Reconsideration of the History
235.未曾有の大震災から日本が立ち直る為にも「震災復興院」を設置せよ! (2011.4.8)

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震災被災者及び国民に向けビデオを通じ御言葉を述べられた天皇陛下
平成23年3月11日の東日本大震災から5日後の3月16日午後4時過ぎ、NHKの地上波等を通じ、天皇陛下が異例のビデオメッセージを発表なされた。「1人でも多くの人の無事が確認される事を願っています。又、現在、原子力発電所の状況が予断を許さぬものである事を深く案じ、関係者の尽力により事態の更なる悪化が回避される事を切に願っています」 この御言葉は、誰に強制される事無く陛下御自身の希望で発表された。其処には国民を思い、共に一丸となって、この未曾有の国難に立ち向かっていこうと言う断固たる決意が感じられ、66年前の昭和20(1945)8月15日、先帝陛下(昭和天皇)がラジオを通じて国民に呼びかけた『終戦の詔勅』を想起させる。その点では、今回、天皇陛下の御言葉は「第二の玉音放送」と言っても過言では無い。
成23(2011)年3月11日午後2時46分 ── 太平洋三陸沖を震源とするマグニチュード9.0と言う日本国内観測史上最大級の地震が東北から関東に掛けての東日本全域を襲いました。地震発生時、私は静岡県富士市に居ましたが、私の体調がおかしいのか、急に目眩(めまい)と言うか立ち眩(くら)みと言うか、得も言われぬ感覚に襲われ、それが地震の揺れである事に暫(しば)しの間気付きませんでした。それは、今迄(まで)私が味わった事の長い超長周期の緩やかな横揺れで数分間も続きました。この唯(ただ)ならぬ揺れに胸騒ぎを覚え、携帯電話のワンセグテレビを付けてみると、其処(そこ)に映っていたのは緊迫した面持ちで、宮城県内で震度7(栗原市)、仙台で震度6強(宮城野区)、東京都心でも震度5強と東日本の広範囲で大きな揺れを観測した事を告げるアナウンサーの姿でした。そして、その後、昨年(2010)年公開された米国映画『2012』の一場面を想起させる様な巨大な津波が三陸沿岸各地を襲い、まるで家屋がペーパークラフトの如く、いとも簡単に倒壊し、車の塊がミニカーの様に濁流に押し流されていくライブ映像を見せられ、正直、目の前に繰り広げられている光景が現実なのか?と、とても信じられない面持ちでした。然(しか)し、それは夢でも幻でもありませんでした。巨大地震と想像を遙かに超える高さと勢いで押し寄せた大津波により、東北太平洋岸の諸都市は壊滅。4月8日午後8時現在、死者・行方不明者は合わせて2万7,778人を数えています。

未曾有の被害を被った岩手県陸前高田市
岩手県南東部の太平洋岸、広田湾に面した陸前高田市は、日本百景にも数えられる白砂青松の浜、高田松原でも知られる景勝地だったが、平成23年3月11日の大地震と大津波により海辺の街は壊滅。美しかった高田松原も見る影も無い。それは、震災の前後に撮影された上空写真からでも一目瞭然だ。(上は平成21(2009)年3月18日、下は今年3月14日に夫々(それぞれ)、宇宙航空研究開発機構(JAXA)の陸域観測技術衛星(ALOS)「だいち」により撮影されたもの:社団法人東北建設協会「東日本大震災(東北地方太平洋沖地震)特設サイト」より)

