Reconsideration of the History
29.人類は「核戦争」を経験していた!? 超古代文明考-其の弐-(1998.5.12)

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類が遠い昔に「核戦争」を「経験済み」だと言ったら、皆さんはどう思われるでしょうか? 「そんなバカな」・「とうとう、ネタに詰まったな」等と思う方もおありでしょう。確かに原子力を「核兵器」と言う形で、軍事力にまで昇華させたのは、紛れもなく20世紀も半ばになってからです(我々の常識では)。弓矢や刀剣から、銃器を経て現代兵器に至るまでには、それこそ数千年と言う膨大な時間を費やした事は私も認めます。しかし、私はそれを十分承知の上で断言します。ずばり、「人類は遠い昔に核戦争を経験していた」と。では、なぜ、そう断言できるのか? それは書物にちゃんと書かれているからです。と言う訳で、今回は超古代の核戦争について書いてみたいと思います。

ず登場願うのは、皆さんもご存じの『聖書』です。あなたがキリスト教(及びユダヤ教)の信者でないとしても(ミッション系の幼稚園に通いましたが、私も信者ではありません)、『聖書』の名前くらいはご存じの筈です。その『聖書』−それも『旧約聖書』の「創世記」第19章にこのような記述があります。(ちょっと長いですが、そこの所はお許しを・・・)

 夜が明けて、御使い(みつかい)達はロト(人名)を促して言った。

「立って、ここにいるあなたの妻と二人の娘とを連れ出しなさい。そうしなければ、あなたもこの町の不義の為に滅ぼされるでしょう。」

彼はためらっていたが、主は彼に憐(あわ)れみを施されたので、かの二人は彼の手と、その妻の手と、二人の娘の手を取って連れ出し、町の外に置いた。彼らを外に連れ出した時その一人は言った。

「逃れて、自分の命を救いなさい。後ろを振り返って見てはならない。低地にはどこにも立ち止まってはならない。山に逃れなさい。そうしなければ、あなたは滅びます。」

ロトは彼らに言った。

「我が主よ、どうか、そうさせないで下さい。僕(しもべ)は既にあなたの前に恵みを得ました。あなたは私の命を救って、大いなる慈(いつく)しみを施されました。しかし私は山までは逃れる事が出来ません。災いが身に追い迫って私は死ぬでしょう。あの町をご覧なさい。逃げて行くのに近く、又、小さい町です。どうか私をそこに逃れさせて下さい。それは小さいではありませんか。そうすれば私の命は助かるでしょう。」

御使いは彼に言った。

私はこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません。急いでそこへ逃れなさい。あなたがそこに着くまでは、私は何事もする事が出来ません。」

これによって、その町の名はゾアルと呼ばれた。ロトがゾアルに着いた時、日(太陽)は地の上に上った。

 主は硫黄と火とを主の所すなわち天からソドムとゴモラ(双方とも都市の名前)の上に降らせて、これらの町と、全ての低地と、その町々の全ての住民と、その地にはえている物を、悉(ことごと)く滅ぼされた。しかしロトの妻は後ろを顧みたので「塩の柱」になった。アブラハム(人名)は朝早く起き、先に主の前に立った所に行って、ソドムとゴモラの方、及び低地の全面を眺めると、その地の煙がかまどの煙の様に立ち上っていた。

 こうして神が低地の町々をこぼたれた時、すなわちロトの住んでいた町々を滅ぼされた時、神はアブラハムを覚えて、その滅びの中からロトを救い出された。

これが有名な「ソドムとゴモラ」の話です。繁栄の真っ直中にあった大都市、ソドムとゴモラでしたが、怠惰し神を敬わなくなったので、神(主)は「神の火」をもって、二つの大都市(とその周辺部)を滅ぼしてしまったと言うのです。しかし、皆さんの中には、「巨大地震やその後の火災等、天災によって壊滅した都市を描写したのでは?」とおっしゃる方もおありでしょう(関東大震災等も、地震の被害より、その後の火災による被害の方が甚大だった)。ですが、これが単なる「天災」を描写したのではない「証拠」が文中に残されています。
私はこの事でもあなたの願いをいれて、あなたの言うその町は滅ぼしません。
神はロトが逃れる町は「滅ぼさない」と言っているのです。つまり、ソドムとゴモラに目標を「限定」し、ゾアルは「滅ぼさない」。神は「滅ぼす範囲」を自由に「選択」出来たと言う事です。ちなみに、ソドムとゴモラの正確な位置はまだ確定されていませんが(それはそうでしょう。都市全体が地上から消滅してしまったのですから)、上空からシナイ半島を眺めると、核実験の際に出来る様な円形の「模様」が地上に残されています。しかし、やはり、「信じられない!!」とおっしゃる方もおありでしょう。そんな方の為に、もう一つ、「証拠資料」を提出します。

