Reconsideration of the History
265.天・地・人 ── 日本の「國體」を紡いできた三位一体の「皇統」 (2015.2.18)

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天に星 地に花 人に愛
「天に星、地に花、人に愛」 ── 日本を代表する文人、武者小路實篤(むしゃのこううじ-さねあつ/明治18(1885)〜昭和51(1976))が自身の「讃」(色紙に絵を描き、それに関連した詩歌(しいか)等を記したもの)に記した事でも有名な詩文ですが、「日(太陽)・月・星」(総じて「三光」と呼ぶ)と並んで、この「天・地・人」も佳(よ)き組み合わせとして引用されるモチーフの一つです。扨(さて)、一見すると歴史に何の接点も無い様に思われる「天・地・人」ですが、実際には日本の「國體」に深く関わってきたのです。(現在、「国体」の語は「国民体育大会」の略として広く用いられている為、「国体護持」等に用いられる「天皇を中心とした秩序」を意味する「国体」を、本小論では旧字の「國體」で表し区別する) と言う訳で、日本の「國體」に深く関わってきた「天・地・人」に付いて語っていきたいと思います。

「天皇は、日本国の象徴であり日本国民統合の象徴であって、この地位は、主権の存する日本国民の総意に基く。」 ── これは改正の物議を醸(かも)している『日本国憲法』第一条の条文ですが、此処(ここ)に「象徴」として謳(うた)われている「天皇」が、悠久の時の流れの中で、国家体制が変わり、為政者が次々に変わっていく中、現代に至る迄、常に日本の最高権威者(オーソリティ)として君臨してきた事に、皆さんも何ら異存は無いでしょう。その「天皇」は、初代の神武天皇(神日本磐余彦天皇:かむやまといわれひこのすめらみこと)から、今上(きんじょう)陛下(御名(ぎょめい)は明仁(あきひと))に至る迄、125代(現在の歴代天皇のカウントの仕方に基づいた場合)を紡(つむ)ぎ、然(しか)も、初代神武天皇以来、連綿と男系継承が為されてきた「奇跡の王朝」としても知られ、現存する世界の王家の中で、最古最長を誇る正に「老舗(しにせ)中の老舗」と言った存在です。然(しか)し、日本の「皇統」(王統)が実は「天皇」(皇室)だけでは無かったと言ったら如何(どう)でしょう?

は飛びますが、古代支那(中国)には、夏・殷(商)・周と言った世襲王朝が成立する以前、八人の帝王が相次いで君臨した時代があった言われています。所謂(いわゆる)「三皇五帝時代」と呼ばれるものです。この「三皇」と「五帝」の組み合わせには諸説があり、「三皇」一つ取っても、伏羲(ふっき)・神農(しんのう)・女媧(じょか)(『春秋緯運斗枢』・司馬貞補『史記』三皇本紀)、伏羲・神農・燧人(すいじん)(『礼緯含文嘉』)、伏羲・神農・祝融(後漢・班固『白虎通』号篇)、伏羲・神農・黄帝(西晋・皇甫謐『帝王世紀』)と様々です。そして、その中には、この様な組み合わせも存在します。曰(いわ)く、

天皇 地皇 人皇

と。(「人皇」を「泰皇」と呼ぶ場合もある)支那の伝説では、天皇から地皇が生まれ、地皇から人皇が生まれた事になっていますが、この「三皇」が実は日本にも存在 ── 然も、神話時代の太古の事では無く、少なく共、昭和37(1962)年迄存在したと言ったら驚かれるでしょうか? 然し、それは厳然と存在していたのです。

本に於ける「三皇」とは何なのか? それを語るには若干の解説が必要なので、此処から先、少々、遠回りさせて頂きたいと思います。先(ま)ず、「三皇」の内、「天皇」は何なのか?と言えば、これは、言わずもがな、字の如く「天皇」であり皇室を指します。それでは、残る「地皇」と「人皇」は何なのか? これに付いて、順を追って説明していきましょう。

