Reconsideration of the History
140.昭和22年の「皇籍剥奪」を撤回せよ!! ── 「皇統断絶」危機に対する処方箋(下) (2005.2.7)

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和22(1947)年10月13日、宮内府(宮内省の後進、宮内庁の前身)よりある「告示」が布告されました。曰(いわ)く、

三直宮(じきみや)を除く全ての宮家は「皇籍離脱」すべし

と。そして、翌10月14日の「官報告示」によって、昭和天皇御一家(内廷皇族)と、秩父宮・高松宮・三笠宮の三直宮家(外廷皇族;何(いず)れも大正天皇の子=昭和天皇の弟を祖とする) 計16名以外の、十一宮家・51人もの皇族が「皇籍離脱」、臣籍降下したのです。

1. 昭和22年10月14日以後も皇室に残留された内廷皇族
称号 御名 続柄
  昭和天皇 裕仁(ひろひと) 第124代天皇・大正天皇第一皇子
貞明皇后 節子(さだこ) 大正天皇皇后・九条道孝公爵第四息女
香淳皇后 良子(ながこ) 昭和天皇皇后・久邇宮邦彦王第一王女
孝宮(たかのみや) 和子内親王 昭和天皇第三皇女・鷹司平通(たかつかさ-としみち)に降嫁
順宮(よりのみや) 厚子内親王 昭和天皇第四皇女・池田隆政に降嫁
継宮(つぐのみや) 明仁親王 昭和天皇第一皇子(第125代今上天皇)
義宮(よしのみや) 正仁親王 昭和天皇第二皇子(常陸宮)
清宮(すがのみや) 貴子内親王 昭和天皇第五皇女・島津久永に降嫁

2. 昭和22年10月14日以後も皇室に残留された外廷皇族(三直宮)
宮号 御名 続柄
秩父宮 (ちちぶのみや) 雍仁(やすひと)親王 大正天皇第二皇子
勢津子(せつこ) 雍仁親王妃・松平恒雄(つねお)第一息女
高松宮 (たかまつのみや) 宣仁(のぶひと)親王 大正天皇第三皇子
喜久子妃 宣仁親王妃・ 徳川慶久(よしひさ)公爵第二息女
三笠宮 (みかさのみや) 崇仁(たかひと)親王 大正天皇第四皇子
百合子妃 崇仁親王妃・高木正得(まさなり)第二息女
ィ子(やすこ)内親王 崇仁親王第一皇女・近衛忠輝(このえ-ただてる)に降嫁
寬仁(ともひと)親王 崇仁親王第一皇子

    3. 昭和22年10月14日に「皇籍離脱」された皇族方 系図
宮号 御名 続柄
伏見宮 (ふしみのみや) 博明王 故博義王第一王子・伏見宮第24代
朝子(ときこ) 故博義王妃
光子女王 故博義王第一王女
章子(あやこ)女王 故博義王第二王女
閑院宮 (かんいんのみや) 春仁王(皇籍離脱後、純仁と改名) 故載仁(ことひと)親王第二王子・閑院宮第7代
直子妃 春仁王妃
山階宮 (やましなのみや) 武彦王 故菊麿王第一王子
梨本宮 (なしもとのみや) 守正(もりまさ) 故朝彦親王第四王子
伊都子(いつこ) 守正王妃
北白川宮 (きたしらかわのみや) 道久王 故永久王第一王子・北白川宮第5代
房子妃 故成久王妃
祥子(さちこ) 故永久王妃
肇子(はつこ)女王 故永久王第一皇女
久邇宮 (くにのみや) 朝融(あさあきら) 故邦彦(くによし)王第一王子・久邇宮第3代
邦昭王 朝融王第一王子
朝建(あさたけ) 朝融王第二王子
朝宏(あさひろ) 朝融王第三王子
朝子女王 朝融王第二王女
通子(みちこ)女王 朝融王第三王女
英子(ひでこ)女王 朝融王第四王女
典子女王 朝融王第五王女
俔子(ちかこ) 故邦彦王妃
静子妃 故多嘉王妃
東伏見宮 (ひがしふしみのみや) 周子(かねこ) 故依仁親王妃
賀陽宮 (かやのみや) 恒憲(つねのり) 故邦憲王第一王子・賀陽宮第2代
敏子(としこ) 恒憲王妃
邦壽(くになが) 恒憲王第一王子
治憲(はるのり) 恒憲王第二王子
章憲(あきのり) 恒憲王第三王子
文憲(ふみのり) 恒憲王第四王子
宗憲(むねのり) 恒憲王第五王子
健憲(たけのり) 恒憲王第六王子
竹田宮 (たけだのみや) 恒徳(つねよし) 故恒久王第一王子・竹田宮第2代
光子妃 恒徳王妃
恆正(つねまさ) 恒徳王第一王子
恆治(つねはる) 恒徳王第二王子
素子(もとこ)女王 恒徳王第一王女
紀子(のりこ)女王 恒徳王第二王女
朝香宮 (あさかのみや) 鳩彦(やすひこ) 故朝彦親王第八王子・朝香宮初代
孚彦(たかひこ) 鳩彦王第一王子
千賀子(ちかこ) 孚彦王妃
誠彦(ともひこ) 孚彦王第一王子
富久子(ふくこ)女王 孚彦王第一王女
美乃子(みのこ)女王 孚彦王第二王女
東久邇宮 (ひがしくにのみや) 稔彦(なるひこ) 故朝彦親王第九王子・東久邇宮初代
聰子(としこ) 稔彦王妃
盛厚(もりひろ) 稔彦王第一王子
成子(しげこ) 盛厚王妃
信彦王 盛厚王第一王子
文子女王 盛厚王第一王女
俊彦王 稔彦王第四王子

