Reconsideration of the History
132.「中国」と「中国」 ── 混乱を呼ぶ二つの「中国」表記 (2004.1.7)

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て、支那が日本に対し、

「『支那』の呼称は中国を侮蔑している!! だから、日本は『中国』と呼びなさい!!」

と主張している事に対して、その矛盾を指摘し、反論を書いた訳ですが、これとは別に、日本が支那を「中国」と呼ぶ事によって生じる混乱や弊害についても指摘しておかなくてはなりません。そして、この事は、現在、日本が国際社会に置かれているある状況にも影響を及ぼす事と言っても過言ではありません。と言う訳で、今回は、日本が「中国」の呼称を使う事によって生じる混乱や弊害、更には、そこから波及する別の問題について書いてみたいと思います。

ず、最初に皆さんへの質問ですが、皆さんは「中国」と言った場合、何処を連想するでしょうか? いきなり唐突な質問で狐に抓(つま)まれた思いの方もおありの事かとは思いますが、何故、この様な質問を書いたのかと言うと、一口に「中国」とは言っても、日本で「中国」と言う場合、「二つの中国」が存在するからなのです。

「それは、ひょっとして中国(大陸)と台湾の事なのか?」

と言う声も聞こえてきそうですが、いえいえ、そんな政治的な問題ではありません。もっと身近な「中国」なのです。では、私が指摘した「二つの中国」とは一体何なのか? それは、支那を指して呼ぶ場合の「中国」と、元来、山陽道の特称で、現在は山陽・山陰両道の岡山・広島・山口・島根・鳥取五県の総称として使われている「中国」(地方)の事なのです。

々日本人が、支那の事を「中国」と呼ぶ、いや、呼ばされる様になったのは、戦後の事です。縦(よ)しんば、多少時間を遡(さかのぼ)ったとしても、「中華民国」成立(1912年)後の事です。それ迄、日本では支那の事を、「漢国」・「唐国」(共に「からくに」)・「唐土」(もろこし)・「明国」(みんこく)・「清国」(しんこく)と言った具合に、歴代王朝の名称、あるいはそこから派生した名称で呼んできました。現に、江戸時代の日本では、支那が清の時代であるにも関わらず、支那人の事を「唐人」(とうじん)と呼んでいました。つまり、昔から日本では「中国」・「中国人」等と言う呼び方は一般には無かった訳です。そして、日本国内で「中国」と言う場合、それは、取りも直さず、山陽・山陰両道の事であり、それ以外の地域を指して使う事は決して無かったのです。そして、重要なのは、日本での「中国」(地方)と言う呼称が、支那に「中華民国」が成立し、日本に対して、「中国と呼ぶ様に!!」 と主張してくる様になった遙か以前から使われてきたと言う歴史的事実です。

えば、こう考えてみて下さい。ある国が国名を「ニッポン民国」と改め、日本に対して、今日から我が国の事を「ニッポン」と呼ぶ様に!! と要求してきたとして、日本がそれに素直に応じるでしょうか? 昔から自国の事を「日本」(ニッポン)と称してきた我国が、勝手に自国名と同じ「ニッポン」を名乗りだした国の事を、「ニッポン」と呼ぶでしょうか? 当然、反発し、相手国に対して自国名と同じ「ニッポン」を国名に使う事に抗議し、国名の変更を要求する事でしょう。こう言った事例は、20世紀末に実際起きています。それが、ギリシアと旧ユーゴスラヴィア連邦から独立した「マケドニア」共和国との間に起きた国名と国旗を巡った争いです。

「マケドニア」と言うのは、元来、ギリシア北部の一地方名で、後に彼の有名なアレクサンドロス3世(一般には、「アレキサンダー大王」の名で知られる)を輩出、ギリシア全土が「マケドニア王国」として統一されたと言う歴史があります。つまり、ギリシアにとって「マケドニア」とは、日本にとっての「中国」(地方)、「日本」(国名)と同じ様なものなのです。その「マケドニア」の名を、1991(平成3)年9月、ユーゴスラヴィア連邦から分離独立した新興国が名乗ったのです。しかも、国旗には、アレクサンドロス3世時代に用いられていた王家の紋章「ベルギナの星」と呼ばれる五芒星(ごぼうせい)があしらわれていました。これに対しギリシアは、

「マケドニア」の名はギリシア北部の一地方名であり、「マケドニア」共和国に住む「マケドニア」人はブルガリア人と同系民族(非ギリシア人)である。その非ギリシア人が「マケドニア」を名乗り、あろう事か、由緒ある紋章「ベルギナの星」を国旗に使う等と言う事は絶対に許されない!!

