Reconsideration of the History
200.北京五輪の開催によって確約された!? 共産党独裁国家「中国」の崩壊 (2008.10.3)

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北京五輪開会式
北京五輪の開会式が行われた国家体育場(通称「鳥の巣」)。ここを中心として、過大な軍拡と、チベットやウイグルに対して血の弾圧を加えている「中国」による「平和の祭典」が繰り広げられた。実に皮肉であり、喜劇ですらある。
(ま)ず最初に述べなければならない事があります。それは、私が以前、小論の中で指摘した「予言」(そんなご大層なものでは無いのだが)が大いに外(はず)れ、北京五輪は8月8日の開会式から24日の閉会式迄、滞(とどこお)りなく無事開催された事です。その間、会場を標的としたウイグル等の分離独立派による「テロ」(彼らからすれば、単なる「テロ」では無く、大義の下に行う「独立戦争」である訳だが)は起こらず、開会式中継映像の捏造や、「口パク少女」問題等、「中国」(支那)が蒙(こうむ)ったダメージは間接的なものに留まりました。一方、五輪を通じて、「中国」国民の愛国心は高揚し、国威も大いに発揚され、次代の超大国「中国」の面目躍如と言った感を受けた方も大いにおられた事でしょう。然(しか)し乍(なが)ら、「予言」が外れた私は、それでもこう主張します。

共産党独裁国家「中国」は間もなく崩壊する!!

と。北京五輪により国威が発揚され、経済や地球温暖化等の国際問題に於いても最早(もはや)無視する事の出来ない大国となった「中国」が崩壊する等と何故(なぜ)言えるのか? と言う訳で今回は、過去の「歴史を鑑(かがみ)に」このテーマで論じてみたいと思います。

ベルリン五輪でのヒトラー
スタジアムを埋めるドイツ人観客による「ハイル!!」の大合唱の中、歩を進める第三帝国総統アドルフ=ヒトラーヒトラーと彼率いるナチスは、ベルリン五輪を通して、国民の愛国心昇華と国威の発揚を如何無く図った。その意味では、正に「政治ショー」としての色彩が濃い大会であったと言える。
迷する日米を横目に、正に「昇龍」共言える「中国」が本当に間もなく崩壊するのか? その事を論ずる前に、過去に五輪を開催した幾つかの国について見ていきたいと思います。先ずは、1936(昭和11)年開催の第11回夏季五輪。開催地はドイツ第三帝国(原語「Das Dritte Reich」は、「第三の国」或いは「未来の国」と訳すのが妥当である)の首都ベルリン。様々な困難をクリアしてベルリンに五輪を招致、開催を成功させた総統アドルフ=ヒトラー率いるナチスは、この五輪を通じてドイツ(ゲルマン)民族の心を一つにし、第一次世界大戦の敗戦によって、どん底に喘(あえ)いでいた大国ドイツの復活を全世界に如何(いかん)無く知らしめました。そして、国威発揚と軍事力強化を果たしたドイツは、五輪開催から僅か3年後の1939(昭和14)年9月1日早朝、隣国ポーランドへと軍事侵攻。1945(昭和20)年9月2日(敗戦国日本の全権が、米戦艦ミズーリの甲板上に於いて降伏文書に調印した日)迄の6年にも及んだ第二次世界大戦の幕を切って落としたのです。然し、皆さんもご存じの通り、緒戦に於ける電撃戦の成功により瞬(またた)く間に欧州全域を席捲したさしものドイツも、米国の本格参戦とソ連侵攻の失敗から形勢が逆転。連合軍によるベルリン包囲の中、1945年4月30日、ヒトラーは自決。(実際にはヒトラーの自決は偽装で、ベルリン陥落前に脱出、生き延びた可能性が大きい) 後継指名されたカール=デーニッツ大統領(海軍元帥)の下(もと)で5月7日、降伏文書に調印したドイツは、翌5月8日、連合国に対し無条件降伏し国家は滅亡。(日本の終戦とは異なり、ドイツはデーニッツ後継大統領自身も戦犯として逮捕され「国体」は断絶。状況はフセイン政権のイラクに近い) 首都ベルリンはおろか国土すらも東西に二分され、冷戦下に於いては米ソ東西両陣営の最前線として長く分断される運命を辿りました。

