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ハーグ密使事件 (1907)

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治38(1905)年、第2次日韓協約(韓国保護条約)によって、大韓帝国(以下、「韓国」と略)はその外交権を日本に接収された。これに対して、李容泰(イ-ヨンテ)ら排日派は、イギリス人ベッセル・アメリカ人ハルバートらと図って海外同志と連絡を取り、明治40(1907)年、オランダのハーグ(スフラーフェンハーヘ)で開催されていた第2回ハーグ平和会議に高宗(コジョン)皇帝の密使を派遣し、韓国全権委員として会議への参加を要求した。しかし、列強諸外国は、韓国の外交権が日本にある事を理由に拒絶。他に露・米政府にも接触したがこちらも拒絶された。この事件の処断として、高宗皇帝は子の純宗(スンジョン)へ譲位(事実上の退位)し、韓国統監の権限強化を謳(うた)った第3次日韓協約が日韓間で締結。これによって、外交権に加えて内政権も日本に接収された。


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