Reconsideration of the History
122.人種差別撤廃を発議した「常任理事国」日本 (2004.6.7)

前のページ 次のページ


つて、日本が「国連」の常任理事国だったと言う事を皆さんはご存じでしょうか? 「国連」と書きましたが、ニューヨークに本部を置く現在の「国連」 ── 国際連合(連合国:United Nations)ではありません。第一次世界大戦後の大正9(1920)年1月、スイスのジュネーブを本部に発足した「国際連盟」(League of Nations)の事です。この国際連盟 ── 当時の「国連」において、日本は常任理事国だったのですが、その日本が連盟設立に際して、ある一つの重要な提案をしていた事は、余り知られていません。そして、その「提案」の行方が、後に、日本と世界の歴史に重大な影響を及ぼしたのです。と言う訳で、今回は、日本が発議した「提案」と、その行方について書いてみたいと思います。

正8(1919)年2月13日、第一次世界大戦の戦後処理を行う為に開催されたパリ講和会議の際、米国大統領・ウィルソンの首唱による「国際連盟」設立の為に同時開催されていた国際連盟規約委員会の席上、日本は既に固まっていた14ヶ条に加えて、「第15条」として、

人種あるいは国籍如何(いかん)により法律上あるいは事実上何ら差別を設けざることを約す

と言う条項、所謂「人種差別撤廃条項」を盛り込もうとしました。しかし、欧米列強社会に蔓延(はびこ)る根強い人種差別意識を目の当たりにした日本は、より採択可能な修正案として、「人種」の文言を削除した

国家平等の原則と国民の公正な処遇を約す

を提案し、評決にかけられたのです。(「国民の公正な処遇」によって、人種差別撤廃を実現しようとした) 同案は、16票中11票の賛成多数だったにも関わらず、議長であったウィルソン・米国大統領が突如として、「重要案件は全会一致でなければならない」等として勝手にルールを変更し、不採択を宣言、日本提案の「人種差別撤廃条項」は「幻の第15条」として葬り去られてしまったのです。しかし、この評決については、さすがに同じ欧米列強の一員であったフランス全権団からも、

それ迄2回の票決では、全会一致の規則が適用されていなかったにも関わらず、今回に限って全会一致の規則を適用する事には納得出来ない

との抗議がなされた程でしたが、これに対して、ウィルソン・米国大統領は、

我々の一部にとっては余りにも障害があるので、規約にそれ(人種差別撤廃条項)を挿入する事は出来無い

と嘯(うそぶ)いた挙げ句、議長役を放り投げてとっとと帰国、自らが提唱した「国際連盟」にも米国は参加せず、「米国不参加の「国際連盟」のお手並みを拝見」と言った態度を取ったのです。ちなみに、米国が自認する「民主主義」(デモクラシー)とは、「多数意見の尊重」が基本の筈です。それを、採択に際して、突如、「全会一致」の論理を持ち出した米国の論理。ここに図らずも、欧米列強の「本音」(論理)が垣間見られた訳です。

時、日本が提案した「人種差別撤廃条項」は、時代を先取りした極めて画期的なものでした。しかし、皆さんの中には、

あの提案は、米国内における日本人移民に対する不当な差別や排斥を撤廃させる為になされたもので、それ程、崇高な理念の為に提案されたものでは無かった。

と仰る方もおありでしょう。確かに、そう言った側面があった事は事実です。しかし、本当にそれだけだったのでしょうか? 例えば、根強い有色人種差別社会であった米国において、人種差別撤廃を求めて戦っていた全米黒人新聞協会は、当時、

我々黒人は、講和会議の席上で、人種問題について激しい議論を戦わせている日本に、最大の敬意を払うものである。
全米1200万の黒人が息を呑んで、会議の成り行きを見守っている。

と論説し、日本提案の行方に対して、非常に大きな期待を寄せていました。又、欧米列強によって分割・植民地支配されていたアジア・アフリカ地域の民衆も、日露戦争の際、面積で60倍、国家予算・鉄鋼生産高・造船能力も約10倍であった「超大国」ロシアを破り、有色人種国家で唯一、「列強」(一等国)に数えられる事となった日本の提案に、有色人種の「民意」(人種差別撤廃・植民地解放)をダブらせて支持をしたのです。しかし、結果は前述の通り、米英のエゴによって、葬り去られてしまったのです。

かし、歴史の巨大な潮流は後戻りする事を許しませんでした。日本は、有色人種唯一の「列強」であり、かつて東アジア世界の「盟主」として君臨しながら、欧米列強による分割と言う憂き目を見ている支那に代わって、新たに東亜の「盟主」の座に就き、自ら有色人種の利益代表 ── 「代弁者」を自認する様になったのです。そして、その一つの帰結が、日本が米英に戦いを挑んだ「大東亜戦争」(太平洋戦争)だったのです。

和16(1941)年8月14日、大西洋上で会談していた米国大統領・フランクリン=ローズヴェルトと、英国首相・ウィンストン=チャーチルは、欧米列強の「本音」を代弁する形で、ある共同宣言を発表しました。所謂『大西洋憲章』と呼ばれるものです。その内容は、

等からなっており、一見すると「素晴らしいもの」の様に見えます。しかし、この憲章には、内容とは裏腹に欧米列強の「本音」が顔を覗かせていたのです。例えば、『大西洋憲章』第3項は、

