Reconsideration of the History
202.歴史に鑑(かんが)み『皇室典範』を改正、天皇陛下の御譲位を認めよ!! (2008.12.8)

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新元号「平成」を発表する小渕恵三・官房長官(当時)動の昭和が終わり、小渕恵三・内閣官房長官(故人・当時)が新元号「平成」の額をテレビカメラに向け高らかに掲げてスタートした平成の御世(みよ)も早二十年。その間、宮中祭祀(きゅうちゅうさいし)と御公務で御多忙な天皇陛下(今上(きんじょう)天皇)が胸部に違和感をお感じになったのは平成20(2008)年11月17日の事でした。その後も、予定通りに粛々と御公務をこなされていた天皇陛下でしたが、12月2日夜、不整脈と高血圧の状態が続いた事を受け、平成元(1989)年の御即位以来、初めて予定されていた御公務を中止。12月8日、6日ぶりに日本学士院会館(東京都台東区)で行われた「第24回国際生物学賞」授賞式への御出席を期に、本格的な御公務復帰と相成(あいな)りました。とは言え、天皇陛下は12月23日の御誕生日で宝算(年齢)75歳を迎えられます。多くの一般企業の正社員の定年が現在、65歳である事を考えると、天皇陛下が如何(いか)にご高齢かと言う事が分かります。ましてや、「老後を悠々自適に好きな事をして」過ごされているのであればまだしも、歴代天皇の中でも最も熱心に宮中祭祀に取り組まれ、「天皇の職務」として法令に規定されている訳では無い御公務をこなされています。いや、もっと言えば、現行法令下に於いては、「天皇」に「定年」は存在しません。明治維新以降、近現代の明治・大正・昭和三帝は皆、崩御(ほうぎょ) ── 詰まり、お亡くなりになる迄、「天皇」として生涯現役を貫かれました。(但し、大正天皇御在位中に裕仁皇太子(昭和天皇)が摂政を、昭和天皇最晩年、重篤な天皇に代わって明仁皇太子(今上天皇)が国事代行をそれぞれこなされた) では、何故(なぜ)、生涯現役(御在位)なのかと言うと、『日本国憲法』はおろか、一時期、「女帝問題」で議論の俎上(そじょう)に上(のぼ)った『皇室典範』の何処(どこ)にも、

天皇の御譲位に関する規定が無い

からなのです。天皇の法的地位と権能、皇位継承権有資格者の範囲やその継承順位、摂政(せっしょう)の設置等々の規定が有り、天皇が崩御した際には直ちに皇太子が践祚(せんそ;厳密には異なるが、現代に於いては即位と同義)する事が謳(うた)われてい乍(なが)ら、何故か、御譲位(皇太子に皇位を譲る=御退位する事)に関する規定が欠落しているのです。だからこそ、一度、即位すると死ぬ迄、天皇であり続けねばならない訳です。然(しか)し、長い皇室の歴史を繙(ひもと)けば分かる事ですが、この様な「生涯現役制」(崩御される迄御在位)は事例としては少数派なのです。(下表参照)

桓武天皇以後の歴代御在位・院政・崩御年次比較表
(崩御時宝算は、御在位の儘崩御された場合は「退位時宝算」、院政中崩御された場合は「停止時宝算」、上皇として崩御された場合は「宝算」の欄を参照の事)

後水尾天皇の表は、平安時代を開いた桓武(かんむ)天皇以降、今上天皇に至る歴代天皇の御在位・院政・崩御年次を一覧にしたものですが、その内、太字で表した二十八帝が御在位の儘(まま)崩御された ── 詰まり「生涯現役」であった方々です。(譲位2日後に崩御された二帝を含む) 一見すると、28と言う数字が多い様に思われるかも知れませんが、その内、近衛(このえ)・安徳・四条・後二条・称光・後光明(ごこうみょう)・桃園(ももぞの)・後桃園と言った諸帝は、当時の平均寿命に比しても若くして崩御されていますし、後醍醐・後村上の南朝二帝は南北朝動乱の最中(さなか)、「戦う天皇」としての色彩を帯びていましたし、後土御門(ごつちみかど)・後柏原(ごかしわばら)・後奈良の三帝に至っては、戦国動乱期で譲位したく共、諸事情で周囲がそれを許さなかった天皇だったのです。詰まり、明治維新以前に生涯現役であった諸帝は、急な病(やまい)等で譲位をする間も無く崩御された方々か、又は動乱時代と言う特殊な環境下にあった方々ばかりなのです。まあ、中には譲位後、死ぬ迄、院政を布(し)き、「在位の君(きみ)(現役の天皇)に代わり、「治天の君」として生涯現役を通した白河・後白河・後水尾(ごみずのお;左肖像画/清和院蔵)と言った上皇(太上天皇)もいましたが、それはそれで極めて特殊な例と言えます。

