Reconsideration of the History |
182.肉を斬らせて骨を断つ ── 軍事で敗北し、理念で勝利した日本 (2007.3.21) |
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前回の小論で、私は、大東亜戦争に於ける日本の敗北に対して、
日本、対米戦に敗れしと雖(いえど)も、決して恥ずる事勿(なか)れ
と喝破しました。その理由の一つとして、敗北したとは言え、国家の存亡を掛けて米国と此処(ここ)迄戦った国、然(しか)も3年8ヶ月も持ち堪(こた)えた国が、日本を於いて他には無い事を挙げましたが、それに付け加えれば、朝鮮半島・ベトナム・パナマ・ソマリア・アフガニスタン・イラク、と米国に攻め込まれた国は数々あれど、
自分の方からアメリカに攻め込んでいった国
(昭和16年12月8日のハワイ真珠湾攻撃)は、日本を於いて他にはありません。現在、弾道ミサイルや核開発をしている北鮮(北朝鮮)でさえ、自分の方から米国に攻め込む積もり等、毛頭ありません。その様に考えると、60年も前の日本は途轍も無い事をしでかしたものです。
ところで、日本は改めて言う迄も無く、対米戦に於いて完膚無き迄の「軍事的敗北」を喫しました。世界最大の戦艦(大和級)を有し、米英と肩を並べていた強大な海軍は壊滅し、帝都・東京をはじめとする全国の主要都市は空爆によって灰燼に帰し、広島・長崎には原爆さえも落とされ、文字通り国土は焦土と化しました。然し、私は「軍事的敗北」を喫した日本が、最終的に「理念では米英に勝利した」と考えています。それは、何故(なぜ)なのか? 今回は、その事について、書いてみたいと思います。
日本は、先の戦争を「大東亜戦争」と呼称しました。それは、戦後、日米が戦戈(せんか)を交えた主戦場に因(ちな)んで、戦勝国・米国が敗戦国・日本に押し付けた「太平洋戦争」と言う呼称とは比べものにならない程、重みのある呼称でした。欧米の植民地下にある諸地域・諸民族を解放し、大東亜(主として、東アジアから南アジアにかけての地域)に共存共栄可能な楽土(らくど)を建設する ── 所謂(いわゆる)「大東亜共栄圏」構想です。戦後、「大東亜共栄圏」なる構想は、単に日本の戦争を完遂する為の方便であり、その実態は日本によるアジア・太平洋地域に対する侵略戦争であった、とする侵略戦争史観が罷(まか)り通っていました。成(な)る程(ほど)、確かに戦争 ── 然も相手は自分達よりも遙かに国力がある米国 ── であった以上、最終目的が米国に「勝つ事」であり、その為、作戦遂行に有利な施策として、日本が植民地下にあった諸地域に進出するにあたり、現地民の支持が得られた方が得策であった事は当然な訳で、「東亜解放」・「大東亜共栄圏」が現地民に「甘い言葉」として効果を上げた事は確かです。然し、果たして、「東亜解放」や「大東亜共栄圏」は、単なる方便でしか無かったのでしょうか? 私は決してそうは思いません。
例えば、インドネシア ── 当時はオランダ領東インド(通称:蘭印) ── では、昭和17(1942)年3月の日本軍上陸以降、現地を支配していたオランダ軍が降伏し、植民地政府から日本陸軍軍政に移行しましたが、現地の最高司令官・今村均(ひとし)陸軍中将の方針で、自治独立に向けた数々の施策が採られた事は歴史的事実です。(『36."2605年8月17日" インドネシア独立秘話』参照の事) 又、終戦直後の昭和20(1945)年8月17日に独立を宣言したインドネシアに対し、再度、植民地支配をすべく戻ってきたオランダ軍と現地民の戦い、所謂「インドネシア独立戦争」には、現地で終戦を迎えた日本兵の内、約2000名が日本軍籍から離脱した上で独立軍に身を投じ、その半数が独立戦争の露と消えています。今、彼ら「英霊」は、インドネシア国営英雄墓地(右上写真)に手厚く葬られ、更に、その内の6名には、同国の独立名誉勲章(ナラリア勲章)が授与されています。この事一つ採っても、日本が掲げた「東亜解放」・「大東亜共栄圏」が全くの空(から)念仏で無かった事は確かなのです。
