Reconsideration of the History
248.誰が「世界一危険な基地」を作ったのか? ── 「普天間基地問題」を斬る! (2012.7.18)

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沖縄の米軍基地(出典:沖縄県基地対策課)
▲沖縄の米軍基地(出典:沖縄県基地対策課)
面積4.83km2 ── 総面積19.7km2の沖縄県宜野湾(ぎのわん)市の実に25%もの広大な土地を占有しているアメリカ合衆国海兵隊普天間(ふてんま)飛行場(U.S. Marine Corps Air Station Futenma)── 通称「普天間基地」は数ある沖縄米軍基地の中でも象徴であり、宜野湾市のど真ん中に立地、米国本土の空軍基地でも有り得ない程、周囲に過密な市街地が迫る文字通り「世界一危険な基地」と言えます。そして、その普天間から飛行場を何処(どこ)へ移すか? 名護市辺野古(へのこ)にある米軍キャンプ・シュワブ沖が候補地に上がった沖縄県内か、将又(はたまた)問題発言と行動で周囲に混乱と迷惑ばかり掛け続けている民主党最高顧問(外交担当)の鳩山由紀夫・元総理が唱える御題目「最低でも県外(移設)」なのか? で揉(も)めに揉め続けている。それが、所謂(いわゆる)「普天間基地問題」である訳です。

平成22(2010)年撮影の普天間飛行場を取り囲む様に立地する各種施設(Google Map)
▲平成22(2010)年撮影の普天間飛行場を取り囲む様に立地する各種施設(Google Map)
(ここ)に一枚の航空写真があります。これは普天間飛行場周辺をグーグル・マップ(Google Map)で地名表示入りにしたものですが、東西を海に囲まれた市の中央部、飛行場を避けて高速道路(沖縄自動車道)や国道(58号・330号)、宜野湾バイパスと言った幹線道路が通り、更に飛行場を取り囲む様に、市役所や警察署・博物館・郵便局・病院等の公共施設から、幼稚園・小中学校・高校から大学迄数多くの教育施設が犇(ひし)めいている様子が手に取る様に分かります。正に宜野湾市のど真ん中に鎮座坐(ましま)している。それが普天間飛行場なのです。これだけ飛行場が市街地に密接していると、航空機の騒音被害は我慢の限界を超えますし、航空機墜落事故の危険性も桁違いに高まります。そして、その不安が現実のものになった事件。それが平成16(2004)年8月13日に起きた「沖国大(おきこくだい)米軍ヘリ墜落事件」でした。

