Reconsideration of the History |
124.昔はサイパンもパラオも「日本」だった ── 日本の南洋群島統治 (2003.7.7) |
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「南の楽園」 ── 広大な太平洋に点在するポリネシア・メラネシア・ミクロネシアの島々は、この様に呼ばれ、日本人の心を擽(くすぐ)って止みません。実際、サイパン島へは40万人、パラオ諸島(ベラウ)へは2万人、ポナペ島(ポンペイ)へは1万人、コスラエ島へは2千人もの日本人観光客が一年を通じて訪れています。しかし、これら、南洋の島々が、かつて「日本の領土」であった事をどれ程の人が知っているでしょうか? 恐らく、その様な事を知らないまま、ダイビング等を楽しんでいるのではないでしょうか? と言う訳で、今回は、かつて日本領だった「南の楽園」について触れてみたいと思います。
時は、大正3(1914)年7月28日。サライェボに於いて、オーストリア-ハンガリー帝国の皇太子フランツ=フェルディナントが、セルビア人青年ガブリエル=プリンチプによって暗殺された事件 ── 所謂「サライェボ事件」が発端となって、独・墺(オーストリア)・勃(ブルガリア)・土(トルコ)の同盟国と、英・仏・露・伊・米と言った連合国による第一次世界大戦が勃発しました。この大戦に際して、日本は日英同盟に基づき、8月23日、対独宣戦布告し、10月14日、赤道以北の独領南洋群島(ミクロネシア)を占領、海軍による軍政を実施したのです。
大正7(1918)年11月11日、キール軍港での水兵による反乱を契機に始まった革命(ドイツ革命)によって帝制が倒されたドイツが休戦条約に調印、ここに欧州全域を巻き込んだ第一次世界大戦は終結。これを受けて始まったパリ講和会議に於いて、大正8(1919)年5月7日、先に日本が占領していた赤道以北の独領南洋群島(マリアナ・マーシャル・カロリン等の諸島)の委任統治国が日本に決定、大正11(1922)年には、パラオ諸島コロール島に「南洋庁」が設置され海軍軍政から民政に移行、以後、南洋群島は昭和20(1945)年8月15日の終戦に至る約30年間、「日本の領土」(委任統治領)としての歴史を歩む事となったのです。
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「日本の領土」となった南洋群島には、内地(日本本土)からも多くの日本人(主に東北・沖縄出身者)・朝鮮人(当時は「日本国民」)が移民として渡り、現地でコプラ生産・砂糖黍(サトウキビ)の栽培と砂糖の生産・南国果実(トロピカルフルーツ)栽培・鰹節生産等の農業・漁業及び、燐(リン)鉱業(パラオ諸島アンガウル島)に従事しました。又、南洋庁や「南興」(南洋興発株式会社)の職員・その家族も多く住み、更には、「南洋楼」に代表される料亭・泡盛(あわもり)屋・沖縄蕎麦(そば)屋・沖縄芝居小屋・各種商店等も次々と出店し、昭和18(1943)年時点で、在住日本人10万人を数える程となったのです。
昭和8(1933)年3月、国際連盟に於ける「日本軍の満州撤退勧告案」の採択に反発した「常任理事国」日本は、同連盟を脱退したのですが、「国際連盟委任統治領」だった南洋群島は引き続き領有。その後、日米両国の対立が激化していく中で、南洋群島は、西太平洋地域に於ける戦略軍事拠点としての重要性が増し、トラック諸島(現・チューク諸島)に日本海軍が大規模な軍事基地を建設、超弩級巨大戦艦「大和」・「武蔵」と言った連合艦隊主要艦艇の泊地(投錨地)としたのです。そして、対米開戦半年後の昭和17(1942)年6月5日、米国太平洋艦隊の基地があったハワイに近い、中部太平洋のミッドウェー島近海で日米両軍が激突、日本海軍機動部隊の大型主力空母「赤城」・「加賀」・「蒼龍」・「飛龍」の四隻が米軍の攻撃で消失した所謂「ミッドウェー海戦」を契機に、日本に優勢だった戦局が逆転すると、更に拍車が掛かり、マーシャル諸島・サイパン島、そして、日本が占領していたグアム島(米国領)等の島々が次々と要塞化されていきました。しかし、時を経るに従って戦局は益々悪化し、マーシャル諸島(1944年2月)・サイパン島(1944年7月)・グアム島・テニアン島(1944年9月)・硫黄島(1945年3月)と、駐留日本軍部隊が次々と「玉砕」(全滅)し、逆にグアム島・サイパン島は、米軍による日本本土爆撃の一大拠点として、又、テニアン島は広島・長崎と二度に及んだ原爆の搭載機(B-29大型爆撃機)発進基地として使われ、日本を苦しめる事となったのです。
