Reconsideration of the History |
248.誰が「世界一危険な基地」を作ったのか? ── 「普天間基地問題」を斬る! (2012.7.18) |
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▲沖縄の米軍基地(出典:沖縄県基地対策課) |
▲平成22(2010)年撮影の普天間飛行場を取り囲む様に立地する各種施設(Google Map) |
沖国大米軍ヘリ墜落事件の現場(事故直後) 平成16(2004)年8月13日、普天間飛行場所属の大型輸送ヘリコプターCH-53D「シー・スタリオン」が訓練中、操縦不能に陥り、市内・沖縄国際大学1号館の北側に接触、墜落炎上した。この事故で搭乗員3名が負傷したが、当時、1号館内にいた大学職員20数名を含む民間人には一人の死傷者も出ず、更に近くの民家やガソリンスタンド・保育所等にヘリの部品が落下散乱したものの、これらの場所に於いても人的被害は出ず、正に不幸中の幸いであった。 |
大型輸送ヘリコプター CH-53D「シー・スタリオン」 沖縄国際大学に墜落したものと同型の合衆国海兵隊所属大型輸送ヘリコプター CH-53D「シー・スタリオン」。普天間飛行場に於いても運用されているが、現在、その後継として垂直離着陸輸送機 MV-22「オスプレイ」の配備が計画されている。 |
垂直離着陸輸送機 MV-22「オスプレイ」 左右にある可変式の大型回転翼(プロップ・ローター)と固定翼により垂直離着陸が可能な、ヘリコプターと固定翼機両方の特徴を併せ持つ航空機。現在、普天間飛行場への配備が計画されているが、度重なる事故により反対運動が起きている。 |
昭和20(1945)年撮影の普天間飛行場 大東亜戦争末期の昭和20(1945)年春、沖縄に上陸した米軍は宜野湾一帯を勢力下に置くと、中頭郡(なかがみぐん)宜野湾村(現・宜野湾市)に2400m級の滑走路を持つ飛行場を建設した。これが合衆国海兵隊普天間飛行場(U.S.Marine Corps Air Station Futenma)── 通称「普天間基地」である。因(ちな)みに、当時撮影された航空写真を見ると、飛行場周辺には緑が非常に多く、人家が殆(ほとん)ど見られない事が分かる。 |
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昭和52(1977)年撮影の普天間飛行場(上:北側/下:南側) 建設から30余年後の昭和52(1977)年撮影の航空写真を見ると、周辺に多くあった緑が消え、代わりに市街地が飛行場に迫る様に形成されている事が一目で分かる。「普天間問題」が語られる時、「市街地のど真ん中にある世界一危険な基地」との表現がよく為されるが、昭和20年、昭和52年撮影の二枚の写真を見比べれば、一体「誰」が世界一危険な基地と街にしたのかは考える迄も無い事だろう。 |
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平成17(2005)年撮影の普天間飛行場 更に30年余り経った平成17(2005)年撮影の航空写真に注目してみる。昭和52年撮影の写真に於けるA・B・C各地点にはまだ緑が残されていたのが、平成17年の同地点には宅地が造成されている。あれだけ「世界一危険な基地」を抱える街と言い乍(なが)ら、その事を百も承知の上で移り住んだ紛れも無い証拠である。一連の写真を繙(ひもと)く時、「普天間問題」の歪(いびつ)な真実が浮かび上がってくるのである。 |
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普天間飛行場の学校の創立年一覧表 | |||||||||||||||||||||||||||||||||
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建設当初、普天間飛行場の
周辺に住宅地等無かった!
そして、それは同時にこの様に言い換える事も出来るのです。曰(いわ)く、
普天間飛行場に密接する住宅街は、
飛行場建設後に形成された!
と。然し、これだけで驚いてはいけません。更に30年余り経った平成17(2005)年に撮影された航空写真を見てみると、先の写真ではまだ緑が残されていたA・B・Cの各地点に新興住宅地が造成されている事が分かります。時代は既に平成の御世(みよ)です。「普天間基地問題」が叫ばれて久しいにも関わらず、そして、普天間飛行場が周囲に過密な市街地が迫る「世界一危険な基地」として十二分に認知されているにも関わらず、それでも尚、基地に程近い場所に住宅を建てた市民が居(い)ると言う現実です。飛行場に離発着したり上空を飛ぶ航空機の騒音が酷いのは当然です。航空機墜落の危険が高い事も当然です。にも関わらず年々、住宅地が飛行場を取り巻く様にして、じわりじわりと近付く様に造成されている。詰まり、普天間飛行場周辺の市街地を「世界一危険な街」にしたのは米軍ではありません。
基地に隣り合う「世界一危険な街」を
作ったのは、普天間飛行場による
騒音被害や墜落の危険性を盾に
移転を声高に主張している
当事者の宜野湾市民自身
だと言う事なのです。然し、それでも「沖国大米軍ヘリ墜落事件」同様、児童生徒が通う学校に航空機が墜落したりしたら如何(どう)するのだ!と仰有(おっしゃ)る方も中にはおありでしょう。
冒頭でも述べた様に、普天間飛行場の周囲には幼稚園から小中学校、高校・大学と教育機関が軒を連ねています。其処(そこ)に航空機が墜落したりしたら・・・児童生徒に死傷者が出ない共限りません。それ故(ゆえ)に一日も早く普天間から飛行場を移転す可(べ)きだ、との意見は尤(もっと)もな事です。然し、諄(くど)い様ですが、「鶏が先か、卵が先か」ではありませんが、飛行場とそれらの施設とどちらが先に創立(建設)されたのかを検証すれば、その様な主張も傲慢でしか無い事が分かります。例えば、米軍ヘリが墜落炎上した沖国大一つ採っても、大学創設は昭和47(1972)年。その前身である琉球国際短期大学の創立に遡(さかのぼ)ってみても昭和34(1959)年。詰まり、沖国大はその前身の琉球国際大で見ても、普天間飛行場の建設から14年後に創立された事になります。そうすると、この様な疑問が頭を擡(もた)げてくるのです。
何故、態々(わざわざ)騒音被害や墜落の
危険性がある場所に建てたのか?
