Reconsideration of the History
223.「任那日本府」改め「安羅倭臣館」とは如何なものか? 韓国側の歴史歪曲を糺す!! (2010.4.16)

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「任那日本府(みまなのやまとのみこともち)」── 、『日本書紀(やまとのふみ)』第19巻「欽明天皇紀」(以下、『欽明紀』と略)に記述されている、古代朝鮮半島南部、伽耶(かや)(ある)いは其(そ)の一部である任那にあったとされる日本(倭国)の統治機関或いは出先機関。然(しか)し、この「任那日本府」の存在が、今、大きく揺らいでいます。抑(そもそ)も、「日本」と言う国号が成立したのは、7世紀から8世紀初頭の間と考えられており、欽明天皇(在位:539-571)の御世である6世紀に「日本」を冠した「任那日本府」が存在したのか疑わしいと言う意見が以前からあったのは事実です。其処(そこ)へ持ってきて、平成19(2007)年6月、日韓両国政府の合意に基づいて設置された「第2期日韓歴史共同研究委員会」の報告書が今年(2010年)3月23日に公開され、衝撃を与えました。曰(いわ)く、

「任那日本府」は無かった!!

と。まあ、「任那日本府」と言う「日本」を冠した名称では無く、恐らくは別の名称で呼ばれていただろうと言った程度の話であれば、其れ程、目くじらを立てる事も無かったのでしょうが、事は「任那日本府」の本質に迄及んでいました。今回、「任那日本府」に代わって登場した新たな呼称は「安羅倭臣館」。この新呼称の出典依拠は、「任那日本府」と同様に『日本書紀』なのですが、その性格に付いては180度転換されていました。「任那日本府」が

日本が任那に設置した現地に於ける統治機関或いは出先機関

とされてきたのに対し、韓国側は「安羅倭臣館」と呼ぶのが妥当であり、その性格も、

安羅の「臣下」である倭人(日本人)官僚が出仕していた機関

と主張してきたのです。「任那日本府」の呼称がどうであれ、その主体は日本(列島の政権)であると言うのが従来からのテーゼでした。然し、韓国側の主張は、この従来からのテーゼを完全に否定し、主体は朝鮮半島南部にあった小国、然も伽耶諸国に属す一都市国家でしか無かった安羅としたのです。これは最早(もはや)韓国側による歴史の歪曲以外の何ものでも無く、到底受け容(い)れられる様な話ではありません。其処で今回は、韓国側が新たに打ち出し、日本側委員もずるずると引き摺られたこの問題に付いて論じてみたいと思います。

羅の「臣下」である倭人(日本人)官僚が出仕していた機関、それが「安羅倭臣館」である ── との韓国側の主張が如何(いか)に歴史の歪曲であるかを論ずる前に、先(ま)ずは、「安羅倭臣館」と言う呼称に焦点を当ててみましょう。

『日本書紀』巻第19 欽明天皇15(554)年 冬12月条
『日本書紀』巻第19 欽明天皇15(554)年 冬12月条 赤線部分に「在安羅諸倭臣」の文字が見える

始めに、はっきりさせておきますが、「安羅倭臣館」と言う名称は確かに『日本書紀』に出典依拠するものですが、「安羅倭臣館」と記述されている訳ではありません。『日本書紀』に登場する文言は「在安羅諸倭臣(あらにはべるもろもろのやまとのまへつきみ)」でしかありません。然も、その呼称を用いているのは百済(くだら)第26代の聖明王(在位:523-554 諱(いみな)は扶余明穠。聖王・明王とも呼ばれる)。『日本書紀』の記述に従えば、彼(百済聖明王)が日本の天皇(欽明天皇)へ奉(たてまつ)った上表文の中で、そう呼称している ── 詰まり、「在安羅諸倭臣」とは百済側の呼称であり、日本側がそう呼んでいる訳では無いと言う事なのです。其の事を踏まえた上で、「安羅倭臣館」の語源である「在安羅諸倭臣」に付いて具体的に論じていきます。

『日本書紀』巻第19 欽明天皇15年 冬12月条 (抜粋)

原文

 冬十二月、百濟遣下部杆率汶斯干奴、上表曰、

 百濟王臣明、及在安羅諸倭臣等、任那諸國旱岐等奏、以斯羅無道、不畏天皇、與狛同心、欲殘滅海北彌移居。臣等共議、遣有至臣等、仰乞軍士、征伐斯羅。而天皇、遣有至臣師軍、以六月、至來臣等、深用歡喜。以十二月九日、遣攻斯羅。臣先、遣東方領、物部莫哥武連、其方軍士、攻凾山城。有至臣、所将來民、筑紫物部莫奇、能射火箭蒙、天皇威靈、以月九日酉時、焚城拔。之故、遣單使、馳舩奏聞。

