Reconsideration of the History |
267.日本は大戦に「勝利」した? ── 白人帝国主義と差し違えた有色人種最後の希望 (2016.2.21) |
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昭和16(1941)年12月8日の日本軍による米国はハワイ・真珠湾への攻撃に始まり、昭和20(1945)年8月15日の「玉音放送」(昭和天皇の肉声によるラジオ放送を通じてのポツダム宣言受諾と全軍に対する戦闘停止命令)を経て、同年9月2日の東京湾上、米戦艦ミズーリ号での降伏文書調印によって終結した「大東亜戦争」(連合国側は「太平洋戦争」と呼称)。第二次世界大戦に包含され、アジア・太平洋の広範な地域を戦場に、日本と米・英・豪(オーストラリア)・蘭(オランダ)、そして、終戦直前にソ連(現ロシア)をも参戦した史上最大の戦争は、日本の「敗北」によって幕を閉じた ── と言う事になっており、我々は皆、その様に歴史教育で教えられてきました。そして、その前提の下(もと)に、戦後の「歴史認識」が醸成され、一部の国が悪意の元に、「日本の歴史認識」を殊更(ことさら)取り上げ、日本に対し、何時迄(いつまで)も、「反省」や「謝罪」を強(し)いてきた事は、論を俟(ま)たない事実です。
昨年、平成27(2015)年は、所謂(いわゆる)「戦後70年」と言う節目の年だった事もあり、国内外共に喧(かまびす)しい一年でした。然(しか)し乍(なが)ら、年も改まり、此処(ここ)に来て、漸(ようや)く落ち着いた感のある世情を捉え、「前(さき)の大戦」に付いて、私は改めて「歴史再考」の観点から、新たな「歴史認識」を世に問いたいと思うのです。即(すなわ)ち、
日本は「大東亜戦争」に勝利した!
── いや、百歩譲ったとしても、
日本は「大東亜戦争」にドロー(引き分け)した!
と。では、何故(なにゆえ)、その様に言えるのか? 今回は、この面妖な主張に付いて、説明したいと思います。
扨(さて)、皆さん、此処(ここ)に一つの世界地図があります。先(ま)ずは、下の地図を、じっくりとご覧下さい。
この地図は、大東亜戦争以前、昭和12(1937)年時点の世界を表したものですが、日本を含む列強諸国が全世界を分割支配しており、僅(わず)かにグレーの地域のみが、辛うじて独立を保っているに過ぎませんでした。例えば、東南アジアでは、タイ王国(シャム)一国のみ。アジアには他にも独立国はありましたが、「満洲国」を日本の傀儡(かいらい)国家と看做(みな)す観点に則せば、モンゴル人民共和国(外蒙古)はソ連の衛星・傀儡国家でしょうし、チベットや、世界の屋根ヒマラヤの麓のネパールやブータンは英国の保護や影響を受けていました。南米は早い段階で独立を果たしていましたが、アフリカ大陸等は、エチオピア帝国を除けば、殆(ほとん)どの地域が列強の植民地でした。(そのエチオピアもイタリアの影響下に置かれたが) 詰まり、戦前の世界は列強が分割支配する正に「帝国主義真っ盛りの時代」だった訳です。然し、戦後、世界は如何(どう)なったでしょうか? 今や、アジア・アフリカの植民地は皆独立を果たし、国連(連合国)に「独立主権国家」として加盟しています。その契機(きっかけ)は何だったのか? 私は、其処(そこ)にこそ、「日本の戦争」の意義があると思いますし、前の大戦無くして、アジア・アフリカの独立は無かったと考えています。
昭和17(1942)年2月15日、大英帝国のアジアに於ける植民地支配の拠点であり、当時難攻不落と謳(うた)われたシンガポール要塞が山下奉文(ともゆき)陸軍中将率いる大日本帝国陸軍第25軍の前に陥落しました。この報を聞いた自由フランス(ナチスドイツによって占領された祖国フランスに抵抗し、ロンドンを拠点に組織された亡命政府)軍の将軍シャルル=ド=ゴール ── 後にフランス第五共和制初代大統領に就任 ── は、
「シンガポールの陥落は、白人植民地主義の長い歴史の終わりを意味する」
と述べ、実際、シンガポール攻略と共に、その前年の昭和16(1941)年12月10日、キング-ジョージ5世級戦艦「プリンス-オブ-ウェールズ」とレナウン級巡洋戦艦「レパルス」と言う2隻の最新鋭艦を擁する英国東洋艦隊を、大日本帝国海軍航空部隊が事実上壊滅させた「マレー沖開戦」の快挙は、欧米列強の植民地支配下に喘(あえ)いでいたアジア・アフリカの民衆に、
同じ有色人種の日本人に出来て、我々に出来ない筈が無い!