戦後、「敗戦国」日本は、南洋群島に対する施政権を放棄、これに代わって「国連信託統治領」として米国が新たな施政国となりました。その後、サイパン島・テニアン島等の北マリアナ諸島は、昭和61(1986)年11月、プエルト-リコ等と同じ「コモンウェルス」(Commonwealth:内政自治権を持つ米国領)、「北マリアナ連邦」としての道を歩み始め、ヤップ・チューク(トラック)・ポンペイ(ポナペ)の三諸島とコスラエ島の四州は、昭和53(1978)年、「ミクロネシア連邦」を構成、昭和54(1979)年5月、自治政府を発足させ、昭和61年11月に、「対米自由連合」(Free association:内政・外交は独自、国防は米国に委任)として独立。又、マーシャル諸島は、昭和61年10月に、パラオ(ベラウ)諸島は、平成6(1994)年10月に、それぞれ対米自由連合として独立し、「マーシャル諸島共和国」・「ベラウ共和国」としての道を歩み始めたのです。
この様に見てくると、日本統治時代の「南洋群島」は、軍事一色だった様に思われるかも知れません。しかし、日本の南洋統治は、決して軍事一色ではありませんでした。例えば、現在の「ミクロネシア連邦」は、ヤップ・チューク・ポンペイ・コスラエの四州で構成されていますが、公用語は「共通公用語」としての英語(米語)と、四州独自の言語となっています。つまり、十把一絡げ(じゅっぱひとからげ)に「南洋群島」と呼んでも、そこで使われていた言語は、それこそ、島の数程有った訳です。それら「南洋群島」全域の「公用語」として、日本は「日本語」を普及させる為、統治当初から教育に非常に熱心に取り組みました。そして、学業優秀な者については、渡航費用・学費等を全額支給した「特待生」として、内地に留学させ、日本での高等教育を受けた留学生達は、帰島後、それぞれの島で各方面における指導者として活躍しました。ですから、現地を訪れた事のある日本人が、時たま、流暢で美しい「古き良き日本語」を話す現地の高齢者と出会って、不思議に思う事があるかも知れませんが、正に彼らこそが、日本の南洋統治時代に青春を送った世代なのです。もっとも、戦後、施政権が日本から米国に移った事で、「公用語」としての日本語は廃止、新たに英語が採用された事で、日本語は廃(すた)れてしまいました。しかし、今でも、現地の言葉の中には、「コンペイトウ」や「オルゴール」の様に、すっかり日本語として定着した外来語同様、現地語として定着した日本語も多々残されています。
パラオ語として残った日本語
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又、日本は台湾・朝鮮同様、南洋群島に於いても、統治初期から病院・診療所と言った医療施設の充実を図り、現地の公衆衛生向上に傾注しましたし、前述の様に、「南興」を通して地場産業の育成と経済的自立(本国=日本からの経済援助から脱却)をも図りました。確かに、これら全てが、何の「見返り」も期待していなかったか?と言われれば、それは嘘になります。日本語を「公用語」に採用した「言語統一」にしろ、日本留学制度にしろ、統治円滑化の一助になった事は否定出来ません。しかし、公衆衛生向上や、地場産業育成と言った、現地にそのまま還元される施策を講じた事も、これ又事実です。そして、戦後、米国統治を経て独立(多分に米国の強い影響下にはあるが)した現地 ── パラオを始めとする各国や、トンガに代表される太平洋諸国が、概して「親日」である事、これが、日本による南洋統治の「功罪」を何よりも物語っている様に思うのです。
余談(つれづれ)
戦後、南洋群島の施政権は、日本から米国に移り、これらの諸島は漸次独立していきました。しかし、果たして米国統治の方が、日本統治よりも評価されるべきものだったのでしょうか? 例えば、米国は、マーシャル諸島において昭和21(1946)年から同33(1958)年にかけて、「第五福竜丸」で名高いビキニ・エニウェトク両環礁で、実に67回にも及ぶ核実験を行い、「南の楽園」に「死の灰」をばら撒(ま)きました。それに加えて、核廃棄物の貯蔵・海洋投棄による後遺症で苦しむ現地島民に対する補償についても、「核実験との因果関係は疑問」との理由で、今以て応じてはいません。又、日本統治時代が、水産品・砂糖等の内地(日本本土)への輸出超過により、経済的に自立していたのに対し、戦後、米国は、商品価値ゼロでしかも繁殖力の早いタガンタガンの種子を山林部に空中散布し、急速なジャングル化を招いて、島の産業経済を破壊。これによって、否応無く、対米経済依存(米国からの経済支援)体制を構築、あくまでも「対米自由連合」と言う米国関与の枠内での「独立国」としたのです。その様に考えると、「南洋統治」の名の下に、島の発展を支援した日本と、「名目上の独立」の裏で依然として隷属を目論む米国のスタンスと言うものが、はっきりと浮かび上がってくる様に思えるのです。(了)
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