Reconsideration of the History
34.「殷周革命」等なかった!? 真説・古代中国四国志(1998.7.22)

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国の王朝史と言うと、伝説の夏王朝(中国最初の世襲王朝。現在、歴史的実在に傾きつつある)を除くと、殷王朝が最初となります。黄河中流域に発生した殷王朝(紀元前1500頃-1111頃 以下、殷と省略)は、初代湯王(成湯)から約30代続き、酒池肉林に溺れたと言う紂王(帝辛)の時、新たに興った周王朝(紀元前1111頃-256 以下、周と省略)の武王に滅ぼされたとされています。これが一般に「殷周革命」と呼ばれる殷から周への王朝交替です。しかし、実際には殷から周への交替等と言う簡単なものではありませんでした。と言う訳で、今回は「殷周革命」の虚構を暴き、古代中国で実際に何が起こったのかを書いてみたいと思います。

古代中国王朝の変遷

(?-前1500頃) → 殷(前1500頃-1111頃) → 周(前1111頃-256)

ず、最初に皆さんに知って頂きたい事は、殷の後に周が成立したのではないと言う事です。これがどの様な事かと言うと、周は殷の時代、既に「存在」していたと言う事です。彼ら(周)は殷や我々の祖先・倭人等の「東大神族」(「シウ-カラ」と呼んだ)に対して、「西族」と呼ばれました。黄河中下流域に殷が栄えていた時、彼らは西域(トルキスタン)から黄河上流の辺境地帯−現在の中国・甘粛省へと「移住」(民族移動と言った方が適切かも知れません)してきました。彼らはそこに殷の宗主権を認めた上で、周と言う国を作ったのです。殷の宗主権を認めた−つまり、殷の属国の地位を認めるのと引き替えに、自治国を許された訳で、これはかつての中国と朝鮮の関係に似た様なものです。しかし、周(と言うより、「西族」)は狡猾でした。殷の属国という地位に甘んじながらも、殷に取って代わる算段を着々と打っていったのです。

方、殷の南方に目を転じると、そこにはもう一つの大勢力が存在しました。その国の名をと言います。その楚に歩み寄り、「倒幕」の密約を結んだのが、あの周でした。周は文王(殷を滅ぼした武王の父)の時、諸侯の上に立ち、殷王の後見として天下に号令する迄に実力を上げていたのです。つまり、臣下の最高位に迄登りつめていた訳で、周にとっての目標はもはや、殷に代わって名実共に天下を取る事以外あり得なかった訳です。その周が楚と同盟を結び、殷を西と南の二面から挟撃(はさみうち)し、遂には滅ぼしてしまったのです。これが世に「殷周革命」と呼ばれる王朝交替の真実です。しかし、周楚同盟による殷滅亡はその後、約900年に及ぶ「動乱」の時代の幕開けでもあったのです(後述)。

はなぜ、楚は周と同盟を結んだのか? 同盟を結ぶについては周楚両国の間に、殷滅亡後の「取り決め」があった筈です。密約文書等残っていない以上、憶測の域を出ないのですが、楚が周と共に宗主国・殷に矛を向ける以上、余程の好条件でなければ受諾しなかった筈です。それが何だっのか? それは殷末における周同様、楚が諸侯の上に立つ「大諸侯」の地位ではなかったでしょうか? その証拠として、まず、下の表をご覧になって下さい。

楚は諸侯の中で、周と同じ「王」号を最初に称している
国名 王名 在位 備   考
武王 前740-690  
王 寿夢 前585-561 伝説では、周王室と同族と言う事になっている
王 句践 前496-465  
魏(梁) 恵王 前369-319 晋の三卿の一つで、周王室の同族
斉(田斉) 威王 前356-320 周王室と同族だった呂斉に取って代わった
恵文王 前337-311  
宣恵王 前332-312 晋の三卿の一つで、周王室の同族
易王 前332-321 周王室の同族
武霊王 前325-299 晋の三卿の一つで、周王室の同族

この表でお分かりの通り、数ある諸侯の中で一番最初に、周王と同じ「王号」を使用したのが、楚なのです。しかし、楚独自の王号「〜敖」も含めると、若敖(在位 前790-764)・霄敖(在位 前763-758)・杜敖(在位 前676-672)の三王がおり、「〜王」と言う形式よりも更に時代を遡るのです。そして、もう一つ言える事は、燕や三晋(韓・魏・趙)等、周王室と同族である姫氏の諸侯(江戸時代で言えば、さながら御三家・御三卿と言った所)が「王」を称するより遙か以前に、楚が「王」を称していると言う事実です。これこそが、当時、楚が他の諸侯とは「別格」だった事に他ならないのです。そして、その事が、新たな「動乱」の種を蒔いたのです。