沖国大米軍ヘリ墜落事件の現場(事故直後)
沖国大米軍ヘリ墜落事件の現場(事故直後)
平成16(2004)年8月13日、普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターCH-53D「シー・スタリオン」が訓練中、操縦不能に陥り、市内・沖縄国際大学1号館の北側に接触、墜落炎上した。この事故で搭乗員3名が負傷したが、当時、1号館内にいた大学職員20数名を含む民間人には一人の死傷者も出ず、更に近くの民家やガソリンスタンド・保育所等にヘリの部品が落下散乱したものの、これらの場所に於いても人的被害は出ず、正に不幸中の幸いであった。
大型輸送ヘリコプター CH-53D「シー・スタリオン」
大型輸送ヘリコプター CH-53D「シー・スタリオン」
沖縄国際大学に墜落したものと同型の合衆国海兵隊所属大型輸送ヘリコプター CH-53D「シー・スタリオン」。普天間飛行場に於いても運用されているが、現在、その後継として垂直離着陸輸送機 MV-22「オスプレイ」の配備が計画されている。
垂直離着陸輸送機 V-22「オスプレイ」
垂直離着陸輸送機 MV-22「オスプレイ」
左右にある可変式の大型回転翼(プロップ・ローター)と固定翼により垂直離着陸が可能な、ヘリコプターと固定翼機両方の特徴を併せ持つ航空機。現在、普天間飛行場への配備が計画されているが、度重なる事故により反対運動が起きている。
成16(2004)年8月13日午後2時15分頃、訓練中の普天間飛行場所属大型輸送ヘリコプター CH-53D「シー・スタリオン」(Sea stallion;「海の種馬」の意)が制御不能に陥(おちい)り、宜野湾市内は沖縄国際大学(通称「沖国大」)の1号館北側に接触、その儘(まま)墜落し炎上しました。この事故で搭乗員3名が負傷、機体の部品が周囲の民家やガソリンスタンド・保育所等に落下散乱したものの、当時、1号館内に居(い)た大学職員20数名を含む民間人には一人の死傷者も出ず、正(まさ)に奇跡と形容するしか無い不幸中の幸いの事象でした。この事故に付いては、発生直後、市民が警察・消防に通報し、警察車両や消防車・救急車が駆け付けるよりも早く、米軍関係者が現場に到着。消火作業後の現場を米軍が封鎖し、事故機を搬出する迄、日本の警察・行政・大学関係者を現場に立ち入らせなかった事等から激しい反発を招き、沖国大での抗議集会開催や、普天間から辺野古への移設に反対する世論を強める等、沖縄県民の反米軍基地感情を高める結果となりました。以上が所謂「沖国大米軍ヘリ墜落事件」の概要である訳ですが、まあ、事故後に米軍が現場を完全封鎖し、大学関係者や宜野湾市当局、更には沖縄県警察の関係者すらも足を一歩も踏み入れる事が出来なかった事は、日本の施政権を著しく侵害、否定した共言え、厳しく糾弾されても致し方無い、そう言う事象であった事は確かです。又、飛散部品を敷地にばら撒(ま)かれた当事者にしてみれば、「正直堪(たま)ったものでは無い!」と怒り心頭になる事も已(や)むを得ないですし、そう言う感情も充分理解出来ます。更には、一向に後を絶たない米軍人や軍属による犯罪に対しては、「これが『世界の警察官』を自認する世界最強の軍隊のする事なのか!」と私自身も声高に叫びたい。その思いに何ら違いはありません。(私のスタンスは反特亜(反中・反韓・反鮮)・反露である。然し、だからと言って単純に「親米保守」かと言うと決してそうでは無い。寧(むし)ろ傲慢不遜な米国に反発する所大である) 然(しか)し、それらを差し引いても、「普天間基地問題」に対し、どうしても一言物申さざるを得ません。そして、その矛先(ほこさき)は飛行場の主(あるじ)である米軍(米国)では無く、寧(むし)ろ、飛行場の普天間からの移転を声高(こわだか)に叫ぶ宜野湾市民や市民団体に対してであり、沖縄県民に対してなのです。(予(あらかじ)め断っておくが、全ての宜野湾市民・沖縄県民に対するものでは決して無いので、その点は注意されたい。そして、その事は以下続きをお読み頂ければ、ご理解頂けるものと思っている)

昭和20(1945)年撮影の普天間飛行場
昭和20(1945)年撮影の普天間飛行場
大東亜戦争末期の昭和20(1945)年春、沖縄に上陸した米軍は宜野湾一帯を勢力下に置くと、中頭郡(なかがみぐん)宜野湾村(現・宜野湾市)に2400m級の滑走路を持つ飛行場を建設した。これが合衆国海兵隊普天間飛行場(U.S.Marine Corps Air Station Futenma)── 通称「普天間基地」である。因(ちな)みに、当時撮影された航空写真を見ると、飛行場周辺には緑が非常に多く、人家が殆(ほとん)ど見られない事が分かる。
昭和52(1977)年撮影の(左下)と飛行場北側の市街地の航空写真
昭和52(1977)年撮影の普天間飛行場(右上)と飛行場南西側の市街地の航空写真
昭和52(1977)年撮影の普天間飛行場(上:北側/下:南側)
建設から30余年後の昭和52(1977)年撮影の航空写真を見ると、周辺に多くあった緑が消え、代わりに市街地が飛行場に迫る様に形成されている事が一目で分かる。「普天間問題」が語られる時、「市街地のど真ん中にある世界一危険な基地」との表現がよく為されるが、昭和20年、昭和52年撮影の二枚の写真を見比べれば、一体「誰」が世界一危険な基地と街にしたのかは考える迄も無い事だろう。
平成17(2005)年撮影の普天間飛行場
平成17(2005)年撮影の普天間飛行場
更に30年余り経った平成17(2005)年撮影の航空写真に注目してみる。昭和52年撮影の写真に於けるA・B・C各地点にはまだ緑が残されていたのが、平成17年の同地点には宅地が造成されている。あれだけ「世界一危険な基地」を抱える街と言い乍(なが)ら、その事を百も承知の上で移り住んだ紛れも無い証拠である。一連の写真を繙(ひもと)く時、「普天間問題」の歪(いびつ)な真実が浮かび上がってくるのである。