日本国内史上最悪の事故を起こした東京電力福島第一原発
日本国内史上最悪の事故を起こした東京電力福島第一原発
地震発生の翌3月12日、1号炉の建屋が爆発したのを皮切りに、14日には3号炉、15日には4号炉の建屋も相次いで爆発。鉄骨剥き出しの見るも無惨な姿を晒(さら)し、大気中に放射能を放出し続けている福島第一原発。然し、放射能被害は大気中に留まらず、施設内の水も高濃度の放射能に汚染され、決定的な解決策を見出せない東電と政府は放射能を含む水を海へと放出。急場凌ぎの場当たり的対処に終始している。
に、福島県大熊町と双葉町に跨(またが)る東京電力福島第一原子力発電所に於いても、地震に伴い運転を緊急停止したものの、その後の津波被害により内部電源はおろか外部の非常用発電機も作動せず、原子炉の冷却機能が完全に喪失。炉心(燃料棒)が冷却水から露出した事で炉心溶融(メルトダウン)の可能性も指摘される等、その被害は日本の原子力開発史上、最大最悪の事故となり、その深刻度は、昭和54(1979)年3月28日に発生した米国ペンシルベニア州のスリーマイル島原発事故(国際原子力事象評価尺度レベル5)を上回り、昭和61(1986)年4月26日に発生した旧ソ連(現ウクライナ)のチェルノブイリ原発事故(同レベル7)に次ぐ大事故(同レベル6相当)共指摘され、放射能の影響は遠く離れた首都圏に迄及んでいます。この様な未曾有の震災に対し、民主党政権が的確且つ迅速な対応をしてきたかと言うと、初動こそ、平成7(1995)年1月17日早暁に発生した阪神・淡路大震災当時の村山政権よりはマシでしたが、その後の対応を見ると、どうにもこうにも苛立(いらだ)ちを覚えるのは、果たして私一人でしょうか? そこで今回は、災害のプロでも何でも無い私なりに思う事、そして、考えた事を熟々(つらつら)と書いてみたいと思います。

回の震災の特徴は、地震による家屋倒壊よりも、寧(むし)ろ地震の副産物である津波が被害を拡大した事に尽きます。何しろ、太平洋プレート(岩板)と東北地方が乗る北米プレートの境界に位置する日本海溝のほぼ全域が同時に壊れ、アメリカ地質調査所(USGS)が「日本列島の位置が約2.4m移動した」と発表した程、強大なパワーが働いた地震だった事もさる事乍(なが)ら、震源が牡鹿半島の東南東約130km付近の三陸沖深さ約24kmと比較的近かった事も災いし、岩手県宮古市田老地区で最大37.9mを記録したのを初めとして、沿岸各地を想像を遙かに超える規模の大津波が襲い、地震では怪我一つ負わなかった多くの人々の命を奪いました。チリ地震やスマトラ沖地震でも大津波が多くの人々の命を奪った訳ですが、今回、まさか、この日本 ── 東北地方をこれ程の大津波が襲い、甚大な被害をもたらすとは一体誰が想像し得たでしょうか? 自治体の首長や役場を奪われ、行政が完全に麻痺してしまった所も一つや二つではありません。ましてや、地震・津波に加え、原発事故・計画停電が重なった事で、東日本の機能が不全に陥っている現状で、民主党政権が掲げてきた「地域主権」 ── 地方の事は地方の手で ── と言う御題目が如何に空虚に聞こえた事か。この様な国難共言える未曾有の事態にある今こそ、国が音頭を取って対処せねばならないですし、一国の「政(まつりごと)」を預かる総理自身が陣頭指揮に辣腕を振るわねばならないものと考えますし(但し、決して現地視察をしろと言う意味では無い。寧ろ、その逆で、「将」たる者、一所(ひととこ)にデンと腰を据えて、部下から上がってくる報告や情報を分析、的確に差配す可きと言う意味である)、更に言えば、その司令塔共言える機関の設置が一日も早く求められているのでは無いでしょうか? そして、その司令塔を私は、