元前841年、周国内で大乱が起きました。時の周王・脂、が出奔、召公・周公の二人が臨時に政務を執る異常事態となったのです。その後、前828年に空位だった王位に宣王が即位し、一旦は平穏を取り戻しました。しかし、前771年、モンゴル族の犬戎が周に軍事侵攻し、遂には時の周王・幽王を殺してしまったのです。この事件を境に以前を「西周」、以後を「東周」と呼び区別しています。西周末期、実力をつけていた諸侯は、この事件を契機に「権威」が地に墜ちた周より自立し、互いを攻める「春秋・戦国時代」へと突入してしまったのです。と「通史」では、「春秋・戦国時代」の発端について、この様に語っていますが・・・実際は大きく違っていたのです。

秋・戦国時代の発端は、周王室の権威低下が主因ではなかった!! では、何が主因だったのでしょうか? それこそが楚の動向だったのです。楚は長江(揚子江)以南−華南を領有していた大国でした。その楚が長江を渡河北上し、黄河流域の「中原」(日本で言えば、京都を中心とした「畿内」に相当)への進出を企図したのです。中原と言えば、周王の坐す都をはじめとして、王室に連なる姫氏諸侯の封国が多くある地。ここへ進出すると言う事が何を意味するか、皆さんならもうお分かりでしょう。そうです。楚は周に取って代わろうとしたのです。だからこそ、周王の権威が低下したとは言え、他の諸侯がはばかって使わなかった「王号」を最初に称したのです。「周王」に対する「楚王」。この王号の件一つ取っても、楚の周に対するスタンスが明確に読みとれます。そして、楚の北上に触発された諸侯は、自国の興廃を掛けて、互いを攻める春秋・戦国時代の門を開いたのです。

を滅ぼしたのは周・楚両国だった。しかし、この「殷周革命」にはもう一つの国が関わっていたのです。その国の名をと言います。四山四川に周囲を囲まれ、天然の要害に守られた中国・四川省。この地は地味豊かで、三国志の時代には、諸葛孔明の意見を容れた劉備が蜀漢(221-263)を建てた事で知られています。蜀は、今まで辺境の後進地帯とばかり思われていたのですが、近年の研究で、殷・周に勝るとも劣らない歴史を持つ文明の先進地帯だった事が明らかになったのです。そして、この蜀も楚と同様、殷へと兵を進め、周の覇権成立に深く関わっていたのです。まだまだ謎の多い蜀ですが、三星堆遺跡で発見された巨大青銅器や、「蜀王本紀」・「華陽国志」等の古文書によって、中国古代史が大きく書き換えられる事は間違いないでしょう。

古代中国(殷周革命期)は、四国志の様相を呈していた?


後に、滅亡した殷のその後について、書いてみたいと思います。殷は周・楚・蜀連合によって滅ぼされたと書きましたが、実は漢の時代迄「存続」していたのです。その名を「シウ殷」(契丹古伝)・「番朝鮮」(桓檀古記)・「箕氏朝鮮」(朝鮮史)等と呼ばれた国で、早い話が「殷の第二王朝」と言ったものです。殷滅亡の最中、王族の一人が遼東半島へと逃れ、遼東半島から現在の平壌(ピョンヤン)周辺に至る地域に国を再興したのがそもそもの興りです。周王室に連なる姫氏の燕同様、燕共呼ばれましたが(そもそも、遼東・遼西の地を燕と呼んだ)、姫氏の燕と区別する為に、「智淮氏燕」(チワイシエン)と呼ばれた共言われています。そして、この「チワイシエン」が訛って、「チョウセン」となり、漢字を当てる時に、やかなりしと言う佳字(良い字)を選んだと言われています。

   余談(つれづれ)

鮮の古代国名に「辰」と言うものがあります。又、高句麗滅亡後、王族が再興したと言われる渤海国の別称「震国」・「振国」にも、「辰」の字があります。そして、この「辰」は、「晨」(あかつき 暁)に通じ、その後の国名「朝鮮」へと引き継がれていくのです。又、新羅(朝鮮東部)には、「迎日湾」と言う湾があります。更に南下すると、そこには「日本」があります。日輪(太陽)に導かれた時、殷から朝鮮、そして、日本へと道は繋がっていたのです。

参考文献


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