モスクワ五輪開会式
華やかな開会式が繰り広げられたスタジアムに日本選手団の姿は無い。前年のソ連軍アフガン侵攻により、日本を含む西側諸国を中心に50を超える国が参加をボイコットした。その意味では、たとえ五輪と言えども、政治と無関係ではいられない現実を我々にまざまざと見せつけたと言える。
(さて)、お次は、1980(昭和55)年開催の第22回夏季五輪。開催地はソ連の首都モスクワ。当時のソ連は、東側社会主義陣営の盟主として東欧に多くの衛星国を抱えており、西側自由主義陣営の盟主・米国と覇権を競っていた正に冷戦真っ只の時代でしたから、ソ連での開催には冷戦の影響が深く影を落としました。その最たるものが西側諸国を中心とした50を超える国の大会参加ボイコットでした。五輪開催前年の1979(昭和54)年12月24日、その前年に成立していたアフガニスタン(以下、「アフガン」と略)の共産革命政権が反政権側に押されている状況を打開、共産政権支援の名目で、ソ連はアフガンに軍隊を投入しました。これが所謂(いわゆる)「アフガン侵攻」と呼ばれるものです。ソ連にとってみれば、昨今、テレビや新聞等で皆さんもご存じの、ロシア軍のグルジア侵攻(グルジアからの分離独立を唱えていた南オセチア自治州・アブハジア自治共和国の民衆をグルジア軍から保護すると言う名目で、ロシアが軍事侵攻した事件。今尚、両地域にはロシア軍が駐留し続けている)同様、友好国(共産政権)を支援しているに過ぎなかったのでしょうが(実際には国際的利権が絡む問題なのだが)、西側諸国から見れば、アフガンと言うれっきとした主権独立国家に対する内政干渉であり、正当な事由無き軍事侵略であると見なされました。そして、これが元で、前述の通り、日本を含む50ヶ国超がモスクワ五輪をボイコット。ソ連の面目は潰(つぶ)されたのです。その後、ソ連は五輪開催から5年後の1985(昭和60)年、共産党書記長として最高指導者の地位に就いたミハイル=ゴルバチョフ氏(1990年3月にはソ連邦初代大統領に就任)による内政改革「ペレストロイカ(改革)」と「グラースノスチ(情報公開)」によって急速に民主化。1991(平成3)年8月19日に起きた保守派による「八月政変」の失敗により共産党一党独裁体制が崩壊。ゴルバチョフ大統領が辞任した翌日の同年12月26日、国家の最高権力機関であった最高会議が連邦解体を正式に宣言し、ソ連は69年間の幕を閉じました。

サライェヴォ五輪開会式
華やかな開会式。その場にユーゴを連邦国家として纏めていた国父ティトー大統領の姿は無い。「平和の祭典」が繰り広げられたサライェヴォが五輪から8年後、激しい内戦の主戦場として砲弾が飛び交う等と、開会式に臨んだ一体誰が想像したであろうか?
後は、1984(昭和59)年開催の第14回冬季五輪。開催地はユーゴスラヴィア社会主義連邦共和国(以下、「ユーゴ」と略)の主要都市サライェヴォ(ボスニア-ヘルツェゴヴィナの首都)。「欧州の火薬庫」と称されるバルカン半島にあって、多くの民族・宗教・言語の坩堝(るつぼ)であったユーゴは、国父・ヨシップ=ティトー大統領の抜群のバランス政治感覚により、建国以来、共産党による一党独裁体制下で安定した国情にありました。然し、モスクワ五輪が開催された年、1980年5月4日にティトー大統領が亡くなると国情は急速に不安定化。連邦を構成する各共和国の離反が加速し、1989(平成元)年の東欧民主革命の余波を受け、翌年(1990年)実施された自由選挙で連邦の結束は完全に崩壊。遂に1991(平成2)年6月、スロヴェニア・クロアティア両共和国が連邦からの分離独立を宣言。熾烈(しれつ)を極めた内戦を経て今現在、七つの共和国(連邦を構成していたスロヴェニア・クロアティア・セルビア・モンテネグロ・ボスニア-ヘルツェゴヴィナ・マケドニアと、セルビアから分離したコソヴォ)に分裂していますが、各共和国内でもそれぞれ民族問題を抱えており、今尚、内戦の後遺症を引き摺(ず)っています。