震災復興院

と呼びたいと思っています。

災復興院 ── これは、その字の如く東日本大震災から一日も早く復興し、日本が再び不死鳥の如く復活する為の司令塔です。因(ちな)みに、民主党政権も「復興庁」の名で臨時機関の設置を模索していますが、何処(どこ)ぞの「省」にぶら下がる形の「庁」では権限も限られ、本領を発揮する事等到底見込めません。寧ろ「省」と同等、いや省庁の「役割」(縄張り)と言う垣根を取り払い、省庁横断型の独立機関としての性格を有する「院」と名付け、国の総力を以て一日も早い復興を期する一種「意気込み」を込める意味からも、「震災復興院」と命名する事が最も相応(ふさわ)しい。その様に私は思うのです。

関東大震災直後の帝都東京
関東大震災直後の帝都東京
大正12(1923)年9月1日発生の関東地震(関東大震災)は、地震による被害もさる事乍(なが)ら、地震発生が丁度、昼飯時に重なった事もあって各地で火災が頻発。耐火性で劣る木造家屋が密集していた東京を初めとする大都市は、大規模火災による二次被害が追い打ちを掛け、見渡す限りの焼け野原を出現させた。
(さて)、いざ「震災復興院」を設置した所で「画(え)に描(か)いた餅」では何にもなりません。然(しか)し、日本は過去の歴史に於いて、二度、「復興院」の名を冠した臨時機関を設置、その都度、未曾有の国難を乗り越えて来ました。第一の復興院は「帝都復興院」と言い、大正12(1923)年9月1日午前11時58分32秒、相模湾北西沖80kmを震源とするマグニチュード7.9の大地震が、東京・神奈川・千葉・埼玉・茨城・静岡・山梨の一都六県を襲い、死者・行方不明者14万2,800人、負傷者10万3,733人、避難者数190万人以上の人的被害と夥(おびただ)しい数の家屋を倒壊・焼失せしめ、東京・横浜と言った大都市を一面の焼け野原にした関東大震災の際に設置されました。総裁(内務大臣兼任)には、台湾総督府民政長官、南満州鉄道株式会社(満鉄)初代総裁、東京市長(現在の東京都知事に相当)等を歴任し、その手腕が高く評価されていた後藤新平が就任。江戸時代以来の狭い街路区画等、当時の東京が抱えていた様々な都市問題を、震災により全てが灰燼に帰した今こそ好機と、当時の日本の年間国家予算にも匹敵する13億円(日本銀行調査統計局出所の企業物価戦前基準指数を基に計算。664.6(平成21年)÷1.266(大正12年)=524.961倍。詰まり、大正12年当時の1円は現在の凡そ525円に相当。これを基に現在の金額に換算すると約6,825億円)もの巨費を投じる大胆な震災復興計画を立案しました。結果的には各方面からの反対により、復興予算が5億7,500万円(同約3,018億7,500万円)に迄圧縮、計画も縮小を余儀無くされ、現在に迄引き摺る東京の都市問題を残す事となりました。とは言うものの、復興事業は粛々と進められ、大震災から7年後、昭和5(1930)年3月26日挙行の帝都復興祭を以て、一応の復興を見ています。

米軍による大空襲で灰燼に帰した帝都東京
米軍による大空襲で灰燼に帰した帝都東京
昭和20(1945)年3月10日午前0時7分に開始された米軍のB-29戦略爆撃機による最大規模の東京空爆 ── 所謂(いわゆる)「東京大空襲」では、木造家屋が密集する下町地区を中心に、対日専用兵器である「焼夷弾」が通常の倍以上も投下され、金属と石造建築物以外のありとあらゆる物を焼き尽くした。
二の復興院は「戦災復興院」と言い、大東亜戦争(米国を初めとする連合国言う所の「太平洋戦争」)による米軍の空襲(空爆)により、一面の焼け野原と化した本土の復興を担う目的で、昭和20(1945)年11月5日、幣原喜重郎内閣の下、小林一三国務大臣を総裁として「省」と同格の臨時機関として設置されたものです。これは、昭和23(1948)年1月1日、内務省(前日である昭和22年12月31日に廃止)国土局を統合する形で「建設院」 ── 後の建設省(現在の国土交通省)と形を変えつつも、日本全国の戦災都市復興計画の策定と推進に主導的役割を果たし、敗戦国である日本が急速な復興を遂げ、その後の高度経済成長により再び列強 ── 先進国 ── に名を連ねる迄になった事は、皆さんも歴史の授業で学ばれた通りです。と、此処(ここ)迄は司令塔共言える復興院を再び設置す可(べ)しと言う話でしたが、此処からは若干具体的な提言をしたいと思います。