大覚寺・正寝殿(さて)、それでは、何故、上皇制度が姿を消したのかと言うと、一言で言えば処遇の問題に尽きます。例えば、お住まいの問題。天皇が譲位すると、皇位と共に、今迄暮らしてきた御所(皇居)も、新帝に譲り渡さねばなりません。では、上皇は何処で暮らすのか言うと、「仙洞(せんとう)御所」に居を移します。「仙洞御所」とは言っても決まっている訳ではありません。平城(へいぜい)上皇は旧都・平城京(奈良の都)に居を構えましたし、宇多(うだ)上皇は仁和寺御室(にんなじおむろ)・亭子院(ていじのいん)・六条院を転々としましたし、後嵯峨・後深草(のちのふかうさ)上皇は持明院(じみょういん)に、亀山・後宇多両上皇は嵯峨の大覚寺(右写真)に、と言った具合に公家の邸宅や寺院を御所として使っていました。然(しか)も、一人の天皇(在位中)に対して、上皇が一人とは限りません。中には複数の上皇が存在し、一院・新院・中院・後院と言った呼び名で区別していた時代すらありました。又、経済的問題(財政支出)もあって、安易に譲位され上皇になられる事は様々な問題を惹起しかねません。(後水尾天皇は徳川幕府に対する「腹いせ」に、若干34歳の若さであり乍ら皇女に譲位。以後、85歳で崩御する迄の間、長期院政を布いた) その様な事もあってか、明治以降、法親王(ほっしんのう)・女院(にょいん)と共に、上皇の制度も廃止された訳です。とは言っても、天皇の生涯現役制というのは余りにも酷と言わざるを得ません。

皇居・吹上大宮御所皇が存命中に皇位を皇太子に譲る ── 御譲位して上皇となる事、それが前例の無い事だと言うのならば、それはそれで理屈にも適(かな)う意見でしょう。然し、明治以前、生涯現役だった天皇の方が寧(むし)ろ特殊な事例だったと言える点もある以上、例えば、天皇陛下の様に間もなく75歳を迎える年齢にも関わらず、激務をこなされている、その現実に配慮す可(べ)きでは無いのか? ましてや、日本人男性の平均寿命が79.19歳(2007年現在)である事を考えれば、尚の事です。無条件に年齢に関係無く御譲位を認める可きとは私も思いませんが、ある一定の年齢に達したら、引き続き皇位に留まるか、或(ある)いは譲位するかの選択権を天皇陛下に委(ゆだ)ねる程度の規定を『皇室典範』に追加す可きです。現在、皇居内には、天皇陛下・皇后陛下がお住まいになっている「御所」の他に、生前、昭和天皇と香淳皇后がお住まいになっていた「吹上大宮(ふきあげおおみや)御所」(左上写真)があり、こちらは使われていません。この吹上大宮御所を仙洞御所として上皇のお住まいに充てれば、お住まいの問題は解決します。又、御譲位に一定の条件を設け、上皇の乱立を避ける(原則として、一天皇在位中には一上皇)方策を採れば、経済的問題もクリアー出来ます。最後の上皇となった光格天皇の崩御から凡(およ)そ170年。旧皇族の皇籍復帰問題と合わせて、『皇室典範』の改正に踏み切る可きでは無いのか?(詳しくは、小論『172.皇室に41年ぶりに男子誕生 ── それでも、『皇室典範』は改正すべきである』を参照の事) 私は皇位継承の慣例を無視した安易な「女系天皇」誕生論議よりは、余程(よほど)、こちらの方が重要であり大切では無いのか? そう思うのです。

   余談(つれづれ)

ジグメ-ケサル-ナムゲル-ワンチュク・ブータン国王2008(平成20)年11月6日、「世界の屋根」と称されるヒマラヤ山脈の麓、ブータン王国の首都ティンプーに於いて、若干28歳、世界最年少の君主、ジグメ-ケサル-ナムゲル-ワンチュク王(右写真の内、右側の青年)の戴冠式が行われました。同国王は、2006(平成18)年12月14日、父であるジグメ-シンギ-ワンチュク王より譲位され、ブータン王国第5代龍王(ドゥルック-ギャルボ)に即位しましたが、父王は在位中に国民から支持されていた絶対王制をわざわざ廃止し、立憲君主制に移行。民主化を推進すると共に、まだまだ働き盛りの52歳と言う年齢にも関わらず、第一王子に譲位し国政の第一線から退(しりぞ)きました。とは言え、これは悠々自適な生活をするのが目的ではありません。若き新王に早期に譲位し経験を積ませる事も当然ですが、前国王として自らが健康な内に様々な国王としてのノウハウ ── 別の言い方をすれば帝王学 ── を伝授し、賢明な君主に育て上げようと言う意味も込められているのです。生涯現役の君主もそれはそれで結構な事ですが、存命中に譲位し、後進を見守る、育(はぐく)む、と言うのも一つのあり方と言えるのです。(了)


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