と。
何故、態々(わざわざ)騒音被害や墜落の危険性がある場所に建物を建てたのか? そして、住み着いたのか? その答えの一つは基地周辺の土地の市場価格が安かった事です。人間、誰しも我が家 ── 然(しか)も一軒家 ── を建てたいものです。其処(そこ)で思い悩むのが自分が建てたい(持ちたい)と考えている家と、現実問題として工面(用意)出来る資金との兼ね合いです。幾ら、思い描いた家を建てたいと思っても、資金が工面出来なければどうにもなりません。然(しか)もゼロから家を建てようとする場合(土地購入から始める場合)、同じ上物(家屋)を建てるにしても地価によって全体の金額に大きな差が生じてきます。結果、少しでも安く家を建てたいが為に、市場価格の安い土地が買われた。そして、建物が建てられた訳です。然し、それだけが基地に密接する「世界一危険な街」を作った原因ではありません。もう一つの要因、それは経済です。
普天間飛行場を抱える宜野湾市に限らず、在日米空軍横田基地(U.S. Forces Japan Yokota Air Base)が市域東側平坦部の約3分の1を占有している東京都福生(ふっさ)市や、米海軍第七艦隊や海上自衛隊自衛艦隊・横須賀地方隊が置かれている軍港都市の神奈川県横須賀市等、米軍基地・施設を抱える地方自治体にとって、米兵は犯罪等トラブルを起こす厄介者であると同時に、自分達から物を買ってくれる消費者として重要な位置を占めています。それが証拠に基地周辺には米軍人・軍属をターゲットに英語の看板を掲げ、米ドルでの支払が可能な店舗が数多く存在します。勿論、飲み屋等「夜の商売」にとっても米兵は恰好(かっこう)のお客さんとなっています。詰まり、米軍基地を抱える自治体にとっては、米兵の存在自体が地域経済に重要な位置を占めている訳で、結果、少しでも基地に近い場所に店舗を構える事になる ── だからこそ、基地に密接する様に商店街や歓楽街が形成された。そして、其処に働く人々も又、そう遠くない場所に住み着いた。これが基地に密接する形で市街地が形成された最たる理由である訳です。(彼等(かれら)にとって米軍基地が無くなってしまう事は、即ち自分達の商売が上がったり、いや廃業の危機に陥ってしまう極めて深刻な問題であり、簡単に「米軍出て行け!」とは言えない事情がある) 只(ただ)、これは米軍相手に商売している人達を視点に見た場合でしかありません。愛(いと)しい我が子を基地に密接する危険な場所に立地する学校に通わせたく等無い、そう思う親心も理解出来ます。然し、そう言った親心を妨げる様な事が普天間周辺で過去実際に起きていた、と言ったら皆さんは如何(どう)思われるでしょうか?
宜野湾市立普天間第二小学校 昭和44(1969)年設立の一件何の変哲も無い何処(どこ)にでもある様な小学校。然(しか)し、この小学校は幾度と無く「普天間基地問題」に於いて注目と脚光を浴びてきた。何故(なぜ)なら、この小学校はフェンスを挟(はさ)んで普天間飛行場と隣り合わせなのだから。 |
普天間第二小学校のグラウンド 普天間第二小学校のグラウンドを写した写真だが、子供達がサッカーをしている背後には米軍の航空機が飛んでいる。それもその筈。高く聳(そび)えるフェンスの向こう側は普天間飛行場なのだから。 |
普天間第二小学校の移転を阻んだもの、それは意外にも「市民運動」でした。小学校移転を実現の寸前迄進めたのも「市民運動」でしたが、皮肉にもそれを阻んだのも又「市民運動」だったのです。地域住民の声を受けた安次富市長の尽力により、普天間第二小学校の移転が現実のものとなった時、何とあろう事か市民団体の中から、
小学校の移転は基地の固定化に繋がる!