普天間飛行場の学校の創立年一覧表
の主張を披瀝(ひれき)する前に、先(ま)ずは皆さんにご覧頂きたい古びた一枚のモノクロ写真があります。それは大東亜戦争(俗に言う「太平洋戦争」)末期の昭和20(1945)年、米軍によって撮影された航空写真なのですが、其処(そこ)には何やら飛行場が写っています。これが何を隠そう普天間飛行場なのです。普天間飛行場は、沖縄に上陸した米軍が宜野湾一帯を制圧、中頭郡(なかがみぐん)宜野湾村(現・宜野湾市)に建設した2,400m級の滑走路を持つ飛行場ですが、写真を見ての通り、建設当初は周囲が一面の緑に覆われ住宅等殆(ほとん)ど無かった事が見て取れます。この状態を踏まえた上で次の写真をご覧下さい。次の航空写真は建設から30年余り後の昭和52(1977)年に撮影されたものですが、建設当初とは打って変わって飛行場の周囲の緑が大幅に減り、代わりに多くの建物が建ち並び市街地が形成されている様子が見て取れます。此処迄(ここまで)言えば、もう皆さんも私が何を言いたいのか薄々感付いている事でしょう。そうです。

建設当初、普天間飛行場の
周辺に住宅地等無かった!

そして、それは同時にこの様に言い換える事も出来るのです。曰(いわ)く、

普天間飛行場に密接する住宅街は、
飛行場建設後に形成された!

と。然し、これだけで驚いてはいけません。更に30年余り経った平成17(2005)年に撮影された航空写真を見てみると、先の写真ではまだ緑が残されていたA・B・Cの各地点に新興住宅地が造成されている事が分かります。時代は既に平成の御世(みよ)です。「普天間基地問題」が叫ばれて久しいにも関わらず、そして、普天間飛行場が周囲に過密な市街地が迫る「世界一危険な基地」として十二分に認知されているにも関わらず、それでも尚、基地に程近い場所に住宅を建てた市民が居(い)ると言う現実です。飛行場に離発着したり上空を飛ぶ航空機の騒音が酷いのは当然です。航空機墜落の危険が高い事も当然です。にも関わらず年々、住宅地が飛行場を取り巻く様にして、じわりじわりと近付く様に造成されている。詰まり、普天間飛行場周辺の市街地を「世界一危険な街」にしたのは米軍ではありません。

基地に隣り合う「世界一危険な街」を
作ったのは、普天間飛行場による
騒音被害や墜落の危険性を盾に
移転を声高に主張している
当事者の宜野湾市民自身

だと言う事なのです。然し、それでも「沖国大米軍ヘリ墜落事件」同様、児童生徒が通う学校に航空機が墜落したりしたら如何(どう)するのだ!と仰有(おっしゃ)る方も中にはおありでしょう。

頭でも述べた様に、普天間飛行場の周囲には幼稚園から小中学校、高校・大学と教育機関が軒を連ねています。其処(そこ)に航空機が墜落したりしたら・・・児童生徒に死傷者が出ない共限りません。それ故(ゆえ)に一日も早く普天間から飛行場を移転す可(べ)きだ、との意見は尤(もっと)もな事です。然し、諄(くど)い様ですが、「鶏が先か、卵が先か」ではありませんが、飛行場とそれらの施設とどちらが先に創立(建設)されたのかを検証すれば、その様な主張も傲慢でしか無い事が分かります。例えば、米軍ヘリが墜落炎上した沖国大一つ採っても、大学創設は昭和47(1972)年。その前身である琉球国際短期大学の創立に遡(さかのぼ)ってみても昭和34(1959)年。詰まり、沖国大はその前身の琉球国際大で見ても、普天間飛行場の建設から14年後に創立された事になります。そうすると、この様な疑問が頭を擡(もた)げてくるのです。

何故、態々(わざわざ)騒音被害や墜落の
危険性がある場所に建てたのか?

