Reconsideration of the History |
129.日本以外でも使われている中国に対する蔑称「支那」 (2003.11.7) |
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「『支那』の呼称は中国を侮蔑している!!」 ── これは、「支那」(シナ)の呼称を使う日本(人)に対して為される決まり文句ですが ── 私は、以前(コラム『24.日本人が中国を「シナ」と呼んでどこが悪い!?』を参照の事)、「中国」の主張が如何に不当なものであるかについて書きました。しかし、今以て「中国」は「支那」の呼称が蔑称であり、日本人は何が何でも使用してはならない、と主張しています。そこで、今回は改めて、この問題について書いてみたいと思います。
先ずは、「支那」の語源について復習を兼ねて簡単に触れてみましょう。「支那」は支那史上最初の統一帝国「秦」(チン Ch'in 前221〜207)が語源であり、この「チン」(秦)が印度(サンスクリット語)へと伝わり、「チーナ」(Cina)・「ティン」(Thin)となり、更にヨーロッパへ伝わり、「シーヌ」(Chine 仏語)・「チャイナ」(China 英語)へと変化していった事は既に書いた通りです。そして、日本で慣用されていた「支那」も又、梵語(サンスクリット語)の「チーナ」が印度の仏典(仏教経典)と共に、支那へと逆輸入され、仏典の漢訳作業の際に、支那人自身が「チーナ」の語に「支那」・「脂那」の漢字を当てたのが起源である訳です。つまり、英語の「チャイナ」と日本で慣用されていた「支那」は起源を同じくする同義語(姉妹語)と言う訳です。
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しかも、オランダ語やポルトガル語では、「シーナ」あるいは「シナ」と発音しており、日本の「支那」(シナ)と起源が同じどころか、発音レベル迄類似しています。しかし、「中国」がオランダやポルトガル、更にはポルトガル語を公用語としているブラジルに対して、「シーナ」(シナ)の使用を止める様、圧力を掛けたと言う話は一度も聞いた事がありません。もしも、「支那」が彼の国が言う様な蔑称であると言うのならば、日本で慣用されてきた「支那」と発音レベル迄類似している「シーナ」を使用しているオランダやポルトガルに対しても、日本同様に使用を止める様、主張すべきですし、それをしないと言うのであれば、日本に対してもオランダやポルトガルに対するのと同様、使用を認めるべきです。
日本人にだけは、『支那』と言われたくは無い
と言う主旨の発言が、以前、在日外国人が出演していた某民放の人気番組に於いて、支那人の口から図らずも飛び出しましたが、それこそが支那人の「本音」であり、日本人に対するある種の逆差別であると感じたのは、果たして私だけだったでしょうか?
さて、「支那」の語源から現在も世界で使われている「支那」の類義語について書いた訳ですが、実の所、国名として使われている「支那」だけでは無く、「支那」系統の語は学術面でも使用されています。例えば、現世人類の祖先の一つ「北京原人」。「北京原人」は、1927(昭和2)年、北京市房山県周口店(北京の南西約54km)にある周口店遺跡の猿人洞内で発見された事から、「北京原人」と呼ばれる事となった訳ですが、正式な学名はラテン語で、「シナントロプス-ペキネンシス」(Sinanthropus pekinensis)と呼びます。「ペキネンシス」が「北京原人」を指すであろう事は、素人目にも分かる事ですが、問題は「シナントロプス」の方です。「シナントロプス」の「シナン」(Sinan,Sina-n)とは「シナ」(Sina)の事であり、更に「シナ」とは、実は「支那」の事なのです。「支那」が蔑称であると主張してきた「中国」の事、「北京原人」の学名に対しても抗議したか?と言うと、矢張り、その様な事はついぞ耳にした事がありません。
更に、もう一つ。「日清戦争」・「支那事変」(日華事変・日中戦争)を、英語では「Sino-Japanese War」と表記するのですが、この中の「Sino」(シノ,サイノゥ)も実の所、「支那」(シナ)が変化した類義語なのです。
Sino-
「支那の;支那と・・・との」の意の連結形:Sino-Japanese 日本と支那の.
しかし、この「Sino」と言う単語についても、支那は何の行動(抗議なり使用禁止要求)も起こしてはいません。
以上、見てきた様に、「支那」の呼称に対して「中国」が日本に対して取ってきた行動と言うものは、「支那」の語源の検証や、類義語・同義語の実例に関係無く、単に「日本人だから使わせない」・「日本人にだけは使われたくない」と言ったレベルの話である訳です。これはどう見ても、日本人に対するある種の「人種差別」であるとしか言い様がありません。この様な不当な圧力・要求を受け入れると言う事は、ある意味に於いて日本人が支那人からの「人種差別」を甘受すると言う事に他ならない訳で、それは同時に、日本人としての「尊厳」を自ら放棄する事にも繋がりかねない行為である共言えるのです。