等と言った抗議が安次富市長と宜野湾市役所の下(もと)に殺到したと言います。この抗議に対し、安次富市長は
爆音公害から(小学校に通う児童を)少しでも遠ざけ危険性も除去したい
と説明したそうです。然し、移転に猛烈に反対する彼等は、
(我々の)命を張ってでも移転に反対する!
と強硬に主張、頑として曲げなかった為、移転計画は足踏み状態となり、更に悪い事に、昭和60(1985)年に行われた宜野湾市長選挙に於いて、保守系現職の安次富盛信氏が落選、左翼革新系新人の桃原正賢氏が当選した事で、移転計画は完全に頓挫したのです。(桃原市長の下(もと)で普天間飛行場移転(要求)が決定。移転される可(べ)きは小学校では無く飛行場と言う事で、普天間第二小学校の移転計画はご破算となった) 当時、安次富市長の下で移転計画を推進していた市の関係者の中には、
市民団体等は基地反対運動をする為に小学校を盾にし、児童を人質にした!
と言う人もいますが、正にその通りだったと言って差し支(つか)え無いでしょう。然し、普天間第二小学校を巡る移転話はこれでは終わりませんでした。
昭和63(1988)年から平成元(1989)年に掛けて、普天間第二小学校では校舎の老朽化により、児童が落ちてくるコンクリート片に当たって怪我する危険性が高まった事から、小学校に通う児童の父兄や地域住民の間から再び校舎の移転を求める声が上がりました。然し、この時も市民団体等が、
(学校は)移転せず、現在地の儘(まま)改築す可(べ)きだ!
と横槍を入れ、その結果、前回と同様に移転構想は頓挫したのです。この時の様子に付いて、当時、宜野湾市議会議員だった安次富修(あしとみ-おさむ)前衆院議員(自由民主党)は、
反対派は基地の危険性を訴えていたのだから、真っ先に移転を
考える可きだったが、基地と隣り合わせでも良いと言う事だった!
と述べ、別の市関係者も、
多くの市民は基地の危険性除去の為に真剣に基地移設を
訴えたが、基地反対派の一部には、米軍の存在意義や
県民の思いを無視し、普天間飛行場と子供達を反米の
イデオロギー闘争に利用している可能性も否定出来ない!
と述べています。正に何をか況(いわ)んやと言えるでしょう。詰まり、基地反対運動を展開している「市民団体」は、学校が普天間飛行場よりも後に出来た「歴史的事実」を伏せた儘、飛行場の移転を強硬に主張しているだけで無く、更には実際問題として基地と隣り合わせで騒音被害を蒙(こうむ)り、航空機墜落の危険性から児童を守る為、学校を飛行場から離れた場所に移転しようと言う地元の声にすらも耳を傾けず、それを推進しようと言う計画が持ち上がれば、これを断固阻止、潰(つぶ)すと言う、極めて典型的且つ古典的な反米左翼的行動スタイルを採っているのです。
自民党政権時代の平成8(1996)年4月12日、橋本龍太郎総理(故人)とウォルター=モンデール駐日米国大使との間に『普天間飛行場の移設条件付返還』
沖縄復帰40周年記念式典に出席した鳩山由紀夫元総理 平成24(2012)年5月15日、沖縄復帰40周年記念式典出席後、宜野湾市で講演した鳩山元総理。政権交代前後、「普天間基地問題」に於いて「最低でも県外(移設)」と発言していたにも関わらず後に変心した事に対し、「思いが先に立ち過ぎた」として謝罪したが、内閣総理大臣と言う一国の政治指導者の立場に於いて、自らの発言で橋本内閣当時、漸(ようや)く取り纏(まと)めた日米合意を反故(ほご)にし、剰(あまつさ)え「普天間基地問題」をより複雑なものにしてしまった所行は、正に万死(ばんし)に値(あたい)する。その意味では、彼は「普天間基地問題」に関する「A級戦犯」と言っても過言では無い。 |
普天間飛行場から基地機能と兵力を別の場所に移転後、飛行場跡地を更地にして宜野湾市(民有地は民間地権者)に返還するには莫大な予算が必要になります。ならば、どうせ莫大な予算が必要になるのですから、飛行場を残した上で住民を地域(コミュニティ)毎移転させても同じ事です。ましてや、住民の方が飛行場建設よりも後に住み着いたのですから、「歴史的経緯」から見ても極めて妥当でしょう。
普天間飛行場の建設時期と市街地形成の歴史、航空機による騒音被害や墜落の危険性、「中国」による軍事的脅威、移転に伴う莫大な予算、と言った様々な要素を勘案した時、私は従来からの飛行場の移転云々よりも住民の集団移転を、国も県も、そして自治体や其処に暮らす住民もそろそろ選択肢として真剣に考える可きでは無いのか?と思うのですが、皆さんは如何感じられたでしょうか?(了)