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親王宣下 (しんのうせんげ)

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「親王」(女性の場合は「内親王」)とは、嘗(かつ)ての「皇子」(みこ,同「皇女(ひめみこ)」)に取って代わった皇族の呼称であり、明治22(1889)年制定の旧『皇室典範』に於いては、一部の例外を除いて、天皇の子である皇子(皇女)から皇玄孫迄を、昭和22(1947)年制定の現行『皇室典範』に於いては、皇子(皇女)及び皇孫に限ると定められている。又、これ以上の世代になると、「親王」では無く「王」(女王)の呼称を用いた。

代に於いては、例えば、大宝元(701)年施行の『大宝律令(りつりょう)』に、「天皇の兄弟姉妹及び皇子女を以(もっ)て親王・内親王と称し、それ以外を王・女王と称す」と規定されており、上記の範囲内であれば、無条件に「親王」を称する事が出来た。然(しか)し、天平宝字2(758)年、天武天皇の皇子である舎人(とねり)親王(追尊して「崇道尽敬皇帝」と言う)の子、詰まり、「天皇の孫」である大炊王(おおいのおおきみ)が即位(淳仁天皇)すると、帝の兄弟姉妹を新たに親王・内親王とする旨、詔(みことのり)が出され、これを機に、例え、「天皇の子」であっても、帝から親王とする旨、詔を賜(たまわ)らないと「親王」を称す事が出来ない、「親王宣下の制」が始まった。又、それとは反対に、親王宣下の制は、本来、「王」としか称する事が出来ない皇孫以下の世代であっても、詔を賜りさえすれば、「親王」を称す事が可能な道を開いた。例えば、後白河天皇の皇子である以仁王(もちひとおう)は親王宣下を受けなかった為に、「天皇の子」であり乍(なが)ら「親王」を称す事が出来ず(但し、以仁王は、平家追討の挙兵の際に「最勝親王」と自称した)、それとは反対に、三条天皇の皇孫である敦貞王は、「天皇の孫」であり乍ら宣下を受けたが故に「親王」を称す事が出来た。更には、世襲親王家 ── 所謂(いわゆる)「宮家」が成立すると、何世代経ても、親王宣下を受ける事で「親王」を称す事が可能となった。尚、この「親王宣下の制」は、明治22年の旧『皇室典範』制定と共に、廃止され、今に至っている。


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