Reconsideration of the History
162.230年前の皇統危機は如何にして克服されたのか? ── 後桃園天皇と光格天皇 (2006.2.7)

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和40(1965)年11月30日、礼宮(あやのみや) ── 秋篠宮文仁親王殿下御降誕。以来、実に40年もの間、皇室には男性皇族(男系皇男子)が一人も誕生してはいません。皇太子殿下、秋篠宮殿下、寬仁(ともひと)親王殿下、そして、若くして薨去(こうきょ)された高円宮(たかまどのみや)殿下、何(いず)れの宮様にもお生まれになったのは、女性皇族(男系皇女子)のみ。これでは、男系継承の伝統・原則に固執する限り、早晩、皇統の断絶は避けられない。故に、女帝(女性天皇)を認め、皇統の伝統・原則を枉(ま)げて、「女系継承」をも認めるべし。と言うのが、「有識者会議」が打ち出した『皇室典範』改正の道筋である訳ですが・・・果たして、本当にそれしか手だては無いのか? 何が何でも「愛子天皇」を実現する為の『皇室典範』改正では無いのか? 今上(きんじょう)天皇には皇太子殿下と秋篠宮殿下と言うお二方の皇男子がおられます。誠に以て失礼な喩(たと)えとは思いますが、仮に明日、今上陛下の御身にもしもの事が起きたとしても、お二方の皇男子がおられる以上、直(す)ぐさま「皇統断絶」と言う事態に陥(おちい)る訳ではありません。(100%安心だとは言いませんが) だとすれば、事が事だけに、今一度、じっくりと考えてからでも、決して遅くは無いのでは無いか? 何故(なぜ)かと言えば、(かつ)て今以上の「皇統断絶」危機に直面した時、先人達は安易な「女系継承」に走る事無く、知恵を搾(しぼ)り合って、「男系継承」の伝統を守り抜いたからなのです。と言う訳で、今回は、嘗ての「皇統断絶」危機について書いてみたいと思います。

は江戸時代の安永8年11月9日(1779年12月16日)。時の帝(みかど)、第118代・後桃園(ごももぞの)天皇(在位 1770-1779)が22歳と言う若さで崩御(ほうぎょ)しました。帝には、女御(にょうご;皇后)近衛維子の他に側室は無く、彼女との間に生まれた姫宮、欣子内親王が帝の血を引く唯一人の御子様だったのです。然も、姫宮は生まれたばかりの赤子。右も左も全く分からず、女帝に即位させるにも、「次代男帝即位迄の中継ぎ」の意味合いが強い女帝としては、不適格も不適格。帝にとっての唯一の弟・貞行親王は伏見宮家へと入り、父・桃園天皇の世代には男性皇族はいない。祖父・桜町天皇の世代には男性皇族がいたものの、何(いず)れも「法親王(ほっしんのう)」として出家し宮門跡(もんぜき)を継いでいる始末。(現在の僧侶とは異なり、当時の僧侶は妻帯しなかったので、当然の事乍(なが)ら、「法親王」に子供等いなかった) 正直言えば、この状況は、今現在の「皇統危機」からは想像も出来ない程の緊急且つ切迫した「危機」だった訳で、ここで皇室の伝統である「男系継承」を放棄し、「女系継承」を選択しても良かった訳です。然し、先人達は、祖法である「男系継承」を頑(かたく)なに護(まも)り、途轍も無い方策で、この「皇統危機」を乗り越えたのです。では、その時、一体何が起きたのか?

永8年11月9日(1779年12月16日)、後桃園天皇が「崩御した」その日、若干8歳の少年が即位しました。後に「光格天皇」と諡(おくりな)される事となる新帝です。この新帝 ── 光格天皇は、先帝・後桃園天皇「危篤」の11月8日 ── 実際には、この時、先帝は既に身罷(みまか)っていたのだが ── 閑院宮(かんいんのみや)家から急遽、先帝の「養子」として皇家に入り、翌日、先帝「崩御」の発表と同時に、新帝として即位したのです。

系図.第118代後桃園天皇と第119代光格天皇

掲出の系図をご覧頂ければ分かる事ですが、両者は、後桃園天皇の曾祖父(中御門天皇)と光格天皇の祖父(閑院宮直仁親王)が兄弟と言う関係で、「親戚」(一族)である事には間違いありません。然し、「親戚」とは言え、遠い「遠い親戚」であり、後桃園天皇と光格天皇の間には全く面識はありませんでした。詰まり、「危篤」の中、後桃園天皇は「親戚」とは言え、全く名前も顔も知らない少年を「養子」に迎え、皇位を継承させた事になる訳です。それと同時に、そう迄して護らねばならないもの、それが「男系継承」と言う皇室の重い伝統であると言える訳です。