と。

故、態々(わざわざ)騒音被害や墜落の危険性がある場所に建物を建てたのか? そして、住み着いたのか? その答えの一つは基地周辺の土地の市場価格が安かった事です。人間、誰しも我が家 ── 然(しか)も一軒家 ── を建てたいものです。其処(そこ)で思い悩むのが自分が建てたい(持ちたい)と考えている家と、現実問題として工面(用意)出来る資金との兼ね合いです。幾ら、思い描いた家を建てたいと思っても、資金が工面出来なければどうにもなりません。然(しか)もゼロから家を建てようとする場合(土地購入から始める場合)、同じ上物(家屋)を建てるにしても地価によって全体の金額に大きな差が生じてきます。結果、少しでも安く家を建てたいが為に、市場価格の安い土地が買われた。そして、建物が建てられた訳です。然し、それだけが基地に密接する「世界一危険な街」を作った原因ではありません。もう一つの要因、それは経済です。

天間飛行場を抱える宜野湾市に限らず、在日米空軍横田基地(U.S. Forces Japan Yokota Air Base)が市域東側平坦部の約3分の1を占有している東京都福生(ふっさ)市や、米海軍第七艦隊や海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊が置かれている軍港都市の神奈川県横須賀市等、米軍基地・施設を抱える地方自治体にとって、米兵は犯罪等トラブルを起こす厄介者であると同時に、自分達から物を買ってくれる消費者として重要な位置を占めています。それが証拠に基地周辺には米軍人・軍属をターゲットに英語の看板を掲げ、米ドルでの支払が可能な店舗が数多く存在します。勿論、飲み屋等「夜の商売」にとっても米兵は恰好(かっこう)のお客さんとなっています。詰まり、米軍基地を抱える自治体にとっては、米兵の存在自体が地域経済に重要な位置を占めている訳で、結果、少しでも基地に近い場所に店舗を構える事になる ── だからこそ、基地に密接する様に商店街や歓楽街が形成された。そして、其処に働く人々も又、そう遠くない場所に住み着いた。これが基地に密接する形で市街地が形成された最たる理由である訳です。(彼等(かれら)にとって米軍基地が無くなってしまう事は、即ち自分達の商売が上がったり、いや廃業の危機に陥ってしまう極めて深刻な問題であり、簡単に「米軍出て行け!」とは言えない事情がある) 只(ただ)、これは米軍相手に商売している人達を視点に見た場合でしかありません。愛(いと)しい我が子を基地に密接する危険な場所に立地する学校に通わせたく等無い、そう思う親心も理解出来ます。然し、そう言った親心を妨げる様な事が普天間周辺で過去実際に起きていた、と言ったら皆さんは如何(どう)思われるでしょうか?

普天間第二小学校
宜野湾市立普天間第二小学校
昭和44(1969)年設立の一件何の変哲も無い何処(どこ)にでもある様な小学校。然(しか)し、この小学校は幾度と無く「普天間基地問題」に於いて注目と脚光を浴びてきた。何故(なぜ)なら、この小学校はフェンスを挟(はさ)んで普天間飛行場と隣り合わせなのだから。
普天間第二小学校のグラウンド
普天間第二小学校のグラウンド
普天間第二小学校のグラウンドを写した写真だが、子供達がサッカーをしている背後には米軍の航空機が飛んでいる。それもその筈。高く聳(そび)えるフェンスの向こう側は普天間飛行場なのだから。
縄県宜野湾市新城2丁目8番19号。普天間飛行場敷地の北東部、宜野湾市立普天間中学校よりも更に飛行場に密着する様に建つ学校の名を宜野湾市立普天間第二小学校と言います。設立が昭和44(1969)年のこの小学校は南側のグラウンドが飛行場とフェンス越しに接しており、基地危険性の象徴として度々取り上げられる存在で、実際に昭和57(1982)年頃、小学校から約200mしか離れていない場所に米軍のヘリコプターが不時着、炎上すると言う事故も起きています。そして、この事故が切っ掛けとなり、小学校に通う児童の父兄や地域住民の間から小学校を別の場所に移転する様に望む声が沸き上がり、それを受けた当時の宜野湾市長・安次富盛信(あしとみ-もりのぶ)氏が在日米軍と交渉、現在地から約1km離れた米軍家族用地の内、8千坪(約26,450m2を校舎用に日本に返還する事で合意。日本の防衛施設庁共協議した上で移設予算も確保したと言います。然し、結果的に普天間第二小学校は其処へ移転される事無く、今も同じ場所に建っています。米軍と交渉し移転先を確保、移転費用の目処(めど)も付き乍(なが)ら、何故(なぜ)、移転されなかったのか? 皆さんもこの点を不思議に思う事でしょう。一体、何が普天間第二小学校の移転を阻(はば)んだのか?