疫病神退治をする安倍晴明(『泣不動縁起』より)
疫病神退治をする安倍晴明(『泣不動縁起』より)
大膳大夫(だいぜんだいぶ)安倍益材(あべのますき)或(ある)いは淡路守(あわぢのかみ)安倍春材(はるき)の子とされているが、母が信太(しのだ)の狐との伝承もあり、その出自は深いベールに包まれている平安時代の大陰陽師(おんみょうじ)安倍晴明(あべのせいめい)。陰陽師である賀茂忠行(かものただゆき)・保憲(やすのり)父子に師事し、陰陽(おんみょう)道と天文(てんもん)道を伝授され、安倍氏 ── 後の土御門(つちみかど)家を、賀茂氏と並ぶ二大陰陽家に育て上げた。
成6(1994)年、とある名家が宗家(当主)の死により断絶しました。彼の名は土御門範忠(つちみかど-のりただ)。先祖に、映画『陰陽師(おんみょうじ)』でも名高い平安時代の大陰陽師・安倍晴明(あべのせいめい)を戴(いただ)き、代々、京の朝廷に於いて占術・天文(てんもん)観測・時制・暦法を司(つかさど)った陰陽寮(おんようのつかさ)の長官「陰陽頭(おんようのかみ)」や、陰陽寮に於いて天文道の教官「天文博士(てんもんはかせ)」を輩出した陰陽師の名家でした。本姓は安倍晴明にも見られる様に「安倍」で、第8代・孝元天皇(大日本根子彦國牽天皇:おおやまとねこひこくにくるのすめらみこと)の子で「四道将軍」の一人として北陸を担当した大彦命(おおひこのみこと)を祖とする皇別氏族(皇統から別れた氏族の義)の一つに数えられています。元は、第28代・宣化(せんか)天皇(武小広国押盾天皇:たけをひろくにおしたてのすめらみこと)の御世(みよ)に「大夫(たいふ)(議政官)を務めたとされる大麻呂(おおまろ)が「阿倍臣(あべのおみ)」の姓(かばね)を賜(たまわ)って以来、「阿倍」を名乗っていましたが、平安時代初期の延暦(えんりゃく:782〜806)から弘仁(こうにん:810〜824)年間に「安倍」と字を改め、更に安倍晴明から数えて14代目の安倍有世(ありよ)の曾孫(ひまご)、有宣(ありのぶ)が他の堂上公家(とうしょう-くげ)の例に倣(なら)い、屋敷のある地の名を採(と)って「土御門(つちみかど)」を家名とする様になったと言われています。(詰まり、本姓は「安倍」で、家名が「土御門」と言う事になる) 因(ちな)みに、現職総理大臣の安倍晋三氏も「安倍」ですが、彼は、安倍晴明よりも古い時代に分かれ、奥州(おうしゅう) ── 現在の東北地方に一大勢力を誇った奥州安倍氏の係累で、前九年の役(ぜんくねんのえき:1051〜1062)に於いて、源氏・羽州(うしゅう)清原氏に敗れ、筑紫国大宰府(ちくしのくに-だざいふ;現在の福岡県)に配流(はいる)された安倍鳥海三郎宗任(あべのとりうみさぶろうむねとう)を祖とする長州安倍氏の子孫です。話が横道に逸れてしまいましたが、この「土御門」家(系図)こそが、何を隠そう「地皇」の正体なのです。

「天皇」の称号(漢字表記)の由来には種々ありますが、有力な説として、古代支那に於ける天空にあって常に位置が不動の星、北極星(北辰)に対する信仰が道教に取り入れられ、神格を与えられた「天皇大帝」由来説と言うものがあります。又、「天皇」は、その名を忌避する東洋の慣習に則(のっと)って、居住する御所(ごしょ)の門から採って「ミカド」共呼ばれました。「ミカド」は普通、「帝」の字が用いられ、又、「天皇」の対外的呼称として「皇帝(エンペラー)」が用いられた事から、「皇帝」の略称としての「帝」を使って、明治天皇を「明治帝」、昭和天皇を「昭和帝」等と表記する事もありますますが、本来の意味からすれば、「御所の門」即(すなわ)ち「御門(みかど)」と言う方が当を得ていると言えます。詰まり、「天皇」とは、その語源である北極星=「天」と、皇帝の略称である「帝」であり、御所の門を表す「御門」から、「天の帝(あめのみかど)」、「天の御門」と言い換える事も出来る訳です。そして、この論法を「土御門」家に当て嵌(は)めると・・・「御門」は「帝」と同義なのですから、「土の御門」は即ち「土の帝」となり、「天の帝」が「天皇」である様に、「土の帝」も「地皇」となるのです。詰まり、表舞台で皇統を紡いできた「天皇」に対し、陰陽師として朝廷を裏から支えてきた「土御門」家は「地皇」だったと言えるのです。となると、三皇の内、残るは一つ「人皇」となります。「天皇」が「天の帝(御門)」、「地皇」が「土御門」となれば、「人皇」も「人の帝(御門)」・・・と言いたい所ですが、最後の「人皇」に付いては、そう簡単では無く、正体を炙(あぶ)り出すのに少々捻(ひね)りが必要となります。

