Reconsideration of the History
266.戦後70年、私ならば斯く談話を発表する! ── 竹下流「歴史修正主義のススメ」 (2015.5.16)

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慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話
(通称「河野談話」)

 いわゆる従軍慰安婦問題については、政府は、一昨年十二月より、調査を進めて来たが、今般その結果がまとまったので発表することとした。

 今次調査の結果、長期に、かつ広範な地域にわたって慰安所が設置され、数多くの慰安婦が存在したことが認められた。慰安所は、当時の軍当局の要請により設営されたものであり、慰安所の設置、管理及び慰安婦の移送については、旧日本軍が直接あるいは間接にこれに関与した。慰安婦の募集については、軍の要請を受けた業者が主としてこれに当たったが、その場合も、甘言、強圧による等、本人たちの意思に反して集められた事例が数多くあり、更に、官憲等が直接これに加担したこともあったことが明らかになった。また、慰安所における生活は、強制的な状況の下での痛ましいものであった。

 なお、戦地に移送された慰安婦の出身地については、日本を別とすれば、朝鮮半島が大きな比重を占めていたが、当時の朝鮮半島は我が国の統治下にあり、その募集、移送、管理等も、甘言、強圧による等、総じて本人たちの意思に反して行われた。

 いずれにしても、本件は、当時の軍の関与の下に、多数の女性の名誉と尊厳を深く傷つけた問題である。政府は、この機会に、改めて、その出身地のいかんを問わず、いわゆる従軍慰安婦として数多の苦痛を経験され、心身にわたり癒しがたい傷を負われたすべての方々に対し心からお詫びと反省の気持ちを申し上げる。また、そのような気持ちを我が国としてどのように表すかということについては、有識者のご意見なども徴しつつ、今後とも真剣に検討すべきものと考える。

 われわれはこのような歴史の真実を回避することなく、むしろこれを歴史の教訓として直視していきたい。われわれは、歴史研究、歴史教育を通じて、このような問題を永く記憶にとどめ、同じ過ちを決して繰り返さないという固い決意を改めて表明する。

 なお、本問題については、本邦において訴訟が提起されており、また、国際的にも関心が寄せられており、政府としても、今後とも、民間の研究を含め、十分に関心を払って参りたい。

平成五年八月四日
内閣官房長官 河野洋平


村山富市内閣総理大臣談話「戦後50周年の終戦記念日にあたって」
(通称「村山談話」)

 先の大戦が終わりを告げてから、五十年の歳月が流れました。今、あらためて、あの戦争によって犠牲となられた内外の多くの人々に思いを馳せるとき、万感胸に迫るものがあります。

 敗戦後、日本は、あの焼け野原から、幾多の困難を乗りこえて、今日の平和と繁栄を築いてまいりました。このことは私たちの誇りであり、そのために注がれた国民の皆様一人々々の英知とたゆみない努力に、私は心から敬意の念を表わすものであります。ここに至るまで、米国をはじめ、世界の国々から寄せられた支援と協力に対し、あらためて深甚な謝意を表明いたします。また、アジア太平洋近隣諸国、米国、さらには欧州諸国との間に今日のような友好関係を築き上げるに至ったことを、心から喜びたいと思います。

 平和で豊かな日本となった今日、私たちはややもすればこの平和の尊さ、有難さを忘れがちになります。私たちは過去のあやまちを二度と繰り返すことのないよう、戦争の悲惨さを若い世代に語り伝えていかなければなりません。とくに近隣諸国の人々と手を携えて、アジア太平洋地域ひいては世界の平和を確かなものとしていくためには、なによりも、これらの諸国との間に深い理解と信頼にもとづいた関係を培っていくことが不可欠と考えます。政府は、この考えにもとづき、特に近現代における日本と近隣アジア諸国との関係にかかわる歴史研究を支援し、各国との交流の飛躍的な拡大をはかるために、この二つを柱とした平和友好交流事業を展開しております。また、現在取り組んでいる戦後処理問題についても、わが国とこれらの国々との信頼関係を一層強化するため、私は、ひき続き誠実に対応してまいります。

 いま、戦後五十周年の節目に当たり、われわれが銘記すべきことは、来し方を訪ねて歴史の教訓に学び、未来を望んで、人類社会の平和と繁栄への道を誤らないことであります。

 わが国は、遠くない過去の一時期、国策を誤り、戦争への道を歩んで国民を存亡の危機に陥れ、植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。私は、未来に誤ち無からしめんとするが故に、疑うべくもないこの歴史の事実を謙虚に受け止め、ここにあらためて痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明いたします。また、この歴史がもたらした内外すべての犠牲者に深い哀悼の念を捧げます。