天間第二小学校の移転を阻んだもの、それは意外にも「市民運動」でした。小学校移転を実現の寸前迄進めたのも「市民運動」でしたが、皮肉にもそれを阻んだのも又「市民運動」だったのです。地域住民の声を受けた安次富市長の尽力により、普天間第二小学校の移転が現実のものとなった時、何とあろう事か市民団体の中から、

小学校の移転は基地の固定化に繋がる!

等と言った抗議が安次富市長と宜野湾市役所の下(もと)に殺到したと言います。この抗議に対し、安次富市長は

爆音公害から(小学校に通う児童を)少しでも遠ざけ危険性も除去したい

と説明したそうです。然し、移転に猛烈に反対する彼等は、

(我々の)命を張ってでも移転に反対する!

と強硬に主張、頑として曲げなかった為、移転計画は足踏み状態となり、更に悪い事に、昭和60(1985)年に行われた宜野湾市長選挙に於いて、保守系現職の安次富盛信氏が落選、左翼革新系新人の桃原正賢氏が当選した事で、移転計画は完全に頓挫したのです。(桃原市長の下(もと)で普天間飛行場移転(要求)が決定。移転される可(べ)きは小学校では無く飛行場と言う事で、普天間第二小学校の移転計画はご破算となった) 当時、安次富市長の下で移転計画を推進していた市の関係者の中には、

市民団体等は基地反対運動をする為に小学校を盾にし、児童を人質にした!

と言う人もいますが、正にその通りだったと言って差し支(つか)え無いでしょう。然し、普天間第二小学校を巡る移転話はこれでは終わりませんでした。

和63(1988)年から平成元(1989)年に掛けて、普天間第二小学校では校舎の老朽化により、児童が落ちてくるコンクリート片に当たって怪我する危険性が高まった事から、小学校に通う児童の父兄や地域住民の間から再び校舎の移転を求める声が上がりました。然し、この時も市民団体等が、

(学校は)移転せず、現在地の儘(まま)改築す可(べ)きだ!

と横槍を入れ、その結果、前回と同様に移転構想は頓挫したのです。この時の様子に付いて、当時、宜野湾市議会議員だった安次富修(あしとみ-おさむ)前衆院議員(自由民主党)は、

反対派は基地の危険性を訴えていたのだから、真っ先に移転を
考える可きだったが、基地と隣り合わせでも良いと言う事だった!

と述べ、別の市関係者も、

多くの市民は基地の危険性除去の為に真剣に基地移設を
訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や
県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供達を反米の
イデオロギー闘争に利用している可能性も否定出来ない!

と述べています。正に何をか況(いわ)んやと言えるでしょう。詰まり、基地反対運動を展開している「市民団体」は、学校が普天間飛行場よりも後に出来た「歴史的事実」を伏せた儘、飛行場の移転を強硬に主張しているだけで無く、更には実際問題として基地と隣り合わせで騒音被害を蒙(こうむ)り、航空機墜落の危険性から児童を守る為、学校を飛行場から離れた場所に移転しようと言う地元の声にすらも耳を傾けず、それを推進しようと言う計画が持ち上がれば、これを断固阻止、潰(つぶ)すと言う、極めて典型的且つ古典的な反米左翼的行動スタイルを採っているのです。

民党政権時代の平成8(1996)年4月12日、橋本龍太郎総理(故人)とウォルター=モンデール駐日米国大使との間に『普天間飛行場の移設条件付返還』

    普天間飛行場の移設条件付返還(骨子)
  1. 5年後から7年後迄の全面返還を目指す事 (註:合意から7年後は平成15(2003)年に当たる)
  2. 移設を実施する為には十分な代替施設を用意する事 (註:日本側も費用を負担する形で在沖米海兵隊のグアム移転が検討された)
  3. 代替施設として海上ヘリポートへの移設を検討する事 (註:名護市辺野古のキャンプ・シュワブ沖が候補地として選定された)