     大西洋憲章 第3項

両国ハ、一切ノ国民ガ其ノ下ニ生活セントスル政体ヲ選択スルノ権利ヲ尊重ス。両国ハ、主権及自治ヲ強奪セラレタル者ニ主権及自治ガ返還セラルルコトヲ希望ス

と謳(うた)っており、一見すると「植民地解放」を表明しているかの様に見えます。しかし、チャーチル・英首相は、この条項に当たって、

インドの「主権」は大英帝国が有している

と明言、議会においてもその旨の答弁がなされたのです。そして、第2項では、

     大西洋憲章 第2項

両国ハ、関係国民ノ自由ニ表明セル希望ト一致セザル領土的変更ノ行ハルルコトヲ欲セズ

として、領土の現状維持を謳っており、前述の第3項と合わせると、『大西洋憲章』に謳われている事は、あくまでも欧米列強(白人帝国主義国)にのみ適用され、有色人種(当然、黄色人種である日本も含む)は適用外、欧米列強がアジア・アフリカ・オセアニアに持つ植民地は絶対に手放さない ── 有色人種の独立は絶対に許さず、引き続き支配下に置く、と言っている訳です。

方、日本は支那事変・満州問題等で米英との対立が先鋭化し、昭和16年12月8日の真珠湾攻撃を皮切りに、「大東亜戦争」に突入していった訳ですが、開戦2年後の昭和18(1943)年11月6日、東京で開催されていたアジア首脳による史上初のサミット ── 「大東亜会議」において『大東亜共同宣言』を採択、内外に発表したのです。以前、コラム『7.昭和18年の「東京サミット」、大東亜会議』にも掲載しましたが、ここに改めて『大東亜共同宣言』の全文を掲載したいと思います。

大東亜共同宣言

 抑(そもそ)も世界各国が各(おのおの)其の所を得相倚(あひよ)り相扶(あひたす)けて万邦共栄の楽を偕(とも)にするは世界平和確立の根本要義なり
 然(しか)るに米英は自国の繁栄の為には他国家他民族を抑圧し特に大東亜に対しては飽くなき侵略搾取を行ひ大東亜隷属化の野望を逞(たくま)しうし遂には大東亜の安定を根底より覆(くつがへ)さんとせり
 大東亜戦争の原因茲に存す
 大東亜各国は提携して大東亜戦争を完遂し大東亜を米英の桎梏より解放して其の自存自衛を全(まつた)うし左(*原文のまま)の綱領に基づき大東亜を建設し以て世界平和の確立に寄与せんことを期す。
 一、大東亜各国は協同して大東亜の安定を確立し道義に基づく共存共栄の秩序を建設す
 一、大東亜各国は相互に自主独立を尊重し互助敦睦の実を挙げ大東亜の親和を確立す
 一、大東亜各国は相互に其の伝統を尊重し各民族の創造性を伸張し大東亜の文化を昂揚す
 一、大東亜各国は互恵の下緊密に提携し其の経済発展を図り大東亜の繁栄を増進す
 一、大東亜各国は万邦との交誼を篤(あつ)うし人種差別を撤廃し普(あまね)く文化を交流し進んで資源を開放し以て世界の進運に貢献す

日本主導によるアジア最初のサミット「大東亜会議」において採択された『大東亜共同宣言』。そこには、米英が欧米列強の「大義」(論理)を掲げた『大西洋憲章』に真っ向から挑む有色人種の「大義」が表明されていました。

の後、有色人種の「盟主」として、米英(欧米列強)に戦いを挑んだ日本は、昭和20(1945)年8月15日、敗北した訳ですが、皮肉にも、第二次世界大戦の結果、誕生した「国際連合」(実質的には大戦中の「連合国」なのだが)『国連憲章』では「諸人民(人種)の平等」が規定されており、『人種差別撤廃条約』・『国際人権B規約』(自由権規約)等の国際法も整備されました。又、日本が「大東亜共栄圏」の大義の下、進めた欧米列強からのアジア植民地解放についても、戦後、アジア・アフリカ・オセアニアの植民地が次々と解放され、独立していった訳で、少なく共、日本は、「戦争には負けたが、理念では勝った」とは言えないでしょうか?

治37(1904)年開戦の日露戦争、大正8年の国際連盟規約「人種差別撤廃条項」提案、昭和16年開戦の「大東亜戦争」と言う、日本の「有色人種としての戦い」は、半世紀を経て、一つの結果を出したと言えます。これら一連の出来事を、単に、日本の「帝国主義」・「軍国主義」の歩みとしてしか見る事が出来無い人達に対しては、「白人 対 有色人種の暗闘」と言う側面から、改めて近代史を振り返ってみる事を勧めたいと思います。


   余談(つれづれ)

く、昭和8(1933)年の国際連盟脱退によって、日本は孤立の道を歩んで行ったと言う事を耳にしますが、果たして本当にそうだったのでしょうか? 国際連盟は、加盟国50数ヶ国を数えましたが、そもそも発足当時から首唱国・米国が不参加する等、大国の足並みが揃わず、常任理事国であった日本・イタリア(1937年)、ドイツ(1933年)は脱退、ソ連(1934年加盟・1939年除名)は除名される等、基盤自体も非常に脆弱でした。更に統一した平和維持軍が編成されなかった事で、「世界平和の確保と国際協力の促進」と言う目的を遂に果たす事が出来ないまま、有名無実化していきました。ですから、日本が国際連盟を脱退する事無く、そのまま留まったとして、果たして「別の歴史」を歩む事が出来たのか? 私は、矢張り、同じ道を歩んだのでは無いかと思うのです。と言うよりも、「日本の戦争」が突き詰めれば、「白人 対 有色人種の戦い」(「支那事変」(日中戦争)も裏で米英が暗躍していた)であった以上、遅かれ早かれ、日米は全面的に対決する運命にあった ── 「歴史の必然」であったと思うのです。(了)


   読者の声 (メールマガジン ≪ WEB 熱線 第1218号 ≫ 2009/8/21_Fri ― アジアの街角から― のクリックアンケートより)

アンケート結果


前のページ 次のページ