 敗戦の日から五十周年を迎えた今日、わが国は、深い反省に立ち、独善的なナショナリズムを排し、責任ある国際社会の一員として国際協調を促進し、それを通じて、平和の理念と民主主義とを押し広めていかなければなりません。同時に、わが国は、唯一の被爆国としての体験を踏まえて、核兵器の究極の廃絶を目指し、核不拡散体制の強化など、国際的な軍縮を積極的に推進していくことが肝要であります。これこそ、過去に対するつぐないとなり、犠牲となられた方々の御霊を鎮めるゆえんとなると、私は信じております。

 「杖るは信に如くは莫し」と申します。この記念すべき時に当たり、信義を施政の根幹とすることを内外に表明し、私の誓いの言葉といたします。

平成七年八月十五日
内閣総理大臣 村山富市


小泉純一郎内閣総理大臣談話
(通称「小泉談話」)

 私は、終戦六十年を迎えるに当たり、改めて今私たちが享受している平和と繁栄は、戦争によって心ならずも命を落とされた多くの方々の尊い犠牲の上にあることに思いを致し、二度と我が国が戦争への道を歩んではならないとの決意を新たにするものであります。

 先の大戦では、三百万余の同胞が、祖国を思い、家族を案じつつ戦場に散り、戦禍に倒れ、あるいは、戦後遠い異郷の地に亡くなられています。

 また、我が国は、かつて植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけアジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えました。こうした歴史の事実を謙虚に受け止め、改めて痛切な反省心からのお詫びの気持ちを表明するとともに、先の大戦における内外のすべての犠牲者に謹んで哀悼の意を表します。悲惨な戦争の教訓を風化させず、二度と戦火を交えることなく世界の平和と繁栄に貢献していく決意です。

 戦後我が国は、国民の不断の努力と多くの国々の支援により廃墟から立ち上がり、サンフランシスコ平和条約を受け入れて国際社会への復帰の第一歩を踏み出しました。いかなる問題も武力によらず平和的に解決するとの立場を貫き、ODAや国連平和維持活動などを通じて世界の平和と繁栄のため物的・人的両面から積極的に貢献してまいりました。

 我が国の戦後の歴史は、まさに戦争への反省を行動で示した平和の六十年であります。

 我が国にあっては、戦後生まれの世代が人口の七割を超えています。日本国民はひとしく、自らの体験や平和を志向する教育を通じて、国際平和を心から希求しています。今世界各地で青年海外協力隊などの多くの日本人が平和と人道支援のために活躍し、現地の人々から信頼と高い評価を受けています。また、アジア諸国との間でもかつてないほど経済、文化等幅広い分野での交流が深まっています。とりわけ一衣帯水の間にある中国や韓国をはじめとするアジア諸国とは、ともに手を携えてこの地域の平和を維持し、発展を目指すことが必要だと考えます。過去を直視して、歴史を正しく認識し、アジア諸国との相互理解と信頼に基づいた未来志向の協力関係を構築していきたいと考えています。

 国際社会は今、途上国の開発や貧困の克服、地球環境の保全、大量破壊兵器不拡散、テロの防止・根絶などかつては想像もできなかったような複雑かつ困難な課題に直面しています。我が国は、世界平和に貢献するために、不戦の誓いを堅持し、唯一の被爆国としての体験や戦後六十年の歩みを踏まえ、国際社会の責任ある一員としての役割を積極的に果たしていく考えです。

 戦後六十年という節目のこの年に、平和を愛する我が国は、志を同じくするすべての国々とともに人類全体の平和と繁栄を実現するため全力を尽くすことを改めて表明いたします。

