Reconsideration of the History
49.劣等感の生み出した誇大妄想〜「中華思想」の真相 (1999.3.7)

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て、前回のコラム48.チンギス・ハーン恐るべし!! 現代に息づく「帝国」の継承者達で支那がとんでもない思い込みモンゴル帝国を継承した)をしていると書きました。しかし、なぜそれ程迄に支那は「帝国」を夢想するのでしょうか? 最も言われる要因は、支那を骨の髄から支配している根本原理「中華思想」でしょう。と言う訳で、今回は知っている様で意外と知らない「中華思想」について書いてみたいと思います。

ずは「中華思想」の基本から。「中華思想」の「中華」ですが、これは「中」と「華」からなっており、「中」は「世界の中心」を意味し、「華」は「夏」−支那史上初の世襲王朝「夏王朝」を表し−転じて「支那」自体を意味しています。つまり、「中華」とは、

世界の中心である夏(華=支那)

と言った意味なのです。「中華」の意味は分かりました。では、我々の住む日本やコリアと言った周辺諸国は「中華思想」ではどの様に捉えられているのでしょうか? 「中華思想」では、支那の周辺諸国は「蛮夷」・「夷狄」(いてき)等と呼ばれる「野蛮な異民族」とされ、その地理的(方位的)所在に合わせて、「東夷」・「西戎」(せいじゅう)・「南蛮」・「北狄」に分類されています。

「中華思想」による世界の概念

北 狄
(満州・モンゴル)
西 戎
(チベット・中央アジア)
中 華
(支那本土)
東 夷
(日本・コリア)
南 蛮
(東南アジア・インド)

つまり、我々日本人は支那(中華思想)から見れば、「東夷」(東に住む野蛮人)と言う訳です。全くもって「大きなお世話」としか言いようがありません。では、「中華」の範囲とは一体何処から何処迄を指すのでしょうか? これが実は曖昧(あいまい)なのです。

那では近代−清朝末期に至る迄、実は「領土」と言う概念がありませんでした。ですから当然の事ながら、「中華」の範囲も規定されていません。しかし、厳然として「中華」は存在していたのです。彼ら(支那人)の考える「中華」の範囲とは、「王化」−つまり、支那の「皇帝の徳」が及び、文明に沃している地「すべて」なのです。早い話が支那の皇帝に「臣従」(家来として仕える事)し、支那の王朝を自分達の「宗主国」として認め、支那の制度を「採用」しさえすれば、いつでも「中華」の一員になれると言う訳です。又、支那と「国交」を結ぶと言う事は、取りも直さず「朝貢」関係(支那へ定期的に使節を派遣し貢ぎ物を捧げる)・「冊封」関係(各国の王は、支那の皇帝に「承認」されて、はじめて「正式な王」となる事が出来た)を結ぶと言う事に他ならず、これに従ってきたのがコリア(自らを「小中華」と称した)であり、「無視」し続けてきたのが、「ミカド(天皇)の国」日本だったのです。まあ、早い話が、「中華思想」では、支那と他国との間に「対等」な関係等あり得る筈が無いのです。さて、ざっと「中華思想」について触れてみましたが、この「中華思想」、実は支那人の心の奥底に潜む「劣等感」の裏返しだったのです。

「中華思想」における支那皇帝と周辺諸国王の関係

支那皇帝
(上位)
朝貢・冊封共に拒絶 日本天皇
(対等)

冊 封

朝 貢
周辺諸国王
(下位)

西晋の太康元年(280年)、現在の支那は河南省汲(きゅう)県の古墓から多数の竹簡史料が発見されました。これらの竹簡は「汲冢書」(きゅうちょうしょ:「汲県の古墓(冢)から発見された書物」の意味)と総称されているのですが、この「汲冢書」の一つ、『穆天子伝』(ぼくてんしでん)に「中華思想」を根底から覆す驚愕の記述があったのです。この『穆天子伝』には、西周第5代の王・穆王(穆天子:在位 前1001-947 あるいは 前1029-975)が黄河を渡って、西方は崑崙(こんろん,カラコルム)に至り、その地の女王・西王母(せいおうぼ)と宴した後、北方の大平原を通って周本国へ帰国したと書かれていました。しかし、文中に注目すべき内容を孕(はら)んでいたのです。文中では、なんと西王母が西周の天子(王)である穆王の事を「穆満」と本名で呼び捨てにしており、「王」である穆王に対して、自らは「帝」と称しているのです。秦の始皇帝登場以前、支那では「王」が「皇帝」に代わる最高権力者の称号でした。つまり、穆王が称す「王」は「中華思想」における「皇帝」と同義なのです。その支那の最高権力者・穆王を本名で呼び捨てにし、自ら「王」よりもワンランク上の「帝」を称した西王母。ここには、明らかに力関係の逆転が見られるのです。

『穆天子伝』に見られる西王母と穆王の関係

西王母
(上位)

呼び捨て
穆 王
(下位)

ころで、『穆天子伝』に登場する「西王母国」とは一体何処にあったのでしょうか? 著名な史家・古田武彦氏は周代の1里を約80mと見なす立場から行程記事を解読し、西王母国を支那の西辺・甘粛省と青海省にあったとしています。そして、ここは取りも直さず、かつて勇猛さで知られたティベット系遊牧民族(支那の史書に登場する「羌」や「」)が活躍した地であり、西王母国はティベット系遊牧民族の国だった可能性があるのです。するとどうでしょう。西周の「王」・穆王は、はるばるティベット系遊牧民族の国「西王母国」へと赴き、「帝」である西王母に謁見し、帰路、モンゴル平原を経て本国へ還ったと解せるのです。次に目を東へと転じてみましょう。

リア版「古史古伝」とも言える『桓檀古記』・『檀奇古史』・『揆園史話』(きえんしわ)には、上古、朝鮮半島から満州・モンゴル・更には北支那に至る広大な版図を誇った帝国「檀君朝鮮」があったと伝えています。この檀君朝鮮−「檀君」の称号を持つ47代1195年間続いた帝国が支那を支配したとしており、日本における「ウガヤフキアエズ王朝」73代を彷彿とさせるものです。これらの史観では、支那における三皇五帝・夏・殷と言った歴代政権は檀君朝鮮を「宗主国」と仰ぐ「属国」であったとし、「中華思想」とは正に対極に位置しています。そして、親檀君朝鮮政権だった殷王朝を放伐(武力で政権を奪取する事)した周王朝は西方から来た異民族であり、檀君朝鮮に反旗を翻(ひるがえ)して、その支配から離脱、国を建てたと言うのです。一方、支那の支配権を失った檀君朝鮮は、夫余・高句麗・渤海と名を変え、唐代に至る迄、支那の歴代王朝を常に北方から脅かし続けました。ちなみに、支那の説話には「西王母」と並んで「東王父」と呼ばれる人物が登場します。この「東王父」を架空の人物等ではなく、実在の人物−檀君朝鮮の帝王と解すと・・・

周(支那)は西王母国・東王父国の二大大国に挟まれていた

西王母国
(ティベット?)
 周  東王父国
(檀君朝鮮?)

と言う事になります。するとどうでしょう。うっすらとですが「見えて」きます。そうです。周辺民族を「蛮夷」として蔑(さげす)み、周辺諸国を「属国」として扱う「中華思想」とは、かつて「後進国」として東西二大国の「属国」の地位に甘んじてきた支那の「劣等感の裏返し」だったのです。


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