和37(1962)年、これ又とある名家が宗家の死により断絶しました。彼の名は白川資長(しらかわ-すけなが)。代々、神祗伯(じんぎはく)として、「白川神道(しんとう)」或(ある)いは「伯家(はっけ)神道」と呼ばれる神道流儀を以て、皇室祭祀(さいし;天皇による宮中祭祀)を司ってきた一族は、その継承者の死により断絶したのです。白川神道を相伝してきた白川家(系図)は、第65代・花山(かざん)天皇の孫、延信王(のぶざねおう)の臣籍降下により成立した花山源氏で、延信王改め源延信(みなもとののぶざね)以来、朝廷に於いて祭祀を司る~祇官の長官「~祇伯」を輩出してきた公家です。「花山源氏」の名が示す通り、本姓は源(みなもと)であり、皇籍から離脱した臣族です。然し、白川家は他の源氏とは異なる点がありました。それは、初代の源延信以来、代々の当主(宗家)が~祇伯を世襲継承したのは元より、~祇伯輔任(ぶにん;就任と同義)と同時に王に復す(王の称号を名乗る)事が認められていた事です。例えば、初代・延信王の子、源康資(やすすけ)が~祇伯輔任と同時に康資王となり、その子、源顕康(あきやす)も~祇伯輔任と同時に顕康王となる・・・と言った具合です。日本に於ける王号(「王」の称号)は、天皇の子で親王宣下(しんのうせんげ)を受けていないか、若(も)しくは、天皇の子を一世として、二世から四世(後に五世)迄の範囲の皇族にのみ許されていた称号であり、臣族公家の身分であり乍(なが)ら、例え~祇伯輔任が条件とは言え、代々、王号を世襲してきた白川家は、特別の存在であったと言えます。その為、白川家は、~祇伯を世襲する家柄から「伯家(はっけ)」、或いは、~祇伯輔任と同時に王号を名乗った事から「白川伯王家」と呼ばれました。扨、愈々(いよいよ)此処からが核心です。天皇直系の皇族(天皇の子又は孫等で、皇籍にある皇族と言う意味)でも無く、世襲親王家たる宮家でも無いにも関わらず、代々、王号を世襲してきた白川伯王家。この「伯王」家の文字を分解、再構築すると、とんでも無い言葉が浮かび上がってくるのです。

川「伯王」家の内、先ず、「伯」の字は「イ(にんべん)+白」からなる漢字です。詰まり、「人」と「白」に分解出来ます。次に、伯を分解して出来た「白」と「王」の字を合成すると、今度は「皇」の字が現れます。すると、どうでしょう。「伯王」は「人皇」と読み替える事が出来るのです。「天皇」が日本の最高権威者であると同時に神道の最高位神官である事実、「地皇」たる土御門家も大陰陽師として朝廷を裏から支えてきた事実、そして、「人皇」たる白川家も皇室祭祀を司ってきた事実。日本の国家祭祀は、天皇・地皇(土御門家)・人皇(白川家)の文字通り「三皇」によって守られてきた共言えるのです。然し、「三皇」の内、「人皇」は昭和37年に、「地皇」も平成6年に、相次いで宗家が断絶してしまい、今や残るのは「天皇」のみとなってしまいました。

談ですが、伯家神道には、真しやかにとある予言が残されています。それは、以下の様なものです。

「皇太子が天皇に即位する際行われる『祝(はふり)神事』が百年間、或いは四代行われないと皇室は滅びる」

最後に「祝神事」を受けた天皇は明治天皇です。然し、制度としての神祇伯が明治2(1869)年に廃止されてしまった事から、その後に即位した大正天皇、昭和天皇、そして、今上(きんじょう)天皇(天皇陛下)と三代に亘って、「祝神事」は行われていません。然も、最後の「祝神事」から既に百年経ち、天皇の代数で見ても残るは一代のみ。其処(そこ)へ持ってきての皇位継承有資格者の激減です。今上陛下が身罷(みまか)られれば、実際に皇位継承の対象となるのは、皇太子徳仁親王殿下、秋篠宮文仁親王殿下、そして、その御子様の悠仁(ひさひと)親王殿下の御三方のみです。伯家神道予言を持ち出す迄も無く、皇統の危機は、正に今目の前にある危機と言えるのです。其処へ持ってきて、皇統の伝統である男系継承を無視して、女系継承による断絶を目論(もくろ)む輩(やから)の跳梁跋扈(ちょうりょうばっこ)。油断ならぬ状況に日本は置かれていると言えます。然し、幸いにも、宗家は断絶したものの、土御門家の陰陽道も、白川家の伯家神道も、継承者が居(お)り、その命脈が保たれているとの事。又、女系天皇論争喧(かまびす)しかった平成18(2006)年2月25日、宮内庁より秋篠宮文仁親王妃紀子殿下の御懐妊が発表され、同年9月6日、父君である秋篠宮文仁親王殿下の御誕生以来、実に41年ぶりの男系男子皇族が誕生。皇太子徳仁親王殿下、秋篠宮文仁親王殿下に次ぐ次世代の男系男子皇族 ── 「未来の天皇」が担保されたのです。この正に天佑神助共言える慶事を無駄にしない為にも、私が幾度と無く唱えてきた昭和22(1947)年に皇籍離脱(実際は剥奪)為された旧宮家係累の皇籍復帰に加えて、「地皇」(土御門・安倍家=陰陽道)・「人皇」(伯家神道=神祇伯)による皇室の輔弼(ほひつ) ── 三位一体(さんみいったい)、天・地・人の「三皇」による國體の鉄壁な護持を強く願いたい、そう思うのです。(了)


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