平成十七年八月十五日
内閣総理大臣  小泉純一郎


安倍晋三内閣総理大臣談話

平成二十七年八月××日
内閣総理大臣  安倍晋三

河野洋平
「国賊戦犯」の一人、河野洋平
平成5(1993)年8月4日、当時の宮澤喜一内閣の官房長官として、所謂「従軍慰安婦」に言及する談話を発表した河野洋平。その談話は閣議決定も経ぬ「私的な談話」であったが、以後、「中国」(支那)・韓国(南鮮)と言った反日を国是とする所謂「特亜」(特定アジア諸国)を勢い付かせ、3年後に発表された「村山談話」への布石として、日本の国家・民族の尊厳を著しく傷付ける役目を担った。その点からも、正に「国賊戦犯」の筆頭に挙げられる非国民である。
村山富市
もう一人の「国賊戦犯」、村山富市(第81代総理)
戦後50年となる平成7(1995)年8月15日、内閣総理大臣談話を発表した村山富市。「奇策」と「奸計」を以て発表されたその談話は、国内外に「村山談話」として知られ、その歴史を冒涜する内容が、以後今日に至る迄、日本の国家・民族の尊厳を著しく傷付けてきた事は論を俟(ま)たない。正に河野洋平に続く「国賊戦犯」の一人である。
小泉純一郎
「変人宰相」小泉純一郎(第87、88、89代)
戦後60年の平成17(2005)年8月15日、内閣総理大臣談話を発表した小泉元総理。就任後、「中国」(支那)・韓国(南鮮)の反発を余所(よそ)に、靖国神社への参拝を繰り返した小泉元総理ではあったが、発表された談話には「痛切な反省」と「心からのお詫びの気持ち」の文言も盛られ、十年前に出された「村山談話」の基本を踏襲する内容であった。
安倍晋三総理
安倍晋三 現内閣総理大臣(第90、96、97代)
戦後50年の「村山談話」、戦後60年の「小泉談話」に続き、今夏8月に、戦後70年を記念して内閣総理大臣談話を発表すると見られている安倍総理。「基本、『村山談話』を継承する」とは言っているものの、『村山談話』に盛られた「痛切な反省」や「心からのお詫び」等の文言を、再び盛る必要は認めずとのスタンスを表明しているが、果たして如何なる談話を発表するのであろうか?
成27(2015)年。今年は昭和20(1945)年8月15日(但し、降伏文書が正式調印されたのは9月2日なので、厳密には、8月15日は昭和天皇が「玉音放送」で発した戦闘停止命令日でしか無い)から70年目 ── 戦後70年の節目の年であります。過去、戦後50年の平成7(1995)年8月15日には、当時の村山富市総理(「総理」と呼ぶのも癪だが)が、戦後60年の平成17(2005)年8月15日には、同じく当時の小泉純一郎総理が、相次いで「内閣総理大臣談話」を発表し、今夏8月15日には、安倍晋三総理も「内閣総理大臣談話」を発表すると見られています。其処(そこ)で注目されているのが、戦後60年の『小泉談話』でも踏襲された戦後50年の『村山談話』の内容です。冒頭に長々と各談話を全て掲載しましたが、「村山談話」の内、太字の部分、更にその中でも赤字の部分を果たして安倍総理が踏襲するのか否(いな)かに、国内外の視線が注がれている訳です。然(しか)し、現時点で安倍総理は、『村山談話』のアウトラインは概ね継承すると言いつつ、『村山談話』の要諦(ようてい)たる、

「痛切な反省の意」と
「心からのお詫びの気持ち」
は再び盛り込まない

と断言しています。この発言に対し、「中国」(支那)・韓国(南鮮)と言った特定アジア諸国 ── 所謂(いわゆる)「特亜」が不満を示し、『村山談話』の無条件継承を要求する等、発表が予想される8月15日の終戦記念日迄、熱い駆け引きが繰り広げられる事でしょう。その様な中、私も独自の「談話」を考え、この場を借りて発表しますが、その前に先(ま)ず、問題の核心共言える『村山談話』に付いて、私なりに「断罪」してみたいと思います。

『村山談話』を断罪する! 何故(なぜ)、断罪せねばならないのか? それには、それ相応のきちんとした理由があるからなのです。では先ず、簡単に『村山談話』の発表過程に付いて書きますが、それを明らかにする事で『村山談話』の正統性が大きく揺らぐ、その事を最初に強く述べておきたいと思います。実は当初、『村山談話』は発表される予定が無かった!と言ったら、皆さんは如何(どう)思うでしょうか? これは事実で、村山総理は当初、『内閣総理大臣談話』では無く、衆参両院での『歴史を教訓に平和への決意を新たにする決議』(国会決議)と言う形を取ろうとしました。因(ちな)みに、国会決議案は以下の様なものです。

「世界の近代史上における数々の植民地支配や侵略的行為に思いをいたし、我が国が過去に行ったこうした行為や他国民とくにアジアの諸国民に与えた苦痛を認識し、深い反省の念を表明する。平成七年六月九日」