 別奏、

 若徂斯羅者、有至臣、所将軍士亦可矣、今狛與斯羅同心、戮力難可成功、伏願速遣竹斯嶋上将軍士、來助臣國、又助任那、則事可成。

 又奏、

 臣別遣軍士萬人、助任那、并以奏聞、今事方急、草舩遣。奏徂奉好錦二疋、毾㲪一領、斧三百口、及所獲城民男二女五、輕薄追用悚懼 (後略)

現代語訳

 冬12月、百済は下部杆率汶斯干奴(かほうかんそつもんしかんぬ)を遣(つか)わし、上表して曰く、

 「百済王(くだらのこにきし)にして(倭の)(家来)である(私)(聖明王)、及び安羅(あら)におります倭の諸臣ら、任那諸国の旱岐(かむき)らが奏上致します。思い見れば、新羅(しらぎ)は無道にして天皇を畏(おそ)れず、高麗(狛;こま=高句麗)と心を同じうして、海北の官家(彌移居;みやけ)を損(そこ)ない、滅ぼさんと欲しています。私共は共に議(はか)りて、内臣(まえつきみ)らを遣わし、新羅を討つ為の軍を乞いました所、天皇の遣わされた内臣は、軍を率いて6月に来(きた)り、私共は大いに歓喜しました。12月9日に新羅攻撃を開始しました。私は先ず東方軍の指揮官、物部莫哥武連(もののべのまがむのむらじ)らを遣わし、その方の兵士を率いさせ、函山城(かんむれのさし)を攻めさせました。内臣がつれてきた日本兵、筑紫物部莫奇委沙奇(ちくしのもののべのまがわさか)は、火矢を射(い)るのが能(うま)く、天皇の威霊を蒙(こうむ)り、9日の夕刻、城を焼き落としました。それ故(ゆえ)単使馳舟を遣わして奏上します。」

 そして(聖明王は)別に奏上して曰く、

 「ただ新羅のみならば、内臣が率いてきた兵だけで足りましょうが、今、高麗と新羅の合同軍です。成功が難しいので、伏して願わくば、筑紫の島の辺りの諸軍士をも速(すみ)やかに遣わして、私共の国をお助け下さい。又、任那を助ければ事は成功します。」

 又、(聖明王は)別に奏上して曰く、

 「私は軍士一万人を遣わして任那を助けます。併(あわ)せて申し上げます。今、事は方(まさ)に急です。単船をもって申し遣わします。良い錦(にしき)二匹、毛氈(もうせん)一領、斧(おの)三百口、捕虜の男二人と女五人を奉ります。少ないもので恐縮で御座います。」

『欽明紀』欽明天皇15(554)年冬12月の条(くだり)の冒頭に、問題の「在安羅諸倭臣」の記述が登場するのですが、その直前に「百濟王臣明」の文字が見えます。これは、百済聖明王から欽明天皇に対して奉られた上表文の中の記述である事から、「百済王にして(倭=日本の天皇の)臣下である明」と読みます。決して、「百済王の臣下である明」とは読みません。次に件(くだん)の「在安羅諸倭臣」の読み方です。これは「安羅に駐在する倭の臣下たち」と読むのが妥当です。然し、この文言を韓国側は「安羅に駐在する(安羅に臣従する)倭人の臣下たち」と読んでいるのです。漢文の素養が無い方でも、これはおかしいと思う筈です。何故(なぜ)なら、この曲解した読み方を「在安羅諸倭臣」に適用するのであれば、直前に登場する「百濟王臣明」も「百済王の臣下である明」と読まなくては整合性が取れません。又、「在安羅諸倭臣」を「安羅に駐在する(安羅に臣従する)倭人の臣下たち」と読むのであれば、例えば、「在日大使館」と言う文言も「日本に在(あ)る(外国の)大使館」では無く、「日本に在る日本の大使館」と読める事になります。到底あり得ない話です。其処迄考えなくても、韓国側の主張を論駁(ろんばく)する事は、この記述全体を通しても可能です。

『欽明紀』欽明天皇15(554)年冬12月の条には、日本の天皇の臣下である百済聖明王が、安羅に駐在する倭の臣下ら、任那諸国の旱岐(都市国家の首長)らと共に、欽明天皇に宛てて上表文を奉った事が記述されています。そうすると、国の規模や力関係から見て、こう言う図式が成り立ちます。

日本>百済>任那諸国(安羅を含む)

それにも関わらず、「在安羅諸倭臣」が韓国側主張の通りだったとすると、

日本>百済>任那諸国(安羅を含む)>在安羅諸倭臣

と言う事になる筈です。然し、百済や任那諸国が日本に対して上表している以上、図式に於いて最上位に来るのは、どう考えても日本です。それにも関わらず、「諸倭臣」=日本人(倭人)の臣下の相手が、日本の天皇(朝廷)では無く、一都市国家でしか無い安羅と言うのは極めて不自然です。いや、そんな風に深く考えなくても、上表文に登場する順番を見れば、任那諸国が一番最後に名を連ねている以上、常識的に考えて、安羅が日本、ましてや百済を差し置いて、「諸倭臣」の主人であったと言う方がどうかしている。詰まり、韓国側の主張は曲解であり歪曲である訳です。

