Reconsideration of the History
87.ナチスは「ホロコースト」等していない!! ── 「ユダヤ人600万人虐殺」の真実 (2001.3.7)

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二次世界大戦におけるナチスの最大の「戦争犯罪」とは一体何か? と質問したとすると、大抵誰しも、「ホロコースト」(Holocaust)と答えるでしょう。「ホロコースト」 ── ヒトラー率いるナチスが、当時、迫害の対象としていたユダヤ人を、アウシュウィッツ等の「絶滅収容所」に収容、処刑用ガス室において、実に600万人にも及ぶ大量殺人を行ったとされるものです。「敗戦国」ドイツは戦後、ナチズムの教訓から、「ネオナチ」は元より、「ホロコースト」についても言論を統制し、疑義を挟む事さえ、法律で「禁止」してしまいました。ですから、「ホロコースト」は、当然の「歴史的事実」として扱われていますが、果たして、本当にナチスは、ユダヤ人を600万人もガス室で処刑したのでしょうか? 今回は、「戦後最大のタブー」と言われる「ホロコースト」について、書いてみたいと思います。

ず、「ホロコースト」について、現在「定説」とされている事について列挙してみたいと思います。

「ホロコースト」の定説
  1. ナチスは、ベルゲン・ベルゼンをはじめとするドイツ国内の「強制収容所」の他に、アウシュウィッツ(及びビルケナウ)をはじめとする「絶滅収容所」をポーランド領内に建設した。
  2. ナチスは、ユダヤ人を「強制収容所」及び「絶滅収容所」に収容した。
  3. とりわけ、「絶滅収容所」には、ユダヤ人の大量殺人を可能とする処刑用の「ガス室」が設けられた。
  4. 処刑用「ガス室」では、「チクロンB」と呼ばれる毒ガスを使って、ユダヤ人が600万人も処刑された。
  5. 処刑後、ユダヤ人の遺体は、焼却炉をフル稼働して、焼却処分された。

とまあ、これが「定説」として唱えられている事です。そして、大量殺人の「証拠」として、夥(おびただ)しい数のユダヤ人の遺体が写された写真も「存在」します。又、「証言者」もいます。それなら、「ホロコースト」は疑うべくも無い「歴史的事実」なのか? と言うと、決してそうでは無いのです。次に、それらの「疑問点」について列挙してみたいと思います。

「ホロコースト」の疑問点
  1. 大量殺人の「証拠」として引き合いに出される夥しい遺体の写る写真は、「ガス室」があったとされるアウシュウィッツ等「絶滅収容所」で撮影されたものでは無く、「ガス室」が無かったベルゲン・ベルゼン「強制収容所」で撮影されたものであったりする。
    (「ガス室」が設けられていなかった収容所にあった遺体は、当然、「毒ガス」によって処刑されたとは言えない。)
  2. 更に、それら遺体の死因は、「発疹チフス」等の伝染病によるもので、「毒ガス」によって殺害されたと断定された遺体は、一体たりとも確認されていない
    (遺体を実際に検分した唯一の法医学者、チャールズ・ラーソン博士が宣誓証言している。)
  3. 「ガス室」と言われている部屋には、「毒ガス」を注入すべき穴が見当たらない
    (どうやって、「毒ガス」である「チクロンB」を入れたのか?)
  4. 「ガス室」と言われている部屋には、処刑後、「毒ガス」を外部に換気排出する為の換気口が見当たらない
    (これでは、遺体を搬出する為の要員が、「ガス室」に「毒ガス」が充満していて、中に入る事さえ出来ない。いや、そもそも、扉を開ける事さえ出来ない。)
  5. 遺体を「焼却」処分する為の「焼却炉」が見当たらない
    (地面に積み上げたり、穴を掘って投げ入れたりして、「野焼き」でもしたのだろうか?)
  6. 戦時中、連合軍機が上空から収容所敷地内を撮影した航空写真には、一枚も、遺体を焼却していたとされる「焼却炉」からの「煙」が写っていない
    (当然、「野焼き」の「煙」も写されてはいない。)
  7. 「焼却処分」後の「灰」(及び燃え残った人骨)が廃棄された場所が見当たらない
    (600万人もの遺体から出た膨大な量の「灰」は一体、どこへ消えたのか?)
  8. 「証言」では、「焼却炉」は24時間間断なくフル稼働していたと言う。
    (「焼却炉」で燃やせば、当然、「灰」が出るから、その「灰」を排出しなくてはならない。ましてや、フル稼働等させたら、熱で「炉」自体が保(も)たない。)
  9. 「証言」では、210平方メートルの「ガス室」の中に、3千人を収容して「毒ガス」による処刑をしたと言う。
    (210平方メートルの空間に、3千人も入るかどうか、実際に実験してみたらどうか?)
  10. 当時、「絶滅収容所」とされる収容所にいたユダヤ人の中には、「ガス室」を見た事も、聞いた事も無いと「証言」している者が何人もいる
    (戦犯裁判等において、これらの「証言」は全て無視され、「ガス室はあった」と言う「証言」のみが採用された。)
  11. 「ガス室を見た」と「証言」した者の中には、後日の裁判において、「見た」のでは無く、「人から聞いた」と発言を撤回した者もいる。
    (自分の目で「見た」と言うのと、他人から「聞いた」とでは、「証拠」としての価値に雲泥の差がある。)

