Reconsideration of the History
38.「日本中央」〜もう一つの日本国 "BANDOY" (1998.9.21)

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さんは「東北」と言うと、どんなイメージをお持ちでしょうか? 寒さが厳しい・集団就職・我慢強い・・・等々、演歌に代表されるマイナスイメージの方が強いのではないでしょうか?(現実は、住めば「都」の通り、決して北国は住み難い土地ではないのですが・・・) しかし、それは私達現代日本人が「東北」についてあまりにも「知らなさすぎる」からなのです。何故かと言うと、現在、義務教育で教えられている「日本史」が、主として西日本偏重で、ことに東北・北海道等、北日本についての記述がほとんど無い事が原因なのです。と言う訳で今回は、私達が知らない東北史について書いてみたいと思います。

都母の石碑 「日(ひのもと)中央」。青森県上北郡東北町に、この様に刻まれた古代の石碑 ── 通称「都母の石碑」(つものいしぶみ,壺の石碑:右写真)があります。平安時代(801年)、朝廷(日本国)の命でこの地(現・津軽地方)に軍事侵攻した征夷大将軍・坂上田村麻呂(さかのうえのたむらまろ)が津軽軍に大敗講和した際、都母と言う地で弓の矢筈で、高さ1.5mの石に刻んだ物と言われている曰く付きの石碑です。さて、ここで問題です。何故、本州の最果て−当時の朝廷からすれば「辺境」でしかない津軽が「日本中央」なのか? ここにもう一つの「日本国」の歴史があったのです。

う一つの「日本国」があった!! こう言うと、混乱される方もおありでしょうが、それは近世まで東北の地に紛れもなく実在したのです。そして、その証拠の一つが1562年、ベリユによって製作された「世界地図」です。この地図で日本は「IAPAM」(JAPAN)の名で描かれているのですが、よく見ると、津軽地方の南に「境界線」が引かれており、境界線の北には「BANDOY」(安東国)と記されています。さて、この「BANDOY」が何なのか? 答から言うと、これこそもう一つの「日本国」だったのです。つまり、境界線は「国境線」だった訳で、「BANDOY」は「IAPAM」とは別の「独立国」として、当時のヨーロッパ人に認識されていた証拠と言えるのです。では、「BANDOY」の実体とは何だったのか? それを知るには、まず、時間を数千年前に戻さなければなりません。

武東征。戦前の歴史(日本史)教育を受けた方なら必ずと言っても良い程、ご存じだと思いますが、戦後世代には全くと言っても良い程、馴染みのない言葉だと思います。しかし、これこそ「BANDOY」の歴史の始まりだったのです。大和国(奈良県)で初代天皇となった神武天皇(以下、単に「神武」と略)ですが、最初から大和にいた訳ではありません。彼の故郷は日向国(宮崎県)とされています。その九州から、山陽地方(瀬戸内海沿岸)を経て大和国へと遷り、初代天皇に即位(紀元前660年)したと言うのですが、この時、大和国には一人の強大な王がいました。その名を「長髄彦」(ナガスネヒコ)と言います。つまり、長髄彦にとって神武は、自分達の国を征服しにやって来た「侵略者」でしかなかった訳で、彼は大和国へと侵入してきた神武に対して、徹底抗戦をしました。最終的には神武の勝利に終わり、長髄彦は日本史上最初の「朝敵」とされ滅ぼされた・・・と「正史」(古事記・日本書紀等)ではされているのですが、何と、長髄彦は滅ぼされてはいなかったのです。彼は神武軍に敗退し大和国を放棄すると、その足で北へと向かったのです。

武に敗れた長髄彦が「亡命」した地こそ後世、「BANDOY」としてヨーロッパに迄名を轟かせる事になる国−古代津軽だったのです。当時の津軽には既に、アソベ王朝(17代)・ツボケ王朝(29代)と続く古代王国がありました。この王国に長髄彦は一族共々、亡命共存したのです。そして、いつしか、アソベ族・ツボケ族・長髄彦一族は混血し、新たに「荒吐族」(アラハバキ族)となり、王位も長髄彦の一族が継承する事となったのです。さて、長髄彦一族を加え強大となった「荒吐王国」ですが、幾度と無く大和へと侵攻し、崇神帝即位迄、次々と荒吐系の天皇を擁立したのです(「孝○」の諸帝と開化帝)。そして、長髄彦の子孫は連綿と続き、前九年の役(1051〜1062)で源(八幡太郎)義家に滅ぼされた安倍氏、後三年の役(1083〜1087)で古代東北に覇権を築いた奥州藤原氏(安倍氏の血を汲む)を輩出したのです。

古代から近世迄連綿と続く「東北王朝」の血脈

アソベ族───┐
       │
      ツボケ族───┐
             │
            長髄彦───安倍氏┬──安東氏───秋田氏
                     │
                     ├奥州藤原氏
                     │
                羽州清原氏┘