朝鮮半島に於ける三国時代の地図、5世紀終わり頃 (さて)、此処(ここ)迄長々と韓国側主張の「安羅倭臣館」の語源である「在安羅諸倭臣」に付いて論じてきましたが、私は「任那日本府」に取って代わる「安羅倭臣館」迄存在しなかったと言っている訳ではありません。要は「安羅に駐在する(安羅に臣従する)倭人の臣下たち」が曲解・歪曲であり、「安羅に駐在する倭の臣下たち」は居(い)た、そして、彼等が出仕したであろう館(庁舎)もあったと考えています。其の上で、其れが「任那日本府」と呼ばれていたか否かは別問題であると言うスタンスなのです。例えば、「任那日本府」の呼称が登場する『欽明紀』には、「在安羅諸倭臣」の他に「安羅日本府(あらのやまとのみこともち)」や「任那官家(みまなのみやけ)」と言う記述も登場します。又、鎌倉時代末期に成立したとされる『日本書紀』の註釈書、『釈日本紀(しゃくにほんぎ)』に於いては、「任那日本府」を「任那之倭宰(みまなのやまとのみこともち)」と註釈。他にも、「任那日本府」が存在したであろう時代に、其れは「倭府(やまとのつかさ)」と呼ばれていたのでは無いか共言われています。我々後世の人間が「任那日本府」と呼んでいるものが、当時どの様に呼ばれていたのかは別として、朝鮮半島南部に日本の出先機関が存在したであろう事は想像に難(かた)くありません。いや、支那南朝の東晋の「泰和」(太和)4(369)年、百済王(第13代の近肖古王 在位:346-375)の世子(太子)奇生聖晋(貴首王子;きすせしむ 後に即位し、第14代の近仇首王(在位:375-384)となった)の命に依り鋳造され、「倭王旨」に寄贈されたと言う「七支刀(ななつさやのたち)」や、支那南朝の宋より「使持節都督・倭・新羅・任那・加羅・秦韓・慕韓六国諸軍事・安東太将軍・倭国王」に叙せられた「倭王武」、更には、倭が朝鮮半島に進出、百済・新羅を属国に従えて高句麗と戦戈(せんか)を交えた事績を伝える『高句麗好太王碑』(414年建立)と言った存在を考えると、日本の勢力が朝鮮半島南半を勢力圏に置いていたであろう事は、ほぼ確実であり、だとすれば、現地に日本が設置した出先機関や軍営が無かったと考える事の方が、寧(むし)ろ不自然です。(これは、在日米軍が日本に駐留してい乍(なが)ら、司令部等の指揮統制機構が日本国内に無い様なもの) ですから、「任那日本府」に相当する機関が嘗(かつ)て朝鮮半島に存在した。然し、其の呼称が何であったかは確定出来ない。但(ただ)し、それは『欽明紀』に「在安羅諸倭臣」や「安羅日本府」と記述されている事から、任那・加羅(伽耶)諸国の内、安羅に所在していたのだろう。この様に考えるのが妥当であり、間違っても、「安羅の臣下である倭人(日本人)官僚が出仕していた機関」である「安羅倭臣館」と言う韓国側の主張はあり得ない訳です。

後に、「任那日本府」の主体である「日本」に付いて私見を述べたいと思います。これが、後に「天皇家」(皇室)と呼ばれる事となる大王家が統(す)べた大和朝廷(大和政権)を指すのか、或いは大和朝廷とは異なる王権なのかは別にしても、孰(いず)れにせよ、日本列島内の勢力であった事は確実です。(「倭」から「日本」への国号変更に付いて、『旧唐書』が「小国だった日本が倭国を併合した」と記述するのに対し、『新唐書』は「倭国が日本を併合し、国号を奪った」と記述している。孰れが正しいかは別にして、少なく共、これらの記述を読む限り、日本列島に「倭」と「日本」と言う二つの勢力が同時代に存在していたであろう事は類推出来る) 唐と同盟した新羅に依って滅ぼされた百済を再興させる可(べ)く日本が渡海派兵、唐・新羅連合軍と戦った白村江(はくすきのえ)の戦に敗戦(663年)した事で、古代日本は朝鮮半島に於ける権益を完全に失いましたが、それ以前は、現代日本人が想像する以上に朝鮮半島に深く関わっていた。其れは『高句麗好太王碑』に刻まれている様に、百済・新羅、そして、任那・加羅諸国に対する政治的・軍事的優越性であったでしょう。其の事を現在、朝鮮半島南半、嘗て百済・新羅・任那・加羅諸国が存在していた地域を国土とする韓国が認めたくない気持ちも分からないではありません。然し、日本に対して「歴史の歪曲」を声高に糾弾してい乍ら、自らは平然と歴史を歪曲・捏造する、その神経は如何なものか? 私は、この様な国との間で「歴史」を共同研究し、両国「共通の歴史観」を編んでいく事は不可能と考えます。その意味に於いて、韓国側の主張に引き摺られている「日韓歴史共同研究委員会」から、一日も早く日本は手を引く可きですし、日本側としての「正しい歴史認識」を韓国側に突き付けていく可きでは無いかと思うのです。