昭和20(1945)年8月15日の終戦を機に、日本に進駐してきたGHQGeneral Headquarters:連合国軍総司令部)の意向により皇室財産が国有化され、それと連動する形で、従来、御料(ごりょう:皇室財産)から支出されてきた宮家の経費も政府予算に計上される等、皇室の持つ「特権」が次々と奪われていきました。そして、昭和22年5月3日、『日本国憲法』の施行と時を同じくして、戦前、『大日本帝国憲法』と並んで日本に於ける最高法典であった『皇室典範』(以下、「旧典範」と略)が廃止、新たな『皇室典範』(以下、「現行典範」と略)が施行されたのです。

「華族その他の貴族は、これを認めない」── この文言(『日本国憲法』第14条)で「華族制度」は廃止、奈良・平安の往古(いにしえ)から連綿と続いてきた摂家(せっけ:藤原摂関家)や、260年余にわたって将軍を輩出してきた徳川家(旧将軍家)と言った華族(特権階級)は一夜にして「平民」(一般人)に転落した訳ですが、これは、この後に起こる出来事の「伏線」と言うべきものでした。何故なら、昭和22(1947)年10月13日、宮内府より、「三直宮を除く全ての宮家は『皇籍離脱』すべし」との告示が布告されたからです。

   皇籍離脱(こうせき-りだつ)
皇族がその身分を離れて一般の国民となること。皇太子・皇太孫を除く皇族は皇室会議の議を経ればそれができる。旧制の臣籍降下に当る。(『広辞苑』より)
この宮内府告示によって、伏見宮・閑院宮(かんいんのみや)・山階宮(やましなのみや)・梨本宮・北白川宮・久邇宮(くにのみや)・東伏見宮・賀陽宮(かやのみや)・竹田宮・朝香宮(あさかのみや)・東久邇宮(ひがしくにのみや)の十一宮家、実に51人もの皇族が一挙に「皇籍離脱」したのです。しかし、私はこれが「皇籍離脱」だったとは到底思えないのです。

『皇室典範』とは、そもそも、皇位継承・摂政(せっしょう)設置・皇室会議・天皇及び皇族の身分等、皇室に関する事項を規定した法律である訳ですが、その内でも、明治22(1889)年2月11日に制定され、昭和22年5月3日に廃止(新法制定)された「旧典範」は、『大日本帝国憲法』と同格、いやそれ以上に権威のあった当時の日本に於ける最高法典でした。又、「旧典範」は、「現行典範」とは異なり、皇室の「私法」(家法)としての色彩が濃いものだったのです。その様な「旧典範」を改正し、更に、「皇室の執事(番頭)」と言っても過言では無い「宮内府」が、主人たる皇室(皇族)に対して、「三直宮を除く全ての宮家は『皇籍離脱』すべし」との告示を布告、実際に51人もの皇族が「皇籍離脱」した経緯を考えれば、これは、「皇籍離脱」と言うよりも、むしろ、