沖縄復帰40周年記念式典に出席した鳩山由紀夫元総理
沖縄復帰40周年記念式典に出席した鳩山由紀夫元総理
平成24(2012)年5月15日、沖縄復帰40周年記念式典出席後、宜野湾市で講演した鳩山元総理。政権交代前後、「普天間基地問題」に於いて「最低でも県外(移設)」と発言していたにも関わらず後に変心した事に対し、「思いが先に立ち過ぎた」として謝罪したが、内閣総理大臣と言う一国の政治指導者の立場に於いて、自らの発言で橋本内閣当時、漸(ようや)く取り纏(まと)めた日米合意を反故(ほご)にし、剰(あまつさ)え「普天間基地問題」をより複雑なものにしてしまった所行は、正に万死(ばんし)に値(あたい)する。その意味では、彼は「普天間基地問題」に関する「A級戦犯」と言っても過言では無い。
が合意されたにも関わらず、その移転先の選定で折り合いが付かず、更には自民党から民主党への政権交代に伴い発足した鳩山内閣 ── 鳩山総理(当時)が散々引っかき回した事で、泥沼に陥ってしまった「普天間基地問題」。鳩山内閣を襲った後継の菅内閣、そして現在の野田内閣に於いても全く展望が立たないこの問題に対して、普天間から沖縄県内 ── 具体的に名前が挙がっている名護市辺野古沖、或いは沖縄県外と言った移転先の選定と実際の移転作業と言うものは、それこそ莫大な時間と労力、そして資金が掛かる事でしょう。然し、現実問題として、「中国」(支那)が急速に海空軍力 ── とりわけ空母建造による機動部隊創設を企図している海軍力 ── の増強に力を入れ、従来はチベットやウイグル(新疆ウイグル自治区)と言った国内地域に付いてのみ使ってきた「核心的利益」と言う言葉を、日本領である事が疑う可くも無いにも関わらず「中国領である」と主張する尖閣群島(尖閣諸島;「中国」側は「釣魚(ちょうぎょ)島」・「釣魚台列嶼(れっしょ)」等と呼んでいる)に対しても使い始めた事、更には同じく従来はせいぜい漁船程度でしか無かった尖閣群島周辺の日本領海に対する侵犯事案が、最近では「漁政」と呼ばれる日本の水産庁の漁業取締船に相当する漁業監視船迄をも使って平然と侵犯してくる等、「中国」による尖閣群島、更には沖縄本島を含む南西諸島に対する「野心」(侵略併合)が顕著となっています。その様なご時世に日本の、いや南西諸島の防衛の要である沖縄の、更には重要且つ有力な航空基地である普天間飛行場を移転により無力化する事は、取りも直さず「中国」に誤ったシグナル ── 「中国」による南西諸島への軍事侵攻を誘発する ── を送る事になり、それはある意味基地によって「守られている」沖縄の平和を損ねる結果にも繋がるのです。(虎視眈々(こしたんたん)と余所(よそ)の家を狙っている泥棒にして見れば、その家が契約していた警備を解約する事は、正に「どうぞ、泥棒に入って下さい」と言っているのも同然である) ですから、普天間飛行場を無くす等、正に愚(ぐ)の骨頂としか言いようがありません。だからと言って、騒音被害や航空機墜落の危険性、更には米兵による相次ぐ事件に目を瞑(つむ)れと言うのも酷な話です。ならば、従来の飛行場存続・移転とは異なる「第三の道」を探っていく事も考えていく可きです。それは、この様なものです。

  1. 普天間飛行場は移転する事無く現在地に存続する。
  2. 普天間飛行場から米軍は移転し、それに代わり航空自衛隊が常駐する。
  3. 普天間飛行場周辺住民の為に、全額国の予算により飛行場から離れた別の場所(例えば、宜野湾市に隣接する中頭郡西原町・中城村(なかぐすくそん)・北中城村等)を大規模造成し、地域毎(ごと)集団移転する。

普天間飛行場から基地機能と兵力を別の場所に移転後、飛行場跡地を更地にして宜野湾市(民有地は民間地権者)に返還するには莫大な予算が必要になります。ならば、どうせ莫大な予算が必要になるのですから、飛行場を残した上で住民を地域(コミュニティ)毎移転させても同じ事です。ましてや、住民の方が飛行場建設よりも後に住み着いたのですから、「歴史的経緯」から見ても極めて妥当でしょう。

天間飛行場の建設時期と市街地形成の歴史、航空機による騒音被害や墜落の危険性、「中国」による軍事的脅威、移転に伴う莫大な予算、と言った様々な要素を勘案した時、私は従来からの飛行場の移転云々よりも住民の集団移転を、国も県も、そして自治体や其処に暮らす住民もそろそろ選択肢として真剣に考える可きでは無いのか?と思うのですが、皆さんは如何感じられたでしょうか?(了)


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