(しか)し、この決議文案に対し、「こうした行為」が「植民地支配」や「侵略的行為」を指し示しており、余りにも自虐的過ぎるとの反発を招き、平成7(1995)年6月9日の衆議院本会議での決議案採択に於いて自民党議員が多数欠席し、全会一致での可決が出来ず、更に決議案に猛反発していた村上正邦・自民党参院幹事長が参議院での可決阻止に奔(はし)った事で、衆参両院での決議が原則の「国会決議」は葬り去られました。こうして一旦は潰された訳ですが、村山総理は諦(あきら)めず、今度は「内閣総理大臣談話」と言う形を取る事に意を決します。素案は五十嵐広三・官房長官を中心に練られ、村山総理の過去の発言内容を盛り込む形で出来上がったのが『村山談話』の素案です。この素案を戦後50年目の終戦記念日に当たる同年8月15日、村山総理が「社会党委員長が総理になった以上、この程度の談話が出せなければ意味がない」と暗に自身の出処進退(総理辞任)をちらつかせ、同時に五十嵐広三に代わって新官房長官に就任した野坂浩賢(のさか-こうけん)も、異議を唱える閣僚がいれば即座に罷免する覚悟で開いた閣議に諮(はか)り、村山改造内閣の閣僚が誰一人として異議を唱えぬ満場一致が閣議決定され、そして、同日発表されたのです。詰まり、『村山談話』は一度は『国会決議』不成立で葬り去られたものを、今度は『内閣総理大臣談話』の形で、自身の辞任 ── 詰まりは内閣総辞職 ── や、異議を唱える閣僚の罷免をちらつかせると言った「奇策」と「奸計」を以て世に生み出された代物だったのです。

(しか)も、始末が悪いのは、当初、村山総理は自身が発表した談話が自分の総理在任中 ── 一代で役目を終える位に考えていたにも関わらず、村山の後を継いだ橋本龍太郎総理以降の歴代内閣が、この『村山談話』の内容を踏襲。そして、戦後60年目の平成17(2005)年8月15日に発表された小泉純一郎総理(当時)による所謂『小泉談話』にも文言が継承された事です。当の村山元総理は「良かれ」と思って世に出したのでしょうが、『村山談話』は「反日」を国是とする特亜諸国を勢い付かせ、その後二十年、今日に至る迄、日本の国家・民族の尊厳を貶(おとし)めてきた事実は疑う可(べ)くも無い訳で、正に所謂「従軍慰安婦」問題で、歴史的事実の歪曲・捏造や日韓両国当局者による「文言の摺り合わせ」問題が明らかとなった『慰安婦関係調査結果発表に関する河野内閣官房長官談話』 ── 通称「河野談話」の発表者・河野洋平(宮澤喜一内閣の官房長官で、後に衆議院議長を歴任)と相並ぶ

「非国民」にして「国賊戦犯」!

と言っても過言では無いでしょう。

(さて)、以上、『村山談話』に付いて簡単に触れてきた訳ですが、次は『村山談話』の要諦、詰まり、文中の太字部分に付いて断罪したいと思います。先ず第一にバッサリと斬らねばならない文言、それは、

アジア諸国

です。

大東亜戦争に於ける大日本帝国の勢力圏
▲ 大東亜戦争に於ける大日本帝国の勢力圏

上の図は、大東亜戦争時、大日本帝国が領有していた地域及び、進出・占領した地域を表したものですが、なるほど、この地図を見れば正に一目瞭然! 日本は、「中国」(中華民国)・南北朝鮮・台湾・フィリピン・ベトナム・カンボジア・ラオス・タイ・ミャンマー(ビルマ)・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・バングラデシュ・インドネシア・パプア-ニューギニア、そして、多くの太平洋島嶼国をその勢力圏に納めていた訳で、

「アジア諸国」に対し、植民地支配と侵略によって、多大な損害と苦痛を与えた!

