Navigator of the Historical term
ベトナム戦争  The Vietnam war

本文へ戻る


1954(昭和29)年のジュネーブ協定締結後、北ベトナム(ベトナム民主共和国)・南ベトナム解放民族戦線と、南ベトナム(ベトナム共和国)及びそれを支援した米国との間に繰り広げられた内戦。米国の支援を受けた南側の呉廷「王+炎」(ゴー=ディン=ディエム)政権は、ジュネーブ協定を無視する形で、1956(昭和31)年に予定されていた南北統一選挙実施を不履行、国内に強権弾圧政治を布いた。1960(昭和35)年、これに反発した国内の反体制派が「南ベトナム解放民族戦線」を結成し、南側政府軍に対してゲリラ戦を展開、民衆の支持を受けて各地で支配地域を拡大した。しかし、南側を支援していた米国は、「南ベトナム解放民族戦線」を北側の尖兵と見なし、南側の「赤化」(共産化)を断固阻止する為、1961(昭和36)年、南側への軍事支援を開始。1963(昭和38)年には、呉大統領に見切りを付けた米国が軍事クーデターを起こさせ、従来以上の親米反共政権を樹立させた。

1964(昭和39)年、米国は東京(トンキン)湾事件を起こして、「北爆」(北ベトナム空爆)を開始。最大時54万人の米軍兵力の他、オーストラリア・韓国軍をも動員して、内戦に介入した。この戦争に際して、米軍は原爆以外のありとあらゆる兵器を使用、ナパーム弾によって森林や村々を焼き払い、猛毒なダイオキシンを含む枯葉剤を大量に投下した。又、映画化された様に、米軍を主力とする南軍は非戦闘員の大量殺戮を行い、兵士も精神に異常を来す者が続出する等、正に「地獄」と形容するに相応しい様相を呈した。

その後、米軍が北軍の「後方支援地域」として、1970(昭和45)年にカンボジア、1971(昭和46)年にはラオスへと侵攻、戦線はインドシナ全域に拡大した。当初、劣勢だった北軍が、ソ連・支那の支援を受けると共に、民衆の反米感情と民族独立・解放運動に支えられる形で反攻に転じ、一方の米国も国際的反発と国内の反戦運動を座視出来なくなった為、1968(昭和43)年以後、数度にわたる和平会談を経て、1973(昭和48)年1月、当事者間に停戦協定が調印され米軍が撤退。大東亜戦争で日本を破った「大国」米国は、インドシナ民衆の前に「敗北」を味あわされる事となった。その後、米軍撤退によって支援を断たれた南側は北側の大攻勢の前に押され、1975(昭和50)年、南側の首都・西貢(サイゴン:現ホーチミン市)が北軍によって陥落。1976(昭和51)年、ベトナムは「ベトナム社会主義共和国」として北側主導の統一国家となった。


本文へ戻る