程は西洋の書物からの引用でしたので、次は東洋の書物から引用しましょう。登場願うのは、仏典(仏教の経典)の一つ、『月蔵経』(がつぞうきょう)です。その一節にこの様な記述があります。

原   文
(大方等大集経巻第五十六/大集経月蔵分第十二法滅尽品第二十)

是時須臾頃 大地普震動 於其虚空中 出大悪音声
四方起大悪 火爨数百千 火幢大可畏 現住在空中
             ・
             ・
             ・
当時虚空中 大声震於地 一切皆遍動 猶如水上輪
城壁砕落下 屋宇悉外字外字 樹林根枝葉 花葉果薬尽

読み下し文

是の時、須臾の頃(あひだ)、大地普(あまね)く震動し、其の虚空(こくう)中に於いて、大悪音声(だいあくおんじょう)を出し、四方に大悪起こり、火爨(かさん)数百千、火幢大いに畏(おそ)るべし。現住して空中に在り。

時に当たり虚空中に大声あり、地を震(ふる)ふ、一切皆遍(あまね)く動き、なお水上の輪の如し。城壁砕け落下し、屋宇(おくう)悉く外字外字(いき)し、樹林の根・枝葉・花葉・果薬尽く。

分かり易く言うと、
是の時、須臾の間、大地が揺れ動き、空中で耳を聾(ろう)さんばかりの大きな音を出し、各所に被害をもたらす。数百、数千にものぼる火の手が上がり、空中に留まっている。

その時、空中で大きな音がして大地が震える。全ての物が巻き込まれ広がりゆく有様は、水面の波紋とそっくりだ。市街の壁は崩れ落ち、家屋は大小を問わず倒壊し、樹木は根こそぎにされる。

どうでしょう、何かを連想されませんでしたか? そう、「あの」広島や長崎に投下された「原爆」の情景そっくりではありませんか。空中で炸裂した原爆は巨大な爆発音を衝撃波に変えて、爆心から同心円上に広がっていきます。まさに「水上の輪の如し」です。原爆の衝撃波は家屋を吹っ飛ばし、ビルディングを破壊し、樹木を根本から引きちぎっていく・・・。

『月蔵経』は『法滅尽経』と共に、釈迦が入滅(死ぬ)直前、弟子達に「遺言」として残した経典で、「予言書」共言われています。まあ、「予言」として見た場合、広島や長崎に投下された「原爆」の情景にそっくりだったとしても、納得できるのですが、私は、「予言」であると同時に、「過去」の記憶でもあったと思います。なぜかと言うと、古代ヒンドゥー教の経典に、神々が「空飛ぶ乗り物」(ヴィマーナ=飛行車)を駆って空中戦をし、「サイドワインダー」の様な「ミサイル」を発射した(勿論、「ミサイル」なんて書かれていませんよ。「空飛ぶ蛇」とか「稲妻」・「雷(いかずち)」と言った表現ですが)とか、全てを焼き尽くす最終兵器「神の火」を使ったとか・・・そう言った内容が書かれています。ちなみに、インドには今でも原爆で焼かれたとしか思えない程、もの凄い高温にさらされた大地や、「テクタイト」(高温によってガラス化した岩石)が残されています。つまりは、古代インドでも核兵器が使用された可能性があるんです。

考えると、広島・長崎に投下された「原爆」は、人類史上最初に使われた「核兵器」では無い事になります。数千年も前に「核兵器」が実戦で使用され、それによって「ソドム」や「ゴモラ」と言った都市が地上から消滅したのだとしたら、人類は同じ轍を踏んだ事になり、「業」の深さを感じずにはいられません。と同時に、人類にとって「核」と言うシロモノはやはり「神の火」であり、人類が、使途によっては「鉛筆削り」(ちょっと例えが古かったですね)にも、「殺人の凶器」にもなりうる「ナイフ」を持ってしまった「赤ん坊」に思えてしまうのです。これはある意味でものすごい「喜劇」であると同時に、「悲劇」としか言いようがありません。

参考文献


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