と言う事になるのでしょうね。然し、忘れてもらっては困る事があります。先ず第一に、日本が侵略し植民地支配したとされる地域の内、特亜構成国の南北朝鮮は当時、親日国の台湾と共に、正当な手続き(朝鮮は『日韓併合条約』による合邦、台湾は『下関条約』による清国からの割譲)を経て日本が獲得した海外領土であり、「傀儡(かいらい)国家」とされる「満洲国」もれっきとした独立国。支那の占領地域に付いても、当時の支那は内戦状態で、日本は、その内、汪兆銘率いる南京国民政府の中華民国と友好関係にあり、「逆賊」である国民党右派の蒋介石(重慶国民政府)「討伐」に「同盟国」の軍隊として手を貸していただけの事です。(後に現在の「中華人民共和国」を建国する事となる毛沢東の中国共産党は、当時、弱小勢力の左翼ゲリラ集団で日本軍とまともに戦った事すら無かった) では、目を転じて東南アジアは如何(どう)であったか? それを説明する為に、別の地図をご覧頂きましょう。

大東亜戦争開戦前の欧米列強によるアジア植民地
▲ 大東亜戦争開戦前の欧米列強によるアジア植民地

本は昭和16(1941)年12月8日、米英に対し開戦し、オランダも日本に対し宣戦布告。此処(ここ)に、アジア・太平洋地域を主戦場とする「大東亜戦争」(The Greater East Asian War;但し、戦勝国側は「太平洋戦争」 The Pacific War と呼称)が始まり、昭和20(1945)年8月15日、昭和天皇が「玉音放送」で『ポツダム宣言』の受諾と皇軍(帝国陸・海軍)に対する戦闘停止を命ずる迄、日本軍はアジア・太平洋の広範囲に兵を進め、多くの地域を占領しました。それらの地域を『村山談話』では「アジア諸国」と表現していますが、これは大きな間違いです。この間違いを放置しておいては、何も知らない人達や、ろくに歴史を勉強してこなかった人達は、談話に謳(うた)われている通り、

日本は植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけ
アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた

事になってしまいます。それは絶対に正さねばなりません。その事を踏まえて二つ目の地図を、よくご覧下さい。この地図を見れば、一目瞭然ですが、当時の東南・南アジア地域に於いて独立していたのは、実はタイ王国(シャム)ただ一国のみなのです。フィリピンは米国、ベトナム・カンボジア・ラオスのインドシナ三国はフランス、ミャンマー(ビルマ)・マレーシア・シンガポール・ブルネイ・インド・スリランカ(セイロン)・バングラデシュ・パキスタン・アフガニスタンは英国、そして、インドネシアはオランダの、夫々(それぞれ)植民地だったのです。昭和17(1942)年3月12日、日本軍の攻勢の前に、マニラ湾はコレヒドール島の要塞から這々(ほうほう)の体(てい)でオーストラリアへと落ち延びたダグラス=マッカーサー(Douglas MacArthur) ── そう、敗戦後の日本に「連合国軍最高司令官」として降り立ち、「日本の王」の如く君臨したあのマッカーサーです ── が、「I shall return!(必ずや私は戻って来る)」と言い残して、フィリピンの地を後にしたその「何故?」も納得がいきます。日本軍が侵攻したフィリピンは、当時、米国の植民地で、ダグラスの父、アーサー=マッカーサー=ジュニア(Arthur MacArthur, Jr.)はフィリピン駐留米軍司令官兼軍政総督を務めた人物です。そして、その息子がダグラスで、自らもフィリピン軍軍事顧問兼高等弁務官の要職に就き、父子二代に亘(わた)って、「フィリピンの帝王」として君臨した訳です。詰まり、私が此処(ここ)で何を言いたいのか?と言うと、『村山談話』で言う「日本が植民地支配と侵略を行った『アジア諸国』」と言うものは、当時は皆、欧米列強の植民地で、「アジア諸国」と言える様な「独立国」はタイを除いて存在していなかったと言う事なのです。(日本は独立国のタイを侵略・占領支配しておらず、昭和16年12月21日に調印された『日泰攻守同盟条約』に基づく同盟関係にあり、昭和17年1月25日に、タイも米英に対し宣戦布告した) ですから、『村山談話』で言う「時間軸」が大東亜戦争前夜から終戦迄であるならば、日本が侵略した筈の「アジア諸国」は未だ影も形も無く、ただ存在していたのは、米領フィリピン、フランス領インドシナ(仏印)、オランダ領東インド(蘭印)、マライ連邦・ビルマ・インド帝国と言った英国植民地群のみで、其処(そこ)に住まう「アジア諸国の人々」の独立や自由を奪い、多大な損害と苦痛を与えた等と言う主張は、正にお門(かど)違いも甚だしい!と言うのが私の結論です。縦(よ)しんば、百歩譲ったとしても、これら地域は日本が「侵略」する以前、既に欧米列強の植民地だった訳ですから、「植民地の支配者」が単に米・英・仏・蘭から日本に変わっただけの事であり、ましてや、彼ら欧米列強が数百年に亘って植民地支配してきた事を考えれば、たかだか数年しか支配しなかった日本が、一体何を糾弾されねばならないのでしょうか? 然も、日本を糾弾したのが、日本が「多大の損害と苦痛を与えた」戦後のアジア諸国ならいざ知らず、日本が占領支配する以前、植民地支配によって現地民に「多大の損害と苦痛を与え続けてきた」欧米列強(戦勝国)とくれば、日本の「戦争犯罪」を裁いた極東国際軍事法廷 ── 所謂「東京裁判」なんぞは、