大津浪記念碑
大津浪記念碑
岩手県宮古市は重茂(おもえ)半島の姉吉地区に建つ「大津浪記念碑」なる一つの石碑。明治29年の明治三陸地震と昭和8年の昭和三陸地震の二度に亘って大津波の被害に見舞われた同地区では、津波が到達した海抜40mよりも更に20m高い地点に石碑を建立し、以後、住民達は石碑よりも低い土地に家屋を建てる事は無かった。今回、過去二度の津波を超える大津波が押し寄せた同地区であったが、戒めが守られた結果、津波は石碑の50m手前で止まり、石碑よりも高い場所に避難した住民は全員無事だったと言う。
北海道幌延町のオトンルイ風力発電所
北海道幌延町のオトンルイ風力発電所
北海道幌延(ほろのべ)町にある幌延風力発電株式会社のオトンルイ風力発電所。高さ74mの支柱に直径50.5mの巨大な三枚羽が取り付けられた風力発電機は、1基当たりの最大出力が750kW。その風力発電機が海沿い約3.1kmに28基並び、総出力は2万1千kW。周囲に人家のある場所には建設が難しい風力発電所も、今回、津波により甚大な被害を被った海沿い地域の住民を、地域全体 ── 自治会毎集団移転させた上で、用地として活用させれば、今後、津波が押し寄せたとしても、人的被害は最小限に留める事が出来る。然も、風力発電所ならば、例え破壊されたとしても原発とは異なり、周辺地域への影響も少なく再建も比較的容易だ。
山梨県北杜市の大規模太陽光発電実証研究システム
山梨県北杜市の大規模太陽光発電実証研究システム
日照時間日本一と言われる山梨県北杜市に、新エネルギー・産業技術総合開発機構(NEDO)・山梨県北杜市・NTTファシリティーズにより建設されたのが、最大発電能力2MWを誇る日本初の本格的太陽光発電システムだ。この様な太陽光発電設備を比較的内陸にあり乍ら、津波の被害を受けた市街地や、津波による塩害で耕作が困難となった農地に建設すると言うのも、一つの方策だ。
山梨県都留市の家中川水力市民発電所
山梨県都留市の家中川水力市民発電所
山梨県都留(つる)市では市内を流れる家中(かちゅう)川に「元気くん1号・2号」と名付けられた水車を設置し、小規模水力発電を行っている。出力は最大20kWだが、川の流れを利用しているので、水が涸(か)れない限り永続的に発電出来る。数百kmも遠くから送電する事で電力の送電ロスを生じる原発等よりも、この様な小規模水力発電設備を各地に整備し、送電ロスが殆(ほとん)ど起こらない電力の「地産地消」を推進する事も今後の電力行政として必要なのでは無いだろうか?
回の震災に於いて被害をより一層大きくしたのは、他でも無い津波でした。ちょっとやそっとの津波等もの共しない立派な防潮堤が斯(か)くも脆(もろ)く破壊され、自動車並の速度で市街地深く雪崩(なだ)れ込んだ津波が人も建物も飲み込み、更に引き潮で沖へと運び去っていき、その後には瓦礫(がれき)の山、更には自動車から漏れたガソリン等に引火、黒い煙を上げ乍ら火災が最後の総仕上げと言わんばかりに街を嘗(な)めていきました。然し、今回、想像を絶する大津波から辛くも難を逃れ、避難した住民全員が無事だった町もありました。その一つが、岩手県宮古市は重茂(おもえ)半島の姉吉地区です。この地区には、或る一つの石碑が建てられています。その名を「大津浪(おおつなみ)記念碑」と言います。これは、明治29(1896)年の明治三陸地震と昭和8(1933)年の昭和三陸地震の二度に亘(わた)って大津波の被害に見舞われた同地区の、津波が到達した海抜40mよりも更に20m高い地点に建立されたもので、表面には、

