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マジノ線  Ligne Maginot

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マジノ線設置の火砲 一次世界大戦後、フランス(仏)が国境沿いに構築した長大な対ドイツ(独)要塞線。主唱者であり実現に先鞭を付けたアンドレ=マジノ陸相(André Maginot 1877-1932)の名に因(ちな)んで、1936(昭和11)年の完成時、「マジノ線」(Ligne Maginot)と命名。通常、北はベルギー(白)・ルクセンブルク(廬)との国境の町ロンヴィから、南は独・スイス(瑞)との国境の町バーゼルに至る要塞線を「マジノ線」と呼ぶが、バーゼルから地中海沿岸の仏・イタリア(伊)国境に至る対伊要塞線「アルピーヌ線」(Ligne Alpine)をも包含して「マジノ線」と呼ぶ場合もある。

ジノ線は、第一次大戦の際、独陸軍に国土を席捲された反省から、有事の際に国境線で独軍の侵入を阻止する事を目的に構築されたもので、国境沿いの峻険な地形を利用して108個の要塞を約15Km間隔で配置。更に各要塞には対戦車用障害や火砲(写真)を配備した上で、相互連絡用に軍用地下鉄を敷設。文字通り、鉄壁の要塞線を構築した。然(しか)し、第二次世界大戦が勃発すると、独陸軍機甲師団が要塞線を大きく迂回し、森林と湿地に覆われた天然の要害だとして要塞線が構築されなかった仏白廬三国に跨(またが)るアルデンヌの森から1940(昭和15)年5月10日、仏領内に侵入。一ヶ月後の6月14日、仏政府により放棄されたパリに独軍が無血入城。更に6月21日には、ペタン首相のヴィシー政権と独国との間に休戦協定が締結され、仏国は降伏。結局、総額300億フラン(当時の為替平均レート 1フラン=7.59円で換算すると約2,300億円。これを現在の価値に換算すると約164兆1,500億円相当)もの巨費を投じて構築された長大な要塞線は、「千丈の堤(つつみ)も蟻(あり)の一穴(いっけつ)」の諺(ことわざ)通り、要塞未構築のアルデンヌの森が命取りとなって、本来の実力を発揮出来ずにその使命を終えた。


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