ざっと、こんな所です。こんなにも、疑問点があるにも関わらず、「ホロコースト」は「歴史的事実」として扱われているのです。何とも釈然としません。しかし皆さんの中には、それでも、「ナチスはユダヤ人を迫害した。『アンネの日記』と言う「証拠」もある。ナチスがユダヤ人を「毒ガス」で虐殺した事は疑うべくも無い」と言われる方もおありでしょう。しかし、ナチスによるユダヤ人への「迫害」(私はこれ迄否定するつもりは毛頭ありません)と、「毒ガス」を使ったユダヤ人に対する「ホロコースト」(私はこれを否定しているのです)とでは、全く話は別です。「迫害」したのだから「虐殺」も当然行われた、と言うのは頂けません。もし、ナチスが「政策」(方針)として、ユダヤ人の「虐殺」(民族の絶滅)を持っていたのなら、当然の事ながら、ヒトラー等当時のナチス指導部が、「ホロコースト」を決定し、各関係機関にその旨を指示通達した「公文書」が残っていても良い筈です。でなければ、「絶滅収容所」の建設(建設資金はどこから出るのでしょうか?)も、「ガス室」での大量殺人(命令が無いまま実行すれば、「命令違反」・「軍律違反」に問われます)もする訳がありません。しかし、そんな「公文書」はどこをひっくり返しても出て来ないのです。いや、「公文書」だけでなく、ゲーリングの「私信」・ヒムラーの「演説筆記録」等、ありとあらゆる文書をひっくり返しても、「ホロコースト」を指示した(又は、指示された)旨の記述は見当たらないのです。散々捜して、まるっきり出てこない以上、ナチス指導部は、その様な「政策」(方針)は、持っていなかったとしか考えざるを得ません。しかし、ヒトラーは、「ユダヤ人に対する最終的解決」と言う発言をしています。この発言こそ、ヒトラーが「ホロコースト」を「政策」としていた「証拠」だと言う人もいますが、果たして、本当にそうなのでしょうか?

「ユダヤ人に対する最終的解決」。実は、ヒトラーが考えていた事、それは、ユダヤ人を600万人も「毒ガス」で大量殺戮する事では無かったのです。では、一体、何を考えていたのか? それは何と、ヨーロッパ域内に居住していたユダヤ人を、全て東方 ── ソ連領内に「強制移住」させる事だったのです。その為に、ヒトラーは、独ソ不可侵条約(1939年8月19日調印)を破棄して、独ソ戦(1941年6月22日開戦)に踏み切ったのです。しかし、ナポレオン同様、ドイツはソ連を制圧する事が出来ず、独ソ戦の失敗から、破竹の勢いだったドイツ軍に翳(かげ)りが生じ、遂には第三帝国の崩壊を迎える事となったのです。そこで、話を戻しましょう。何故、アウシュウィッツをはじめとする収容所(「絶滅収容所」とされる)がポーランド領内に建設され、大量のユダヤ人が収容されていたのか? これこそ、ヒトラーによる「ユダヤ人に対する最終的解決」の一歩に他ならなかったのです。独ソ戦に勝利し、ソ連領内に占領地を確保した暁には、アウシュウィッツをはじめとする収容所に収容されている大量のユダヤ人をソ連領内に強制移住させる・・・。その為には、ソ連領になるべく近い、いや、国境を接しているポーランド領内に収容所を建設する必要があったのです。

後、ユダヤ人達は、パレスティナの地に、「イスラエル」と言う自分達の独立国家を樹立しました。そして、国家樹立と同時に、周辺アラブ諸国との間に、四次にも及ぶ中東戦争を戦いました。その戦争と国家基盤の建設を支えた莫大な資金、その多くは、「ホロコースト」によって、ユダヤ人を迫害・虐殺したとされたドイツ(当時の西ドイツ)からの「賠償金」だったのです。そう考えると、「ホロコースト」(ユダヤ人大量虐殺)とは、「歴史的事実」等では無く、多分に「政治的産物」・「宣伝材料」としての意味合いが強いと言えるのです。

参考文献


   読者の声 (メールマガジン ≪ WEB 熱線 第1128号 ≫ 2009/01/23_Fri ― アジアの街角から― のクリックアンケートより)

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