(さて)、その後、光格天皇の新たな「皇室」はどうなったのか? 傍系(分家筋)から即位した光格天皇は、傍系出身と言うコンプレックスからか、嫡系(本家筋)の歴代天皇以上に、「天皇」としての自覚を持ち、朝廷の権威の向上に努め、大嘗祭(だいじょうさい)等の各種皇室祭祀儀礼の復興にも尽力し、歴代天皇の中で最も「天皇らしい天皇」として後世評価されています。又、先帝・後桃園天皇の忘れ形見(がたみ)であった欣子内親王を中宮(ちゅうぐう;皇后)に迎え、温仁親王・悦仁親王と言う二皇子を儲(もう)ける等、嫡系・傍系両皇統の融和にも努めています。「女系継承」推進派の中には、「男系継承」派が主張する旧宮家の皇籍復帰、そして、新たな「男性皇族」への皇位継承資格付与を、

60年も前に皇籍離脱し、民間人として生きてきた方々とその子孫を、今更、皇籍復帰させる等、困難。ましてや、皇位継承等、ナンセンス。

と言った風に反対する向きもありますが、旧宮家の方々に、皇籍復帰を受けるや否(いな)や? そのお覚悟は如何(いか)に? と言った打診すらしていない段階で、「端(はな)から無理」と結論を出す、その事の方がナンセンスでは無いか?と私は思う訳です。又、傍系から皇位を継承した光格天皇の例もある通り、「天皇らしさ」と言うものは、本人の心の持ちようであり、後から幾らでも付いてくるものです。この先、旧宮家出身の天皇が即位したとしても、「天皇」としての気概を持ち、光格天皇の如く「天皇らしい天皇」として後世に名を残す可能性が無いと誰が言えるでしょうか? 敬宮(としのみや)愛子内親王殿下が「愛子天皇」としてでは無く、光格天皇の中宮として入内(じゅだい)した欣子内親王よろしく

愛子皇后

となる、それによって、今上天皇の血(嫡系)と旧宮家出身天皇の血(傍系)の融合による、新たな皇室の誕生と言う可能性を、何故、端から排除しようとするのか? 「男系継承」と言う皇室の伝統を維持しつつ、尚且つ、平成皇室をも活かす、その様な「丸く収まる」方策がある事を、私達は認識すべきですし、江戸時代に実際に起こった「皇統断絶」危機を乗り越えた先人達の苦労を無にしない為にも、改めて、皇族を加えた真の「有識者会議」を開き、皇統の伝統を損なわない形での『皇室典範』改正が為される事を強く希望して、締め括りたいと思います。


   余談(つれづれ)

コラム脱稿の直前に、秋篠宮紀子妃殿下の第三子御懐妊の報が流れました。茲(ここ)に謹んでお慶び申し上げると共に、今秋出産予定との事に付き、無事丈夫な御子様を御出産遊ばされる事を切に願って居(お)ります。ところで、紀子妃殿下が男子=親王を御出産なされた場合、どうなるのか? 現行の『皇室典範』に則れば、親王殿下は、皇太子徳仁(なるひと)親王殿下、秋篠宮文仁親王殿下に次ぐ、皇位継承資格第三位となり、皇位を継承する可能性が出てくる訳です。小泉総理等は『皇室典範』改正法案を何が何でも今国会に提出、可決成立する構えの様ですが、御子様が親王の可能性もある以上、拙速に事を運ばねばならない理由は最早(もはや)無くなったと言えます。それでも、『皇室典範』改正を強行しようとするのであれば、其処(そこ)には「皇統危機」への対処とは異なる、別の意図があると国民から疑念を抱かれても仕方無いでしょうし、それが明白となったならば、皇統の伝統の破壊に他ならない女帝・女系継承実現を企図した小泉総理以下「有識者会議」の面々に対しては、厳しく処断しなければならないでしょう。

方で、日本は往古(いにしえ)より、豪族連合政権、摂関政権、武家政権、藩閥政権、議会制民主政権、と幾度と無く「政体」の大変革に見舞われて来ました。その都度、為政者(権力者)が交替し、時として多くの血も流されました。然し、それでも尚、変わらなかったものがあります。それが「天皇」(権威者)の存在であり、然も連綿と続いてきた皇統です。「国体」の位置付けに付いては、様々な解釈がありますが、私は悠久の時を越えて連綿と続いてきた男系継承による皇統こそが、日本の「国体」であり、その体現者が「天皇」であると認識しています。そして、「政体」が幾ら変わろう共、決して変わる事の無い「国体」を有して来たからこそ、日本はいざと言う時に底力を発揮し、先の大戦に於ける完膚無き迄の敗戦、と言った未曾有の国難をもはね除けて、復興したのだと思う訳です。その点からも、決してブレる事の無い「国体」は、今後も断固護持していかねばならない、と言えます。


参考文献


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