扨(さて)、いよいよ話の核心に入りましょう。大東亜戦争当時の世界地図はどの様に塗り分けられていたのか? 当時の地図(勢力図)を見れば一目瞭然ですが、現在、ベトナム・カンボジア・ラオスがある地域に、これらの国の名は無く、単にフランスの植民地「フランス領インドシナ」(Indochine française アンドシヌ-フランセーズ,仏印)があるのみ。インドネシアと言う国の名も無く、オランダの植民地「オランダ領東インド」(Nederlands-Indië ネーデルランツ-インディ,蘭印)があるのみ。そればかりか、フィリピン・マレーシア・シンガポール・ミャンマー・インド・パキスタンと言った国々も、当時は米英の植民地でした。これが当時の「現実」なのであり、「日本がアジア地域を侵略し云々」等と言う以前に、既に欧米列強が現地を植民地支配し、搾取と抑圧を加えていたのです。ところが、現在はどうでしょう? アジア一つとってみても、明らかに欧米の植民地と言える地域は殆どありません(全く無い訳では無い)。これも又、明確な事実なのです。
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繰り返しますが、日本は大東亜戦争に於いて「軍事的敗北」を喫し、「敗戦国」となりました。では、「戦勝国」はどの様な運命を辿(たど)ったのでしょうか? 英国は、アジアにインド・セイロン・ビルマ・マラヤ・シンガポール等の広大な植民地を有していました。然し、今ではどうでしょう? これらの地域は全て独立しています。仏印はベトナム・カンボジア・ラオスとして独立し、蘭印もインドネシアとして独立。「戦勝国」である筈の英・仏・蘭と言った諸国は、「敗戦国」である日本が放棄させられた領土とは比べものにならない程広大な海外領土を失い、植民地からの「上がり」で成り立っていた経済システムも崩壊。戦後、奇跡の復興を成し遂げ、米国に次ぐ第二の経済大国として返り咲いた日本と比較した時、どちらが、あの戦争に勝ったのかさえ分からない程です。(それ故か、今時の学生の中には、先の戦争に日本が勝ったと本気で思っている者さえいる始末) 私が冒頭で、
「軍事的敗北」を喫した日本が、最終的に「理念では米英に勝利した」
と言ったのは正にこの事なのです。
日本は「東亜解放」・「大東亜共栄圏」を掲げて米英と戦争をしました。その結果、「軍事的敗北」は喫しましたが、若(も)しも、「東亜解放」・「大東亜共栄圏」を穿(うが)った見方をせず、額面通りに受け取ったならば、戦後、欧米のアジアに於ける植民地が相次いで独立した事は、日本が掲げた「東亜解放」が正に実現した事を意味します。いや、「東亜解放」どころの話ではありません。アフリカの植民地さえも独立しています。そして、日本が「大東亜共栄圏」実現の地域として考えていた東南アジアには、域内共同体としての「東南アジア諸国連合」(ASEAN)が成立し、ASEAN+3(ASEANに日本・支那・韓国を加えた枠組み)や、東アジア・サミット(ASEAN+3に、インド・豪州・ニュージーランドを加えた枠組み)を通じて、絵空事と思われていた「大東亜共栄圏」が現実味を帯びています。詰まり、日本は「軍事的敗北」にも関わらず、所期の目的である「東亜解放」・「大東亜共栄圏」を達成した訳で、正に「理念では米英に勝利した」と言える訳です。
日本には、「肉を切らせて骨を断つ」や「負けるが勝ち」と言った諺(ことわざ)があります。
【肉を切らせて骨を断つ】
自分が相当の痛手を受けても、敵にはそれ以上の打撃を与えて打ち勝つ。捨て身で戦う覚悟をいう語。肉を切らせて骨を切る。
【負けるが勝ち】
強いて争わず、相手に勝ちを譲るのが結局は勝利となる。
それらの諺ではありませんが、日本は戦争に負けはしたが、結果的には勝った。「大東亜戦争」に於ける日本は正にそう言うものであり、「日本の戦争」を単なる「侵略戦争」として断罪する事無く、より巨視的(マクロ)な視点から正当に評価す可きでは無いのか? 最後に、日本軍が鉄壁を誇っていた英軍のシンガポール要塞を陥落させた昭和17(1942)年2月15日、ロンドンに亡命していた自由フランスの将軍シャルル=ド=ゴール(後の仏国大統領 右上写真)が日記に認(したた)めた言葉を引用して、この小論を締め括(くく)りたいと思います。
シンガポール陥落は、白人による植民地支配の長い歴史の終焉を意味する
そして、「歴史」は、ド=ゴールが予言した正にその通りになったのです。