鵺
鵺は、顔は猿で胴は虎或いは狸、手足は虎で尾は蛇の如しと言う。トラツグミ(鵺鳥)に似たか細く薄気味悪い鳴き声を発し、平安の世より凶獣として恐れられた。(写真は、江戸時代の絵師・歌川国芳が描いたもの)
上、挙げた三つの五輪に共通するのは、孰(いず)れも一党独裁国家で行われた大会であると言う事です。ドイツはナチス、ソ連はソ連共産党、そして、ユーゴはユーゴ共産党。そして、もう一つ言える事は三者共に左翼政党であると言う事です。ナチスは兎角(とかく)、急進的右翼の様に思われがちですが、その正式名称は「国家社会主義ドイツ労働者党」ですし、その労働者政策も極めて左翼的でした。翻(ひるがえ)って、今夏、北京五輪を成功裏に収めた「中国」はどうであるか? 「中国」は鄧小平の改革開放路線以降、「社会主義市場経済」と言う共産主義と資本主義のハイブリッド、例えれば鵺(ぬえ)の如き異形な国家体制である訳ですが、国家権力を握っているのは依然として中国共産党、所謂「中共」です。他の政党も少なからず存在してはいますが、中共の管理下に置かれており、自由な発言や政治運動等は認められていません。その意味に於いて、「中国」は、ドイツ第三帝国・旧ソ連・旧ユーゴ同様の一党独裁国家である訳です。そして、これら一党独裁国家が五輪を開催した後に必ず通ってきた道 ── 言い換えれば「ジンクス」共言える現象があります。それは、

一党独裁体制の崩壊

「中国」のネットバー
2008年末には米国を上回る2億4400万人にも達すると言われる「中国」のネット人口。一度、「外の世界」を垣間見てしまった人々に中国共産党の官製報道が一体何処迄通用すると言うのか? (写真:「中国」のネットバー)
と言う歴史的事実です。ドイツ第三帝国は五輪開催から9年後、ソ連は11年後、ユーゴは7年後、孰れも解体しています。全世界を巡った聖火リレーを妨害され、チベット問題等でバッシングを受け、国内の分離独立派によるテロの危険をも乗り越えて五輪を成功させた「中国」 ── 中共は、2010(平成22)年開催の上海万博をも成功させ、昇龍として大国の地位を不動のものにしようと考えている事でしょう。然し、過去、五輪を開催してきた一党独裁国家の辿った道(歴史)を繙(ひもと)く時、中共による一党独裁体制の終焉と、適正規模を遙かに超えた巨大な帝国の解体は必ず訪れるものと思っています。いくら、インターネット上を行き交う情報に規制を掛けようが、メディア統制を敷こうが、海外からの情報流入 ── 「情報」と言う名の黒船 ── を完全に遮断する事は不可能です。一度、真実を知ってしまった人々に官製報道(大本営発表)をした所で、最早、意味を為しません。「中国」にゴルバチョフ氏の様な体制側からの改革者が現れ、積極的な情報公開と民主化が実現するのか? 国家統一の要として君臨してきたティトー大統領の死によって連邦が解体、内戦の道を歩んだユーゴと同様になるのか? それは分かりません。然し、「中国」が今後もジンクスを跳ね返して、中共による一党独裁国家を堅持し続けると言う保障は何処(どこ)にも無いのです。その様に考える時、実際には今からでは遅い位ですが、隣国たる日本も「中国」崩壊に備えたプランを政財界共に策定しておく必要性があります。いや、ひょっとしたら、当の胡錦涛国家主席以下、「中国」の首脳達は「X-day」が不可避である事を悟り、如何(いか)にすればソフトランディング(軟着陸)が可能かを必死で模索しているのかも知れません。


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