さて、「BANDOY」に話を戻しましょう。安倍氏(頼時・貞任父子)は源義家によって滅ぼされたと書きました。しかし、安倍氏も又、長髄彦同様、決して滅び去ってはいなかったのです。棟梁・安倍貞任(さだとう)は戦死しましたが、嫡男・高星丸(たかあきまる)は密かに宮城から津軽十三湊(とさみなと 現・十三湖)へと逃れ、安東氏として復活したのです。

東氏。この一族こそ「津軽の王」であり、その所領こそ「BANDOY」(安東国)だったのです。当時の有力氏族が互いの所領を拡大する事に力を注いでいた時、安東氏は、十三湊を「首都」に、中国・朝鮮・沿海州から東南アジア・アラビア、遠くヨーロッパとまで交易し、莫大な収益を上げていました。当時の十三湊は、「津軽三千坊」と呼ばれる程多くの神社仏閣が建ち並び、港には中国人は元より、インド人・アラビア人・ヨーロッパ人等が多数の異人館を営み、さながら幕末の横浜の様相を呈していました。又、港には日本全国から常に200隻以上の商船が停泊し、ヨーロッパ人の為にカトリック教会迄建っていました。更に、安東氏は日本海を隔てた沿海州の至る所に、「安東浦」(租界)や、「安東館」(領事館)を持ち、樺太・千島列島・カムチャツカ半島迄「領土」として支配していました。しかし、その栄華も、興国2(1341)年、終焉を迎えます。十三湊を余波を含め18回にも及ぶ大津波が襲ったのです。その被害は、犠牲者12万人・埋没家屋3200戸・牛馬5000頭・流失米6万俵・沈没船270隻・埋没田600町(595Ha)・埋沈黄金30万貫(1125t)・埋没神社仏閣270棟を数え、二度と往時の栄華を取り戻す事はなかったのです。現在、十三湊は十三湖と呼ばれ静かに佇んでいます。

て最後に、冒頭でも紹介した「日本中央」の謎をそろそろ解いてみましょう。その為には、当時(奈良・平安時代)「領土観」を知る必要があります。その「資料」として、宮城県多賀城市高崎にかつてあった朝廷の東北における軍事拠点・多賀城跡に残されている高さ2m・幅94cmの石碑「多賀城碑」を見てみましょう。

多賀城碑(天平年間建立)

西
 
 
 
 





使









 

 
 
 




























使

































使



 
 
 







 
 
 










 
 
 









 
 
 







廿
 
 
 







この中に、

「多賀城は京(平城京)を去ること1500里。蝦夷国(えぞ 現・青森県及び岩手県北部)の国界(くにざかい)迄120里。常陸国(ひたち 現・茨城県)の国界迄412里。下野国(しもつけ 現・栃木県及び福島県白河市周辺)の国界迄274里。そして、靺鞨国(まっかつ 満州)の国界迄3000里なり。」

とあります。この中で特に目に付くのが「靺鞨国」です。以前のコラム日本と満州は兄弟国だった!! 幻の日本・渤海同盟で取り上げた「渤海国」とは兄弟関係にある靺鞨国(この場合は、黒龍江流域の「黒水靺鞨」?)の名がなぜ登場するのでしょうか? 考えられる事は只一つ。朝廷(日本国)が「BANDOY」(津軽=安東国)を通して、靺鞨国の存在を知っていたからではないでしょうか? 後世、安東氏の時代でさえ、樺太・千島列島・カムチャツカ半島を「領土」として支配したくらいです。だとすれば、天平年間の「BANDOY」が靺鞨国と既に「国交」を持っていたとしても何ら不思議ではありません。そして、「都母の碑」の謎。もし、当時の朝廷が蝦夷地(現・北海道)を越え、より北方(樺太や千島列島)迄、「領土観」の中に入れていたとしたら、津軽は距離的にも正に「日本中央」となり得るのです。

   余談(つれづれ)

耀栄華を誇った北の王者・奥州藤原氏(以下、単に「藤原氏」と略)。4代泰衡の時、源頼朝によって滅ぼされた訳ですが不思議な事に、藤原氏を滅ぼし、奥羽(東北)を「征服」したにも関わらず、鎌倉幕府の産金量は飛躍的に増えていないのです。平安時代、文字通り「湯水」の様に黄金を使って、中尊寺金色堂に代表される絢爛豪華な建物を数多く建立し、外国から仏典や陶磁器、はては象牙に至る迄ありとあらゆる文物を輸入した割には、滅亡後、その黄金が幕府に「相続」された節がありません。又、東北地方の金山の全産出量をしても、藤原氏の消費量を補えない事実。しかし、もし、藤原氏の黄金が「国産」だけではなく、「海外産」も含めてだとしたら・・・安東氏と血縁関係にあった藤原氏が、安東氏の協力を得て、大陸(シベリア)の資源開発を経営していたとしたら・・・確かに、藤原氏滅亡後、幕府が莫大な黄金を「相続」出来なかった事も説明がつくのです。(了)


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