「泥棒」(植民地支配した欧米列強)が同じ「泥棒」(日本)を裁いた

誠に以て滑稽な「裁判」と言う名の「茶番劇」だった事が実に良く分かると言うものです。まあ、現実には、日本は曲がりなりにも「大東亜共栄圏」構想を旗印に、占領地域のフィリピン・ビルマを戦時中に独立させ、インドには「仮政府」(亡命政府)を組織させ、インドネシアに於いても、オランダ植民地政府によって獄に繋がれていたスカルノとハッタと言う、後に独立後初代正副大統領となる指導者を解放、独立準備をさせていた訳で、「『アジア諸国』に対し、植民地支配と侵略によって、多大な損害と苦痛を与えた」どころか、寧(むし)ろ、独立させる可く多大の支援をしたと言う方が的を射た「正しい歴史認識」と言えます。但(ただ)、その様な事を認めてしまうと、日本との戦争に勝った欧米列強の方が、実はとんでもない「大悪党」だったと言う事になってしまうので、日本が負けた事を此(これ)幸いに、アジアに対する侵略と植民地支配の悪行を全て日本が犯した「戦争犯罪」として処理しただけ。そして、その壮大なセレモニーとして用意されたのが「東京裁判」であり、「殉教」していったのが東条英機ら所謂「A級戦犯」の烙印を押された日本の指導者達だったと言う事なのです。

処迄(ここまで)説明すれば、もう充分でしょう。『村山談話』が言う所の、

日本は植民地支配と侵略によって、多くの国々、とりわけ
アジア諸国の人々に対して多大の損害と苦痛を与えた

と言う事実はありません。となれば、それを根拠とした、

「痛切な反省の意」と「心からのお詫びの気持ち」

も表明する必要は全くありません。それを踏まえた上で、今夏 ── おそらくは終戦記念日の8月15日 ── 安倍総理は「正しい歴史認識」に基づいた『内閣総理大臣談話』を発表すれば良いのです。そして、本小論を締め括るのにあたり、私独自の『談話』素案 ── 『竹下談話』の要諦を披瀝(ひれき)したいと思います。そして、それは斯くの如く、「敗戦国」日本を裁いた「戦勝国」に対し、痛烈な皮肉を込めたものです。

「戦後七十年にあたっての竹下義朗談話」(要諦)

(前略)

 我が国は、先の戦争によって、多くの国々、とりわけアジアを植民地支配し、アジアの人々を虐(しいた)げ、搾取し、其の「上がり」を以て豊かな生活を享受してきた、アメリカ・イギリス・フランス・オランダと言った欧米列強諸国に対し、戦後、アジア諸地域の独立を促進してしまった事で、多大の損害と苦痛を与えました。此の事に対し、痛切な反省の意を表し、心からのお詫びの気持ちを表明致します。

(後略)

平成二十七年五月十六日
歴史評論家  竹下義朗

   余談(つれづれ)

『村山談話』は、日本が大東亜戦争によって「アジア諸国」に対し、多大な迷惑を掛けたと言う。然し、本小論でも触れた様に、日本が東南アジアに兵を進め、各地を占領支配し、独立或いは独立の準備をさせた事で、結果的に戦後、欧米列強の植民地を脱し、「東南アジア諸国連合(ASEAN)」を構成する独立主権国家群が誕生した事は明確な事実です。それが、若(も)し、日本が大東亜戦争を起こさず、兵を東南アジア各地に進めなかったとしたら、この21世紀の現代、果たして東南アジアは独立していたでしょうか? 『村山談話』は、単に「日本の戦争」を一方的に悪行として断罪していますが、事は、そう容易(たやす)くはありません。「鶏が先か? 卵が先か?」の禅問答よろしく、大東亜戦争の深層と「歴史的評価」は、単に『村山談話』で日本が詫びれば決着する程、簡単な問題ではありません。もっと長いスケールで、「歴史」と言う大河を遡上せねば、源流は見えてこないのです。(了)


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