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摂関家

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(せつろく)家、摂家(せっけ)共呼び、摂政(せっしょう)・関白を輩出する家であり家格の事。元来、摂政は臨時官職であり、且つ、皇族より輩出していたが、天安2(858)年、藤原北家(ほっけ)出身の藤原良房(よしふさ)摂政に、天慶4(941)年、藤原忠平(ただひら)関白に補任(ぶにん)せられたのを皮切りに、常置官職となり、又、これ以後、摂政・関白 ── 合わせて摂関職は、藤原良房の嫡流(ちゃくりゅう)子孫が代々補任される慣例が確立。その為、摂関を輩出する家である事から、「摂関家」と呼ばれる様になった。

家は鎌倉初期、源頼朝の推挙により、藤原兼実(かねざね)が、兄・基実(もとざね)の子・基通(もとみち)に代わって摂政となった事から、近衛(このえ;基通)・九条(兼実)の二家に分立。更に、九条兼実の孫・道家が、三人の子、教実(のりざね)・良実(よしざね)・実経(さねつね)を相次いで摂関に就け、此処(ここ)に、九条家は、九条(教実)・二条(良実)・一条(実経)三家に分立した。一方、近衛家も、基実の曾孫(ひまご)である兼経(かねつね)が、弟の兼平(かねひら)摂政職を譲った事から、新たに兼平を祖とする鷹司(たかつかさ)家が分立。此処に摂関家は、近衛・九条・二条・一条・鷹司の五家に分立し、この五家をして「五摂家」と呼ぶ様になった。これ以後、慶応3(1867)年の「王政復古」に伴い、関白職が廃止される迄、豊臣時代を除き、摂関職は、五摂家から補任される慣例となった。

、五摂家の内、第107代・後陽成(ごようぜい)天皇の第四皇子・近衛信尋(のぶひろ)が継嗣して以後の近衛家、同帝第九皇子・一条昭良(あきよし)が継嗣して以後の一条家、そして、第113代・東山天皇の子、閑院宮直仁(かんいんのみや-なおひと)親王の第四王子・鷹司輔平(すけひら)が継嗣して以後の鷹司家は、天皇の子孫が養子となって継嗣した摂家と言う事から、取り分け「皇別(こうべつ)摂家」と呼ばれる。

方、公家(貴族)の家格として見た場合、摂関職に就く事が出来る「摂関家」は最上位にあり、次に、近衛大将を経て太政(だじょう)大臣迄の職に就く事が出来る「精華(せいが)家」 ── 即(すなわ)ち、三条(転法輪 てんぽうりん)・西園寺(さいおんじ)・今出川(いまでがわ,菊亭 きくてい)・徳大寺・花山院(かざんいん)・大炊御門(おおいみかど)・久我(こが)の七家及び、醍醐(だいご)・広幡(ひろはた)の二家(是を称して「九精華」と呼ぶ)。以下、大臣家・羽林(うりん)家・名家・地下諸大夫・諸道の順にランク付けされていた。


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