Reconsideration of the History
33.富士王朝の人々はノアの子孫か? アララト山と富士を結ぶ点と線(1998.7.5)

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月1日、本格的な夏山登山を告げる富士山の山開きが行われました。私も前日、麓の北口本宮冨士浅間神社(山梨県・富士吉田市)での開山前夜祭に参加した後、夜行登山で翌朝(4:30)、好天の中、山頂で御来光を迎えました。と、以前から胸の中でモヤモヤしていた一つの「疑問」が、瞬く間に解けていったのです。その疑問とは、

  1. 毎年8月26日に行われる「吉田の火祭り」(富士山のお山じまい)等、富士山に関する神事・祭事に、なぜ「火」が登場するのか?
  2. 『宮下文書』(富士古文書)に登場する西の高天原(たかまがはら)「阿間都洲」(アマツクニ)とは一体何処なのか?
  3. 富士山とアララト山(トルコ・アルメニア)は双子の兄弟の様にかくも似ているのか?

等です。と言う訳で、今回はこれらの疑問について私が感じた事を書いてみたいと思います(ちなみにこれらは全て私のインスピレーションです)

て、まず最初に富士山と「火」の関係からですが、私は「吉田の火祭り」の中に、古来、西アジア(主としてイラン)で広く信仰された「拝火教」(ゾロアスター教)の「影」を見たのです。 まあ、富士山自体、休火山で過去幾度と無く大規模な噴火をしてきた事を考えれば、「火」に対する畏敬の念から、「吉田の火祭り」が生まれたと言えない事もありません。しかし、高さ3m・直径80cmもの大松明(たいまつ)60本と、井桁に組んだ松明で、街中が文字通り「火の海」と化す「日本三奇祭」の一つです。薪能(たきぎのう)等に使われる松明とは全然規模が違います。一応、祭りの意義は「火を焚いて富士山の火を鎮める」為と言う事になっていますが、それにしては、使われる松明の規模が他に例を見ない程で、「火」に対する「執着」の様なものがひしひしと感じられます。これはどう見ても、「火」に対する「信仰」−拝火教の名残の様に感じられて仕方がないのです。ちなみに、『宮下文書』に登場する第一世代(天之世七代)の神々の名前にも「火」が登場します。

第一神朝・天之世(アメノヨ)には、最初の三代に「火」を名前に持つ神が登場する

代数 男神名 女神名
1 天峰夫神(アメノホホオノカミ) 天峰母神(アメノホホボノカミ)
2 天高夫神(アメノタカホオノカミ) 天高女神(アメノタカホメノカミ)
3 天高地神(アメノタカチホノカミ) 天高千女神(アメノタカチホメノカミ)
4 天高木比古神(タメノタカギヒコノカミ) 天高木美神(アメノタカギミノカミ)
5 天草男神(アメノクサオノカミ) 天草美神(アメノクサミノカミ)
6 天高原男神(アメノタカハラオノカミ) 天高原美神(アメノタカハラミノカミ)
7 天御柱比古神(アメノミハシラヒコノカミ) 天御柱美神(アメノミハシラミノカミ)

に、『宮下文書』(『富士高天原王朝史』共呼ばれる)に登場する西の高天原「阿間都洲」の所在についてです。『宮下文書』には自ら(富士王朝を開いた人々)の原郷を「阿間都洲」と呼んでいます。そして、その阿間都洲から、陸(後世、「シルクロード」と呼ばれる道)・海(インド洋経由)二つのルートに分かれて、日本列島に渡来し、富士王朝を開いたと言うのです。では、富士王朝を開いた人々がかつて住んでいた阿間都洲とは一体何処なのでしょうか? 研究者の間では、

西アジア北東部 中央アジアの西、アラル海に注ぐアムダリア・シルダリア両河の上流部高原地帯
バビロニア地方 ティグリス・ユーフラテス両河の上流部高原地帯−俗にメソポタミアと呼ばれる地域
アナトリア地方 現在のトルコ国土の大部分を占める地域−俗に小アジアと呼ばれる地域
ナイル河中流域 古来、上エジプト(南エジプト)と呼ばれた地域

等がその候補地として挙げられています。いずれも古代文明の発生地と考えられている地域ですが、前述の「拝火教」との観点から考えると、西アジア北東部(イラン高原)が有力と言えます。しかし私は、更に西のアルメニア地方ではないかと思うのです。

西の高天原「阿間都洲」はアルメニアか? 私がこう考える理由の一つに、アルメニア地方を代表する一つの「聖なる山」の存在があります。その名をアララトと言います。

アララト山
▲万年雪を頂く聖なる山・アララト  『旧約聖書』に「ノアの箱船」が漂着したと伝えられる

アララト山。標高5,165mの大アララト(写真左側)と、3,925mの小アララト(写真右側)の2峰からなるコニーデ型(成層・円錐)火山。『旧約聖書』「創世記」に「ノアの箱船」が漂着したと伝えられる聖山で、この山を中心とした地域を古来よりアルメニアと呼んでいます。この山は万年雪を頂き、トルコ・アルメニア・イラン等の国境地帯に隣接する為(現在はトルコ領)、現在でも入山が厳しく制限されています。このアララト山をご覧になって、皆さんは何か感じませんでしょうか? 周囲の風景を取り除いてみると・・・そう、あの霊峰・富士と見紛う程そっくりなのです。

富士山
▲日本を代表する霊峰・富士  かつてその麓には壮麗な神都があったと伝えられる

富士山。標高3,776m(剣ヶ峰)、山梨(ピークは白山岳 3,756m)・静岡(ピークは剣ヶ峰 3,776m)両県にまたがる日本の最高峰。アララト山と同様のコニーデ型火山で、山頂・山麓間の標高差では世界最大規模を誇っています。

これら二つの山がなぜ、かくも似ているのか? コニーデ型火山だからと言えば、それ迄ですが、その他にも、

  1. アララト山は「ノアの箱船」の漂着地として、富士山は富士浅間神社の「御神体」として、両者共、古くから信仰の対象として崇拝されてきた。
  2. アララト山と麓の都市(地名が分からない)の組み合わせは、富士山と麓の富士宮市(静岡県)の組み合わせと瓜二つと言って良い程、風景が似ている
これらは偶然なのでしょうか? 私は両者に「接点」がある様に思えてなりません。もし、『宮下文書』に登場する阿間都洲がアララト山麓の都市だったとしたら、そこから陸海二つのルートを経て人々が日本列島に渡来したのだとしたら、故郷アララト山と瓜二つの富士山を目にした時、彼らはどんな感慨を抱いたでしょうか? 当時は、まだ「富士五湖」は無く、宇津湖(後、河口湖・山中湖・忍野八海に分断)・せの海(後、西湖・本栖湖・精進湖に分断)と言う二つの巨大な湖だったそうです。又、駿河湾の海岸線も現在より、かなり内陸にあったそうです。彼らの目に映ったのは、(巨大な湖)の上に浮かぶ「第二のアララト山」だったのではないでしょうか? だからこそ、かつてアララト山麓に居を構えたのと同様に、富士山麓に居を構え、新たな「王国」(富士高天原王朝)を築いたのではないでしょうか?

参考文献


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