Reconsideration of the History
18.南北朝、未だ終結せず!! 南北朝秘史-其の弐- (1997.12.3)

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1392(北朝明徳3・南朝元中9)年、「明徳和約」により、南北朝の争乱は終結。南朝の後亀山天皇は、正皇位を「北朝」系の後小松天皇に譲り、1336年の後醍醐天皇吉野潜行以来、実に半世紀ぶりに京都へ還幸したのです。しかし、後亀山法皇を迎えた京都(幕府)側の処遇は冷ややかでした。旧南北両朝を平等に扱うどころか「北朝」系ばかりを厚遇、足利義満によって「明徳和約」は悉く反古にされてしまったのです。しかも、京都は幕府の本拠地。監視の目が厳しく、後亀山法皇をはじめとする南朝系は自由に行動できず、1410(応永17)年、遂に後亀山法皇は再び吉野へ潜行したのです。そして、これが世に言う「後南朝」の始まりだったのです。

南朝。この聞き慣れない言葉にこそ、応仁の乱・戦国時代と続く争乱を解くキーワードが隠されているのです。では、後南朝とは一体何なのか? 端的に言えば、後亀山法皇の吉野潜行から、1514(永正11)年の南帝王崩御に至る一世紀間の、言わば、第二次南北朝時代とでも言いましょうか。通史には登場しませんが、この間、南北朝時代同様、確かに同時に二人の天皇が存在したのです。

は何故、再び二人の天皇が相並ぶような事態となってしまったのでしょうか? それこそ、「明徳和約」中の最大の条件、「両統迭立」を北朝(幕府)側が破ったからなのです。しかも、その手段があまりにも姑息だったからこそ、南朝は再び決起したのです。その「姑息な手段」が何だったのかを語る前に、まずは、下の系図を眺めてみて下さい。

1.「新」北朝系図

    ┌後崇光院─(102)後花園天皇─(103)後土御門天皇・・・
足利義満┤
    └(100)後小松天皇─(101)称光天皇(躬仁 改め 実仁

2.後南朝・熊沢家系図   註 (S1)等は、後南朝の代数

                   ┌(S2)中興天皇─(S3)自天皇
(99)後亀山天皇─(S1)小倉宮実仁太上天皇┤
                   └(S4)南天皇─(S5)南帝王(西陣南帝)┐
┌────────────────────────────────────┘
├熊沢治広王
└熊沢広敷王─熊沢玄理王─熊沢守久王─熊沢直行王─熊沢広良王─熊沢尊春王┐
┌───────────────────────────────────┘
└熊沢尊成王─熊沢尊泰王┬熊沢尊憲王─熊沢天皇(寛道)
            └熊沢与十三郎─熊沢太郎─熊沢静江
                           ┠────熊沢照元
                   塚原市之甫─塚原両作

この系図を見て何かお気づきになられませんでしょうか? 北朝系の第101代・称光天皇の名前「実仁」(みひと)と、後南朝初代・小倉宮太上天皇の名前「実仁」。そう、二人は奇しくも同じ名前なのです。しかし、最初から同じであった訳ではありません。称光天皇の最初の名前は「躬仁」(みひと)。読み方は同じですが、「躬」と「実」の様に、字が違います。では何故、称光天皇はわざわざ字を変えたのでしょうか? いや、変えさせられたのでしょうか? これこそが、幕府(北朝系)が弄した「姑息な手段」なのです。

北朝統一後、「明徳和約」により、正皇位は北朝の後小松天皇が継承しました。そして、「明徳和約」中の「両統迭立」条項により、後小松天皇の次は、南朝・後亀山天皇の皇子、小倉宮実仁親王が継承する筈でした。とは言っても、後小松天皇も人の子。自分の息子・躬仁親王可愛さに、「両統迭立」のルールを破って、皇位を躬仁親王に継がせてしまったのです。その際、小倉宮も、自分の息子も、名前の読みが「みひと」と同じだったのをこれ幸いに、「躬」から「実」へと、字まで変えて、あたかも、自分の息子が、小倉宮であるかの様に演出したのです。

倉宮決起!! 「両統迭立」条項を破られ、皇位継承を反古にされた小倉宮実仁親王は、父祖・後醍醐天皇が採ったと同じ手段−吉野への潜行を敢行。後南朝を樹立してしまったのです。一方の当事者で、皇位を継承した称光天皇が安穏としていたのかと言うと、決してそうでもないのです。本来ならば、自分が即位する筈がなかったにもかかわらず、父・後小松天皇と幕府の画策で、即位したと言うある種の「後ろめたさ」があったのは言うまでもありません。そして、父・後小松天皇の出生の秘密(足利義満の子)、更に、当時、箝口令が敷かれていた「伏見宮家断絶」事件(伯父・足利貞成親王による毒殺)を知る所となった称光天皇は、己の中に、本来の北朝と伏見宮家を滅ぼし皇室を奪った一族と同じ血が流れている事に逆鱗し、遂に御所を出奔、皇位を捨ててしまうのです。そう言う意味では、ナイーブな感情を持っていた称光天皇自身も、ある種、歴史の「被害者」だったと言えます。

て、後南朝はその後、どの様な運命を辿ったのでしょうか? 天皇の証し「神器」を手中にした小倉宮の子・尊義親王(中興天皇)、その子・尊秀王(自天皇)と「南朝皇位」が継承されました。しかし、1457(北朝長禄1・後南朝天靖15)年、後南朝側に帰順していた赤松氏の裏切りで、自天皇は暗殺され、その跡を継いだ小倉宮の第四皇子・尊雅親王(南天皇)も「神器」奪取を目論む足利方の賊に襲われ負傷、その傷が元で、29歳の若さで崩御してしまったのです。風前の灯火となった後南朝の「皇位」をついだのは、南天皇の子で、僅か5歳の皇子・信雅王(南帝王)だったのです。そして、最後の希望の星(幼君)を擁した後南朝方は、最後にして最大の決戦を挑み、その結果、「パンドラの箱」を開けてしまったのです。

参考文献


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