(むさぼ)る体制への不満を爆発させた農民反乱によって、「中国」は内部から自壊し、独立採算制を布(し)く人民解放軍各軍管区を基軸とした「軍閥」=群雄割拠の時代へと逆戻りするのでは無いか? たとえ内戦に迄至らず共、国家の分裂は最早(もはや)避けられないのでは無いか? 「歴史は繰り返す」事を嫌と言う程、見せ付けられてきた支那の歴史を鑑(かんが)みる時、私にはどうしてもそう思えてならないのです。
余談(つれづれ)
2004(平成16)年10月18日、「中国」重慶市万州区の青果市場で西瓜(すいか)売りの露天商が警官に暴行された事に端を発し、その事に怒った市民が官憲と衝突、遂には重慶市万州区人民政府庁舎を包囲した事件 ── 所謂(いわゆる)「10.18 重慶万州区事件」では、何と5万人もの市民が加わったそうです。日本とは異なり、共産党による一党独裁国家である「中国」に於いて、数万人規模の人民が地方都市とは言え、特別市である重慶の政府庁舎を「包囲」する事等、嘗(かつ)ては考えられなかった事です。その考えられなかった事が起きてしまう現実に、共産党による「中国」統治の綻(ほころ)びを見たのは、果たして私一人だけだったのでしょうか?