Reconsideration of the History
204.「源平合戦」とは何だったのか? ── 鎌倉幕府を乗っ取った平氏政権 (2009.2.21)

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国宝・伝源頼朝公像(京都市 神護寺所蔵)
 
国宝・伝源頼朝公像(京都市 神護寺所蔵)
但し、肖像画の本当のモデルは足利直義
「イイクニ(1192年)作ろう鎌倉幕府!!」 ── 昭和42(1967)年生まれの私が学校で教わった日本史では、鎌倉幕府設立の年次(1192年は源頼朝が征夷大将軍に任ぜられた年)をこう暗記させられたものです。然(しか)し、今では源頼朝(みなもとのよりとも)が侍所(さむらいどころ)を設置した治承4(1180)年、朝廷より頼朝の東国支配権を認める「寿永宣旨(じゅえいのせんじ)」が下された寿永2(1183)年、源氏方が一ノ谷の合戦(かっせん)で平家方を破り、頼朝が公文所(くもんじょ;後の政所)・問注所(もんちゅうじょ)を設置した元暦元(1184)年、源氏方が壇ノ浦に於いて平家を滅ぼし、源頼朝に守護地頭の任命権を認める「文治勅許(ぶんじのちょっきょ)」が下された文治元(1185)年、頼朝が右近衛大将(うこんえのだいしょう)に補(ぶ)せられ、日本国総守護地頭に任ぜられた建久元(1190)年、と諸説様々。抑(そもそ)も、「鎌倉幕府」と言う名称自体、後世の人間が名付けた訳で、当の頼朝自身が「幕府を開いた」と認識していたかどうかすら甚(はなは)だ疑わしいものがあります。(頼朝自身は武家社会の独立性=朝廷による武家社会への介入の排除は考えていたであろうが、朝廷をも含めた日本国全体の国家統治迄は果たして意識していたであろうか?) まあ、以上の事を差し引いても、「源氏が平家を滅ぼして鎌倉時代が始まった」と言うのが、我々の一般認識である事には変わりないでしょう。然(しか)し、果たして本当にそうなのでしょうか? 「源平合戦」が実は「平平合戦」で、鎌倉幕府が源氏政権(頼朝・頼家・実朝と三代に亘(わた)って源氏が将軍を輩出した政権と言う意味で)では無く平氏政権だったと言ったら、皆さんはどう思われるでしょうか? と言う訳で、今回は鎌倉幕府を別の視点から眺めてみたいと思います。

重文・平清盛公座像(宮島歴史民俗資料館蔵)
 
重文・平清盛公座像(宮島歴史民俗資料館蔵)
倉幕府は実は平氏政権だった!? この事を語る前に、先(ま)ずは、源氏に滅ぼされた「平家」の話から始めたいと思います。皆さんは平安末期、武門の棟梁(トップ)の座を巡って死闘が繰り広げられた所謂(いわゆる)源平合戦に於いて、「源氏と平家」と言う呼び方がされる事に何となく違和感を抱かれませんか? 源氏の方は「源家」では無く「源氏」なのに、何故(なぜ)、平家の方は「平氏」では無く「平家」なのか?と。此処(ここ)が第一のポイントです。平家も元々は平氏なのです。とは言え、一口に「平氏」と言っても、その祖となる天皇が異なるので、各々天皇の名を冠して、桓武(かんむ)平氏、仁明(にんみょう)平氏、文徳(もんとく)平氏、光孝平氏と呼ばれています。この内、仁明・文徳・光孝の三平氏は主に公家(くげ;貴族)としての平氏で、武家となった平氏は桓武平氏のみです。後に「東国(とうごく)の源氏、西国(さいごく)の平氏」と呼ばれる(桓武)平氏ですが、元々は東国に根拠地を築いていた訳で、承平天慶(じょうへいてんぎょう)の乱(935-941)の際、西国(瀬戸内海)で海賊を率いて反乱を起こした藤原純友(ふじわらのすみとも)に対し、東国(坂東)で「新皇」(しんのう;新たな天皇の義)を称して朝廷よりの独立を図った平将門(たいらのまさかど)は、桓武平氏、とりわけ坂東(ばんどう)平氏として夙(つと)に有名です。詰まり、桓武平氏の勢力圏は元々、東国だった訳ですが、源氏の東国進出を契機に伊勢国(現三重県)に移った平氏一族が居(い)ました。これを「伊勢平氏」と呼びます。更にその中でも、京の都に上(のぼ)って武家による初の政権を樹立した平清盛(たいらのきよもり)の一族は「平家」と呼ばれました。詰まり、「平家」とは、あくまでも清盛一族の事であり、「平家」イコール「平氏」では無いのです。そして、「平家に非(あら)ずんば、人に非ず」と言われ、栄耀栄華を極めた「平家」とは勿論、清盛一族の事であり、その他多くの平氏は平家から見下されていた訳です。

『吾妻鏡(東鑑)』(東京 国立公文書館蔵)
 