山下奉文・アーサー=パーシヴァル日英両軍司令官会談 昭和17(1942)年2月15日、難攻不落を誇った英軍シンガポール要塞の守りを日本軍が突破した。これを受けて、大日本帝国陸軍第25軍司令官・山下奉文(ともゆき)陸軍中将と、大英帝国マレー軍司令官・アーサー=パーシヴァル陸軍中将(手前右の人物)の日英両軍司令官による会談が行われた。この席上、敗軍の将パーシヴァルに対し、後に「マレーの虎」と呼ばれる事となる山下中将が「イエスかノーか!?」と迫ったとされるエピソードは余りにも有名である。そして、このシンガポール要塞の陥落は、単に極東英軍の敗北を意味するに留まらず、世界史的には「白人植民地主義の長い歴史の終わりの始まり」として捉えられている。 |
以上、「日本の戦争」の意義に付いて述べた訳ですが、これで終わりではありません。表題に「日本は大戦に『勝利』した?」と述べた私の「真意」を最後に披瀝しなければなりません。其処で登場するのが下の表です。
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これは、日本及び、日本と戦った米・英・蘭及び仏の四ヶ国に於ける、大戦の前後での支配地域(本土・属領・植民地)の面積の変遷を表にしたものです。「敗戦国」の日本は、大戦時に進出し占領したアジア・太平洋の諸地域を除いて、戦前、約265万km2を有していましたが(満州帝国・蒙古自治邦を含めた場合)、戦後、約228万km2を失い、その喪失率は約86%。(但し、満州帝国・蒙古自治邦を除いた場合、喪失率は約45%) それに対し、「戦勝国」側は、アメリカがフィリピンの独立を許した事で3%を喪失したのを除けば、イギリスは99%超(オーストラリア・ニュージーランド・カナダを除いても90%越え)、オランダは98%、フランスも約95%と、孰(いず)れも、本国を残して殆どの植民地を失っており、喪失率も「敗戦国」の日本よりも、遙かに高い割合を示しています。「関ヶ原の戦い」ではありませんが、敗者が領地を召(め)し上げられ、勝者の側に分配されると言うのが、戦(いくさ)の世の理(ことわり)であるならば、敗者よりも勝者の方が領地を多く失った事実を一体如何(どう)解釈すれば良いのでしょうか? これでは、何も歴史を知らない人から見れば、日本は「敗者」どころか「勝者」だったと思われても可笑(おか)しくありません。
プロイセン王国(ドイツ)の軍人にして、優れた軍学者・兵法家として知られる彼(か)のカール=フォン=クラウゼヴィッツは、死の翌年(1832年)に発表された著書『戦争論』の中で、斯(か)く述べています。即ち、
戦争の勝敗は個々の戦闘にあるのでは無く、目的を果たしたか否かで決まる!
と。その彼の言葉に従えば、アジア・太平洋に広がる欧米列強の植民地支配を打破し、「大東亜共栄圏」を建設する!とのスローガンの下(もと)、有色人種の雄として、欧米 ── 白人至上主義 ── に挑んだ日本は「戦闘」には敗れたものの、「目的」(植民地の解放と「大東亜共栄圏」の建設:後述)を果たした事で、結果的に、
日本は大戦に「勝利」した!
東南アジア諸国連合(ASEAN)の旗 地の青は平和と安定、赤は勇気と活力、白は純粋、黄色は繁栄を表し、ASEANの統一性を表す円の中に描かれた黄金色に輝く茎を束ねた10本の稲穂は、加盟10ヶ国を表すとされるASEANの旗。然(しか)し、この旗の意匠が日本の国旗「日の丸」(日章旗)に似ているのは、単なる偶然なのだろうか? いや、そうではあるまい。日本が多くの血を流して東南アジアを欧米植民地支配から解放した事に敬意を表したからこそ、「日の丸」に似せた旗が制定されたのであり、言い換えれば、この旗は「大東亜共栄圏の旗」なのである。 |