Reconsideration of the History
19.最大の決戦・応仁の乱 南北朝秘史-其の参- (1997.12.20)

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1467(応仁1)年、細川勝元を総大将とする東軍、山名宗全を総大将とする西軍、総勢25万の軍勢が激突、11年間に渡る大乱の幕が切って落とされました。世に言う応仁の乱のはじまりです。一般に、足利将軍家、管領畠山・斯波両家の相続問題(お家騒動)と有力守護大名の勢力争いと見られていた応仁の乱が、実は南北朝争乱の延長線上にあったと言う事を一体どれ程の方がご存じでしょうか?

西軍の総大将・山名宗全は、宿敵・細川勝元に対抗する為、先手を打って後南朝側に帰順しました。この山名宗全の帰順に従い、大和・和泉・紀伊の大半も後南朝側に帰順。後南朝勢力の増大は、幕府・朝廷(北朝)にとって由々しき問題となっていったのです。これに対して、細川勝元ら北朝勢力は、当時、後南朝軍の指揮を執っていた将軍の宮・尊慶王(日尊)を討ち取り、後南朝の勢力を削ごうとしたのです。そんな中、山名宗全は一つのカード(切り札)を手にするのです。

1471(北朝文明3・後南朝明応3)年、山名宗全は、後南朝の「天皇」・南帝王(熊野宮信雅王)を、実妹の住む京都西陣の尼寺・安山院の御所に迎えました。これが一体何を意味するのか? 答えは簡単でした。後南朝の「天皇」・西陣南帝(西陣に遷った後の南帝王の称)を奉じて天下に号令する!! 山名宗全の最終目標が、後南朝方を勝利させ、西陣南帝の権威の下、自らが天下の政務を執る!! これにあった事は誰の目にも明らかでした。

1473(北朝文明5・後南朝明応5)年、山名宗全・細川勝元と、東西両軍の総大将が相次いで亡くなりましたが、両軍の対峙は、この後4年も続いたのです。又、将軍・管領家のお家騒動だった争乱は、いつしか、北朝・後南朝の争乱へと変質、更に畿内を主戦場としていたものが全国に拡大、戦国時代へと突入していったのです。そう言う意味では、後南朝−西陣南帝は「パンドラの箱」だったとも言えます。もし、後南朝が再興されず、西陣南帝も現れず、山名宗全が後南朝勢力と結びつかなかったら、あるいは、応仁の乱は政権中央(畿内)の内紛に留まり、全国的な争乱へと発展しなかったのかも知れません。しかし、「パンドラの箱」の扉は開かれてしまったのです。その結果、「中世」−幕府を頂点とする中央集権システム−古い価値観が打破され、「近世」−権威にとらわれる事なく、強者が弱者を淘汰していく封建制−戦国時代へと突入したのです。

会システムが「中世」から「近世」へと移行する中、後南朝はどの様な運命を辿ったのでしょうか? 最大のパトロン・山名宗全を失い、1477(北朝文明9・後南朝明応9)年、中世最大の決戦・応仁の乱が勝者無きまま(ただ全国的な混乱を残しただけ)終結すると、西陣南帝は東海道を甲州を経て奥州へと下向、名も熊沢現覚坊と改め、身分を秘匿しました。その後、各地を転々とし、1514(永正11)年、尾張一の宮に於いて、61歳の波乱の生涯に幕を下ろしたのです。後南朝の皇統は、西陣南帝が熊沢姓を称した後、これを継承し、先の大戦後、一世を風靡した「熊沢天皇」寛道(写真)も、この直系だと言われています。

「熊沢天皇」こと熊沢寛道 後に、一つの「謎」を提起して締め括りましょう。戦後、「北朝」の流れを汲む昭和天皇に対して、「南朝」の正系である自分に皇位を譲るよう、主張した「熊沢天皇」寛道の話は、わりと知られています。しかし、熊沢寛道の父・大然(ひろしか 尊憲王)が、明治天皇に自家(熊沢家)の南朝皇系正統を上奏し認められた事は、わりと知られていません。この一件では様々な謎が残っているのです。

  1. 時の権力者・明治天皇と政府が、なぜ、力もない熊沢家に対して、処遇問題も含めて一定の配慮を見せたのか?
  2. 明治天皇は「北朝」系であるにもかかわらず、明治10年、『大政紀要』編纂の際、「南朝が正統・北朝が閏統(非正統)と言う裁可を下したのか?
  3. 後南朝第3代・自天皇御陵を、明治以来、宮内省(庁)が管理しているのはなぜか?
  4. 大正天皇が、後南朝第2代・中興天皇と自天皇を祀る吉野朝拝式に、金5千円(当時)と言う大金を献納したのはなぜか?

「北朝」系でありながら、南朝系に対して並々ならぬ「配慮」を見せた明治・大正両天皇の行動。これらは「配慮」と言うよりも、「南朝贔屓」とでも言える程でした。この「謎」については、次回、明らかにしましょう。

参考文献


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