『吾妻鏡(東鑑)』(東京 国立公文書館蔵)
鎌倉時代を代表する第一級歴史資料
承4(1180)年、平治の乱(1159-1160)に座して伊豆国に流されていた源頼朝が、以仁王(もちひとおう)が諸国の源氏に対し発した平家追討の令旨(りょうじ)を受けて挙兵。以後、東国を平定した頼朝の許(もと)に馳(は)せ参じた異母弟・義経(よしつね)らの活躍により、元暦2(1185)年、平家が壇ノ浦で滅んだ話は皆様もご存じの事でしょう。然し、此処で滅んだのはあくまでも「平家」であって、決して「平氏」では無いのです。「源平合戦」 ── 平家討滅 ── の裏で、源氏=源頼朝を支えた有力御家人(ごけにん)の中には多くの「平氏」が含まれていました。そして、その中には、初代の時政から守時(もりとき)に至る迄、16代に亘(わた)り執権職を世襲、鎌倉幕府の実権を握り続けた北条氏も含まれていたのです。その事を踏まえた上で、下記の系図を眺めて見て下さい。

桓武平氏高望王流略系図

北条時政公座像(伊豆の国市 願成就院所蔵)
 
北条時政公座像(伊豆の国市 願成就院所蔵)
家=平清盛の家系は、桓武天皇の曾孫(ひまご)、高望王(たかもちおう)、名を改め、平高望を祖とする桓武平氏高望王流ですが、実は嫡流(ちゃくりゅう;直系本家)では無いのです。高望王流の嫡流は、初代の高望から、子の国香(くにか)、孫の貞盛(さだもり)、曾孫の維将(これまさ)、玄孫(やしゃご)の維時(これとき)へと続きますが(貞盛の子の維叙(これのぶ)は一説に藤原済時(ふじわらのなりとき)卿の子とも言われているので除外)、平家は、曾孫の代で維将と兄弟の維衡(これひら)から分かれています。この維衡を祖とするのが伊勢平氏であり、更にその伊勢平氏から分かれたのが清盛の一族なのです。詰まり、権勢を誇った平家は血統的には桓武平氏の中でも分家のその又分家筋。亜流だった訳です。そんな亜流の平家が、桓武平氏元来の本拠地であった東国から遠く離れた京都で、「平家に非ずんば、人に非ず」等と言われて権勢を誇っている事を、東国に根を下ろしている坂東平氏が快く思わないのは当然の事です。そこで、反平家の旗頭(はたがしら)として担(かつ)がれたのが、伊豆国に配流(はいる)されていたとは言え、清和源氏の嫡流として毛並みの良かった源頼朝でした。因(ちな)みに、頼朝を支え幕府創設に尽力した有力御家人として名を連ねた梶原景時(かじわら-かげとき)、和田義盛(よしもり)、三浦義澄(よしずみ)・義村父子、畠山重忠(はたけやま-しげただ)、熊谷直実(くまがい-なおざね)、そして、頼朝の妻であり、2代将軍頼家・3代将軍実朝(さねとも)の生母である「尼将軍」政子の父、詰まり、頼朝の舅(しゅうと)であった北条時政、孰(いず)れも高望王流に連なる平氏だったのです。

源義経公像(岩手県平泉町 中尊寺所蔵)
 
源義経公像(岩手県平泉町 中尊寺所蔵)
源範頼公像(横浜市金沢区 太寧寺所蔵)
 
源範頼公像(横浜市金沢区 太寧寺所蔵)
源実朝公座像(甲府市 甲斐善光寺所蔵)
 