皇籍剥奪

と呼ぶ方が当を得た出来事だったと思うのです。実際、昭和天皇御自身も、十一宮家の「皇籍離脱」には反対だったと言われています。

(ここまで)「現行典範」に於ける皇位継承問題や、容認の方向で話が進んでいる「女帝」問題、更には、十一宮家の「皇籍離脱」について論じてきた訳ですが、そろそろ、皇位継承問題に対する私なりの「結論」を書いてみたいと思います。日本の皇室の「伝統」は、皇位が「男系の男子」によって継承されてきた処にある訳です。例え、それが嫡出(例:大正天皇と貞明皇后との間にお生まれになった昭和天皇)だろうが、庶出(例:明治天皇と柳原愛子(なるこ)二位局(にいのつぼね)との間にお生まれになった大正天皇)だろうが、「男系の男子」による皇位継承であった事には変わりがありません。そこへ持ってきて、あくまでも緊急避難的な「中継ぎ」としての「女帝」では無く、「女系継承」に道を拓(ひら)く「真の女帝」の誕生 ── 「徳仁(なるひと)天皇」(現皇太子殿下)の次は、「愛子天皇」(敬宮(としのみや)愛子内親王殿下)、その次は、「愛子天皇」のお子様・・・と、連綿と続いてきた「男系の男子」の伝統を放棄し、「男系の女子」、更には、「女系の男子(女子)」へと皇位を継承させる事が果たして、本当に良い事なのか? 私は少なからず躊躇(ためら)いを覚えます。確かに、「現行典範」のままでは、近い将来、連綿と続いてきた「皇統の断絶」と言う最悪の事態に陥る事は確かです。だからこそ、「現行典範」を改正し、「女帝」も容認すべきだ、と言う意見も分からなくはありませんし、実際、私とて「愛子天皇」誕生に反対している訳ではありません。しかし、その前に、為すべき事があるのでは無いか? 私はそう思う訳です。

『皇室典範』(「現行典範」)改正の前に為すべき事、それは、昭和22年10月13日の宮内府による「皇籍離脱」告示を撤回し、旧宮家を復活させる事です。60年近い歳月の中で、旧十一宮家の中には後嗣(あとつぎ)の無きまま断絶してしまった家もありますが、今も七家が存続しており、その内、久邇・賀陽・竹田・朝香・東久邇の五家(皇籍離脱後、「〜宮」の宮号から「宮」を外して家名とされた)には男性が居(お)ります。

旧七宮家の現在(戦後、GHQにより強制的に皇籍離脱させられた11宮家の内、現在も残っている旧宮家)

前述の様に、十一宮家の「皇籍離脱」は、皇室・宮家自身が望んでの離脱と言うよりも、「皇籍剥奪」の色彩が濃いものだった訳ですから、その気になれば、「宮家復活」を実現する事は十分可能な筈です。そして、今も尚存続している七「宮家」を復活させた上で、その内、五「宮家」に居られる男性 ── 「親王」の中から、年齢的に近く、且つ、お相手として相応(ふさわ)しいと思われるお子様を、愛子内親王殿下の御学友を兼ねた許婚(いいなづけ)として、今の内から然るべき教育をお受け頂き、将来、愛子内親王殿下と御成婚、「愛子天皇」即位の暁には、「皇配殿下」にお就き頂くのが一番妥当ではないか、と思う訳です。

宮家は何(いず)れも伏見宮貞成(さだふさ)親王に起源を発する「北朝」の流れを汲んでいます。(註:貞成親王の「正体」は足利義満の子であり、後小松天皇から孝明天皇に至る「北朝」系は実際には「足利朝」と言える。この事については、コラム『17.「北朝」は滅亡していた!! 南北朝秘史-其の壱-』(1997.11.15)を参照の事) それに対して、以前のコラム『20.「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆-』(1998.1.4)でも触れましたが、明治天皇以後の皇室は「南朝」の流れを汲んでいます。つまり、南朝の流れを汲む「愛子天皇」と、北朝の流れを汲む旧宮家の「親王」との御成婚は、700年もの長い時を隔てて、二つに分かれた南北両統が、真の意味で合一する事を意味する訳です。そして、お二方の間に親王がお生まれになれば、「男系の男子」による皇位継承と言う皇室の伝統(「北朝」系から見た場合、曲がりなりにも「男系」になる)をも満たし、正に南北両統の血を生まれながらにして継承する「天皇の中の天皇」として御即位される事になります。これはある意味、皇室史に於けるエポックメイキングと言っても過言では無い歴史的出来事となります。(例え、「愛子天皇」と皇配殿下との間に親王がお産まれにならなかったとしても、復活した宮家に親王が居られれば、「男系の男子」による皇位継承は充分可能)

南朝・・・・・「愛子天皇」
          ┃
          ┠──────次代天皇(南北両統の血を継承する「天皇の中の天皇」)
          ┃
北朝・・・・・・旧宮家出身「親王」

「女帝」を容認するのか? 皇位継承を「男系の男子」に限るのか否か? と言った議論が繰り広げられていますが・・・「愛子天皇」誕生(女帝)に道を拓き、且つ、男系による皇位継承をも満たす、この難しい問題を解くには、旧宮家の復活は決して避けて通る事が出来ない。少なく共、私はその様に考えていますが・・・皆さんは如何(いかが)お感じになったでしょうか?


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