と猛然と反発、国名と国旗の変更を執拗に要求しました。その後、この国名・国旗問題は尾を引き、1993(平成5)年、「マケドニア」共和国は、国連加盟に際して「旧ユーゴスラヴィア・マケドニア共和国」の暫定国名でしか許されず、翌1994(平成6)年2月には、ギリシアから経済制裁を発動されました。この問題は結局、1995(平成7)年、国連による調停により、「ベルギナの星」があしらわれた国旗を「マケドニア」共和国が改める事で一応の決着が図られたのです。話が脱線しましたが、「マケドニア」共和国に対するギリシアの対応は、ある意味、至極当然の事であって、その当然の主張さえ出来ず、相手の言うが儘(まま)に「中国」の呼称を受け入れてしまっているのが、日本なのです。何ともお粗末としか言い様がありません。

て、この様に、支那の「中国」と、日本の「中国」について書いた訳ですが、「中国」の呼称を巡っての歴史的経緯だけでなく、その併用によって生じる様々な混乱や弊害についても、指摘しておかなくてはなりません。例えば、大阪・下関間の街道・高速道路を「中国街道」・「中国自動車道」、中国(地方)を東西に走る脊梁(せきりょう)山地を「中国山地」、中国(地方)に伝わる民謡子守歌を「中国の子守歌」(現在は「中国地方の子守歌」と呼ばれている)と呼んでいます。これらは、何(いず)れも日本国内の「中国」(地方)にあるので、そう呼ばれている訳で、支那を指す「中国」にある訳では決してありません。又、岡山市に本店を置く「中国銀行」も、わざわざ「本店:岡山市」と表記して、「中国」(地方)にある事を強調しています。なぜ、わざわざ「中国銀行」が「本店:岡山市」と表記するのかと言えば、支那を指す「中国」の銀行では無く、れっきとした邦銀である事を世間に周知したいが為であり、これ一つ取っても、実社会で、支那の「中国」と日本の「中国」(地方)の混在による混乱や弊害が大きい事が窺えます。(余談だが、以前、「中国銀行」は、支那から行名を変更する様、圧力を掛けられた)

に言えば、例えば、我々が「何処(どこ)の出身ですか?」と相手に質問された際、「関東出身」・「東北出身」等と答えますが、「中国」(地方)出身者が「中国出身」と答えた場合、「福建省から来たのか?」等と言われかねず、わざわざ「中国地方出身」あるいは「○○県出身」と答えねばならない不自由を強いられている現実があります。前述の「中国銀行」同様、ご当地に住む住民にとって、「二つの中国」呼称の混在と言うのは、甚だ迷惑な話なのです。

後に、日本が「中国」の呼称を使う事から波及する別の問題について書いて締め括りたいと思います。その別の問題と言うのは、現在、韓国がIHO(国際水路機関)に圧力を掛けている「東海」問題です。(詳細は、『126.国際表記を「日本海」から「東海」へ ── 日本海を巡る韓国側主張の矛盾』を参照の事) 具体的には、国際社会から認知され通用してきた「日本海」の表記を、「東海」(トンヘ)に変更する様、韓国がIHOに対して圧力を掛けている問題なのですが・・・もしも、日本が韓国によるIHOへの圧力に対する具体的且つ有効な対応を取れなかったとなれば、今後、国際標記である「日本海」が「東海」に変更される可能性もあるのです。もしも、その様な事が現実のものとなれば、「中国」(地方)だけで無く、静岡・愛知・三重三県と岐阜県南部(旧・美濃国)の総称である「東海」(地方)と「日本海」改め「東海」が混在する事にもなりかねず、更なる混乱や弊害を生む事は必至です。

「何も、相手国(支那であり韓国)との間にいらぬ外交摩擦を生む事も無いだろう・・・」

と言った安易な妥協が、現在の「中国」(地方)の混乱を招いた訳で、「東海」(地方)の混乱を招こうとしているのです。そう言った観点からも、日本は支那に対して、「中国」では無く、あくまでも「支那」の呼称を使うべきとは言えないでしょうか。


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