源実朝公座像(山梨県甲府市 甲斐善光寺所蔵)
(さて)、反平家を旗印に結束していた平氏諸氏でしたが、共通の敵であった平家が滅亡すると、今度は平氏一族による権力闘争 ── 内輪揉(も)め ── が繰り広げられました。そのバトルロイヤルを制したのが、同族であり乍(なが)らも政敵であった梶原氏(1200年)、比企氏(1203年 非平氏)、平姓畠山氏(1205年)、和田氏(1213年)、三浦氏(1247年)、千葉氏秀胤(ひでたね)(1247年)を次々と滅ぼし、執権職を16代に亘って世襲独占し権勢を誇ったあの北条氏です。平家滅亡後、鎌倉を拠点に武家政権を確立した源頼朝でしたが、その源氏に、この後(のち)、次々と不幸が襲いかかります。文治5(1189)年、頼朝の異母弟で平家討滅の最大の功労者共言える義経が奥州藤原4代泰衡(やすひら)に襲撃され自害。(泰衡が頼朝による度重なる義経捕進命令に抗しきれなかった為と言われているが、私自身は義経が奥州衣川で死んだ等とは露共思ってはいない) 建久4(1193)年、同じく頼朝の異母弟(義経の異母兄)で幕府重鎮であった範頼(のりより)が謀反(むほん)の嫌疑を掛けられ誅殺(ちゅうさつ)。建久9年(1198)年末、「武門の棟梁」であり初代征夷大将軍(将軍)でもあった頼朝が、御家人・稲毛重成(いなげ-しげなり)の亡妻追福の相模川橋供養に出掛けた帰路に「落馬」。其れが元で翌建久10(1199)年正月死亡!!(『吾妻鏡』に頼朝死亡に関する記事が欠落している事から見ても、その死が尋常ならざるものであった事は疑う可くも無い) 建仁3(1203)年9月、比企能員(ひき-よしかず)の変に座して、2代将軍頼家の側室・若狭局(わかさのつぼね;比企能員の娘)と、その子 ── 詰まり、頼家の嫡男 ── 一幡(いちまん)を北条義時(時政の子で、後に2代執権)が弑逆(しぎゃく)。同月、北条時政が頼家を幽閉し、弟の千幡(せんまん:実朝)を将軍に擁立。自らは執権に就任し幕府の実権を掌握。翌元久元(1204)年、伊豆国修禅寺(修善寺)に幽閉されていた頼家を北条氏が弑逆。建保7(1219)年正月27日には、「父頼家を殺したのは実朝(さねとも)だ」と吹き込まれた(一説)頼家の次男・公暁(くぎょう)が、鶴岡八幡宮(つるがおか-はちまんぐう)に於いて3代将軍実朝を暗殺。その公暁も暗殺直後に討たれ、英国生まれの推理作家アガサ=クリスティ女史の代表作『そして誰もいなくなった』よろしく清和源氏嫡流は此処に断絶。以後、将軍には京都から摂家(九条家二代)・皇族(親王四代)が迎えられましたが、実権は執権北条家が掌握しており、実質的には「北条幕府」、いや、北条氏が平氏の流れを汲む一族(北条氏は、平維将の子・維時を祖と仰ぐ)であった事を考えれば、平清盛ら平家に次ぐ事実上、

第二の平氏政権
北条氏の家紋「三つ鱗」
(北条氏の家紋「三つ鱗」)
だったと言えるのです。

年表:鎌倉幕府 ── 源氏将軍家滅亡と北条氏権力奪取の流れ

大蔵幕府旧蹟(源氏将軍時代の幕府御所跡)
 
大蔵幕府旧蹟(源氏将軍時代の幕府御所跡)
「尼将軍」政子の死と共に大倉御所は放棄。
宇都宮辻子に移転した新たな御所の下で、
本格的な北条=平氏政権がスタートした。
れら一連の出来事 ── 平家討滅から幕府創設、源氏将軍断絶から権力奪取 ── が北条氏による周到な策謀だったとしたら? 鎌倉幕府の正史『吾妻鏡』(あずまかがみ;東鑑)は、初代頼朝の死に関する記述が欠落しているばかりか、2代頼家・3代実朝と源氏将軍に関して尊厳を少なからず貶(おとし)める記述があり、逆に北条家を持ち上げる記述が見られる所から、北条家により編纂されたものであろう事は想像に難(かた)くありません。その「正史」 ── 北条家にとって都合の良い歴史 ── を基に鎌倉幕府の歴史が構築されているとしたら? 当事者は皆、鬼籍にあり、今更(いまさら)、物的証拠を挙げろと言われても無理な話です。然し、状況証拠を挙げる事位は出来ます。例えば、建久10(1199)年、頼朝の死により後継相続した頼家の親裁 ── 詰まりは幕府決裁権 ── を、頼朝の妻であり頼家の実母とは言え、政子が停止させ、実父である北条時政を含む有力御家人による合議制とし、頼家の将軍就任が3年間も遅れた事。建仁3(1203)年、頼家が自らの実権を嫡男の一幡と弟の実朝に分割委譲しようとするや、北条時政がクーデターを起こし、頼家に替えて実朝を擁立。自ら執権となり実権を握った事。更に、実朝が将軍に就任してから僅(わず)か2年後の元久2(1205)年、実朝を廃して時政が女婿(じょせい)の平賀朝雅(ひらが-ともまさ)を将軍に擁立しようと画策した事。(陰謀が娘の政子と息子の義時に露見、反対に遭い失敗) そして、実朝がわざわざ大船の建造迄して、宋国(南宋)に渡ろうとした事。(表向きは宋僧・陳和卿に傾倒、宋の医王山参拝が目的とされているが、身の危険を感じての亡命計画では無かったのか?) 源氏将軍三代が三代とも不可解且つ非業(ひごう)の死を遂げ、北条氏が謀略を以て他の有力御家人(政敵)を次々と排除、遂には北条氏による専制体制が確立された事、これら様々な事件の点と点を線で結ぶと、矢張り、北条氏=平氏政権の確立と言う結論に至るのです。

源氏将軍は単なる捨て駒だった!!

平家を滅ぼし、平氏たる北条氏による政権確立。その目的の為に源氏は利用されるだけ利用され、用済みとなった事で排除(嫡流断絶)されたのでは無いか? 私にはそう思えてならないのです。(了)


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