「高き住居(すまい)は児孫(こまご)に和楽(わらく)、想へ(おもえ)惨禍(さんか)の大津浪(おおつなみ)、此処(ここ)より下に家を建てるな。明治二十九年にも、昭和八年にも津波は此処まで来て部落は全滅し、生存者、僅(わず)かに前に二人後ろに四人のみ 幾歳(いくとせ)(へ)るとも要心あれ。」

と刻まれており、これ以後、住民達は石碑よりも低い土地には決して家屋を建て無かったと言います。そして、今回、過去二度の津波を超える大津波が押し寄せたものの、津波は石碑の50m手前で止まり、石碑よりも高い場所に避難した住民は全員無事だったと言います。この逸話から言える事。それは、今回津波の被害を被った地域が、過去に何度も津波の被害を被り、これから先の未来に於いても、再び津波の被害を被るであろうと言う事です。詰まり、幾ら被災地の瓦礫を片付け、区画整理と再開発を行ったとしても、又何時(いつ)か同じような津波被害を受ける可能性が極めて大きいと言う事なのです。其処で私が提案したいのは、「大津浪記念碑」の戒めを守る様に、思い切って今回、津波の被害が甚大だった地区の住居を再建したり、町を復興したりしないと言うものです。では、其処で暮らしていた人々は何処へ行けば良いと言うのか? それは、例えば、市内なら市内のより海抜の高い場所を造成、「地区毎そっくり」移転するでも良し、バブルの頃に企業を誘致しようと造成・区画整備したものの、その後、入居企業が無く、ぺんぺん草が生えている工業団地でも良し、兎(と)に角、ニュータウンを開発し、其処に被災住民を移住させると言うものです。(漁業関係者からは海辺から離れられないと反論が出るかも知れない。然し、高台の自宅から漁船が停泊する海辺へは自動車で「通勤」すれば済む事である) そして、津波の被害を被った海沿いの低地には、例えば多くのプロペラが回る風力発電所や太陽光発電施設を設置すると言うのは如何(どう)でしょう? 此等(これら)の設備が津波の被害を被った所で再建すれば済む話ですし、何よりも津波による人的被害を極端に減らす ── 場合によっては死傷者も行方不明者もゼロ ── 効果も見込めます。