   余談(つれづれ)

後独立した韓国に依って侵略、不法占拠されている竹島(韓国側呼称:独島(トクト))は言うに及ばず、ロシア(旧ソ連)により侵略占拠されている北方領土、更には日本が統治しているにも関わらず、「中国」(支那)・台湾も領有権を主張している尖閣諸島。これらは孰れも日本固有の領土であり乍ら、日本が当事国として関わっている領土問題係争地です。その内、竹島に冠しては、不法占拠を続けている韓国が自国の主張を曲げないのは、まだ理解出来ます。然し、その韓国の、然も日韓歴史共同研究委員会の韓国側委員の一人である李碩祐(イ=ソクウ)仁荷(インハ)大大学院副教授が、尖閣諸島・北方領土に関し、「帝国主義日本が侵奪した」との見方を示して日本の領有権主張を批判しているのですから、正(まさ)に開いた口が塞(ふさ)がりません。余談ですが、「日韓歴史共同研究」なるものが如何に不毛であるかを如実に物語るエピソードが、文藝春秋社の雑誌『諸君!』2006年4月号に掲載されていたので、ご紹介しましょう。

関川:  ‥‥先方(韓国人)が実証的歴史事実の積み重ねでは説得されるつもりがないことは認識しておかないといけない。
 
古田:  日韓歴史共同研究委員会も似てますよ。‥‥日本側の研究者が「資料をご覧になってください」と言うと、韓国側は立ち上がって、「韓国に対する愛情はないのかーっ!」と、怒鳴る。‥‥さらに、「資料をみせてくれ」と言い返すと、「資料はそうだけれど」とブツブツ呟いて、再び「研究者としての良心はあるのかーっ!」と始まるのです。
 
関川:  歴史の実証的研究では韓国に勝ち目はないでしょう。事実よりも自分の願望というか、「かくあるべき歴史の物語」を優先させるようですから。‥‥
 
古田:  民族的感情を満足させるストーリーがまずあって、それに都合のいい資料を貼り付けてくるだけなんですね。当然、それ以外の様々な資料を検討していくと、矛盾、欠落、誤読がいっぱい出てくる。
 
櫻井:  それは韓国の大学の歴史研究者ですか。
 
古田:  イエス。これは韓国の伝統的な論争の流儀であり、思考パターンなのですね。李朝時代の両班(ヤンバン)の儒教論争も、みなこれですから。要するに「自分が正しい」というところからすべてが始まる。実はこの「自分が正しい」という命題が実証不可能なんです。この思想が突出したものが、北朝鮮の主体(チュチェ)思想にほかなりません。
 
櫻井よしこ・関川夏央・古田博司「韓流“自己絶対正義”の心理構造」
(文藝春秋『諸君!』2006年4月号 69〜70頁)

・・・・・(絶句)

韓国に対する愛情はないのかーっ! 

「韓国に対する愛情」? ・・・・・そんなものありませんって。

研究者としての良心はあるのかーっ!

「研究者としての良心」? ・・・・・「良心」って具体的に何を指すのですか?

なく共、竹島を侵略し不法占拠を続け、対馬も我が領土と嘯(うそぶ)き、歴史を歪曲・捏造し、剰(あまつさ)え嘘で塗り固めた「正しい歴史」とやらを日本に押し付けてくる韓国に、「韓流(ハンりゅう)」の熱に今尚浮かされているオバサン方を除く日本人の一体どれ程が「愛情」を感じていると言うのでしょう? 韓国にとっては、経済・文化面、そして、「自国民の鬱憤(うっぷん)を晴らす為の瓦斯(ガス)抜き」の「弁(バルブ)(対象)として、追い付き追い越す為の「永遠のライバル」(オリンピックやWBC、FIFAワールドカップに於いては、日本にだけは絶対に負けてはならないと言うスタンス)として、日本は絶対不可欠な存在なのかも知れませんが、日本から見れば、韓国は必ずしも不可欠な存在ではありません。日本に対する屈折した「片想い」は勝手ですが、日本に対して「韓国に対する愛情」等求めないで下さい。正直言って迷惑ですから(苦笑)

(了)


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