ヤシマ作戦概要
ヤシマ作戦概要
「ヤシマ作戦」とは、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』に於いて、第5使徒ラミエル(新劇場版では第6使徒)殲滅の為、自走陽電子砲による超長距離射撃を行うに付き膨大な電力が必要となり、それを賄(まかな)う為、日本全国で一斉停電を実施、電力を徴用した作戦だが、今回の大震災による電力不足に際し、この作戦名を冠した節電運動がネットを通じて全国規模で行われている。一人々々の力は微々たるものであっても、多くの人々が参加する事で消費電力を減らす事が可能であり、何より、余りにも電気に頼りすぎてきた日本国民の意識改革を促す意味からも有効な運動と言えるだろう。(リアル版「ヤシマ作戦」に付いては、こちらをご覧頂きたい)
後に、原発事故で、其の安全性が世界規模で問われている原子力発電に付いて。「原発は発電の際に温室効果ガスである二酸化炭素(CO2)を排出しない」と言う触れ込みで、恰(あたか)も「脱石油」だとか「クリーンエネルギー」だとか持て囃(はや)されて来ましたが、正直言って、あれはとんだ嘘です。例えば、燃料となるウランやプルトニウムを海外から輸入(この中には、海外で再処理されたプルサーマル燃料も含まれる)するには、船で運ぶ必要がありますが、その船を動かしているのは石油です。又、運転開始から一度も事故を起こさず無事耐用年数を迎えた原発1機を廃止するにしても、先(ま)ず解体費用に約300億円。解体に伴い生じる廃棄物の処分費用に約400億円。施設撤去迄の維持費用に数百億円。運転中に生じた低レベル放射性廃棄物の処分費用に約140億円。しめてざっと1千数百億円もの莫大な費用が必要となります。(某原子力施設に対する試算) 然も、解体作業等に用いる重機を動かしているのも、運搬に用いるトラックを動かしているのも、現時点では全て石油です。詰まり、原発と言うものは「脱石油」と言い乍ら、建設にも運転(燃料輸送)にも解体にも石油は不可欠であり、挙げ句の果てに他の発電では生じない極めて危険で厄介な放射性廃棄物と言う「お釣り」迄付いて来る訳で、正直「夢のエネルギー」でも何でもありません。然も、二酸化炭素の排出が地球温暖化の主要因である事にお墨付きを与えてきた「気候変動に関する政府間パネル」(ICPP)のデータが改竄され続けて来た事が白日の下に晒(さら)され、最早(もはや)「二酸化炭素=地球温暖化」と言う図式が成り立たなくなってしまった以上、二酸化炭素の排出削減とセットである原発推進の根拠自体が崩壊したと言っても過言ではありません。(地球温暖化の本当の要因は太陽活動の活発化である。これは例えれば、自分(地球)と電熱ヒーター(太陽)との距離を変えずに出力ワット数を変える様なもので、電熱ヒーターの出力ワット数を下げ無い限り、自分がどんな努力をしても熱さを緩和する事が出来ないのと同じである) であるならば、従来からの火力や水力(近年脚光を浴びている小規模水力発電等)、そして、前述の風力や太陽光による発電等、原発以外の方法による発電所を増設したり、この際、東日本(50Hz)と西日本(60Hz)で異なる電気の周波数の統一を図ったり、店舗の大型電光掲示広告や五月蠅(うるさ)いだけの必要以上のBGMに対し規制を掛けたり、我々国民も国民で巷間でブームとなっている「ヤシマ作戦」(節電運動)のより一層の徹底を図ったり、とまだまだ出来る事は幾らでもある筈です。

地球の夜間衛星写真
写真は東日本大震災発生前に撮影されたものだが、日本列島に注目して頂きたい。夜間でも国土全体が光っているのは世界でもほんの一握りであり、その一国が実は日本なのである。これは裏を返せば、日本が如何に大量の電力を消費しているかの証左でもある。

原慎太郎・東京都知事は今回の震災に関して、

「アメリカのアイデンティティーは自由。フランスは自由と博愛と平等。日本はそんなものは無い。我欲だよ。物欲、金銭欲。我欲に縛られて政治もポピュリズム(衆愚政治)でやっている。この津波を上手(うま)く利用して我欲を1回洗い落とす必要がある。やっぱり天罰だと思う」

と述べ、世間から批判、非難を浴びました。まあ、言い過ぎだった点もあったと思います。然し、「天罰」発言以外の部分は、率直に当を得ていると私も思います。今回の大震災が「天罰」だったとは思いませんが、起きてしまった事は仕方の無い事です。ならば、犠牲に合われた方々の分迄、我々生ある者が心をしっかり持ち、十年掛かろうが、二十年掛かろうが、五十年掛かろうが、百年掛かろうが、必ずや復興し、日本が再び不死鳥の如く復活する姿を世界に見せようではありませんか。そして、どうせ復興するのなら、後藤新平よろしく、この機会に、この国 ── 日本 ── に大胆にメスを入れ、震災前よりも強い国にしていこうではありませんか。それが、残された我々にとっての責任であり、亡くなられた方々に対する最大の供養では無いのか? そう私は思うのです。(了)


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