Commentary of the History |
20-3.「明治天皇」は暗殺されていた!! (追補・訂正 2003.6.7) |
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『20.「明治天皇」は暗殺されていた!! 南北朝秘史-其の肆-』 (1998.1.4)について、下記の通り、追補・訂正します。
1.訂正
当該コラムにおける「即位前後の明治天皇」の比較表について、下記の通り訂正します。
誤 即位前(睦仁親王時代) 即位後(明治天皇時代) 睦仁親王は疱瘡(天然痘)をわずらった。疱瘡の後遺症として、顔面に「あばた」が残った。 明治天皇の「御真影」(これは「写真」ではなく、キヨソーネが描いた「肖像画」)に描かれた顔に「あばた」は無い。又、実際の顔にも「あばた」は無かった。 正 睦仁親王(京都明治天皇)は幼少の砌(みぎり)、裕福であったので種痘を受けた。故に疱瘡(天然痘)には罹っておらず、顔面に「あばた」は無かった。 明治天皇(大室寅之祐)は、家が貧しく野生児だったので、2歳の時、痘瘡(天然痘)に罹った。その結果、口の周りに「あばた」が残った。その為、明治天皇は自身の写真を撮られる事を好まず、わざわざ、キヨソーネに描かせた「肖像画」を写真に撮らせて「御真影」とした。又、「あばた」を隠す為に、髭(ひげ)を生やされた。
2.追加
当該コラムにおける「即位前後の明治天皇」の比較表について、下記の通り項目を追加します。
即位前(睦仁親王時代) 即位後(明治天皇時代) 睦仁親王(京都明治天皇)は、右利きだった。
御所の女官達の中での温室育ちであった睦仁親王は、充分に教育され帝王学を学んでいた訳であり、当然躾(しつけ)も厳しかった。故に、左利きになる訳が無く、ひ弱で喩(たと)えは悪いが女癖も悪くは無く(育ちが良かったので)、右利きであった。
明治天皇(大室寅之祐)は、左利きだった。
左利きになったのは、寅之祐が4歳の時、母親が離婚した為で(『大室寅之祐(明治天皇)の出自と近代皇室について』を参照の事)、母親が息子寅之祐にかまってあげられる余裕が無かった結果として、左利きとなった。又、維新後の天皇は良い言葉で言えば艶福家であった。
基本的に「佐幕攘夷」(親徳川=公武合体派) 先帝・孝明天皇の政策「攘夷」を継承。
この場合、「神風」でも吹かない限り、「攘夷」の実行は不可能。(英・仏と言った欧米列強とまともに戦った所で、日本が負ける事は端から分かり切っている。つまり、天皇=現人神(あらひとがみ)が不可能な事を命令した事になり、開国倒幕派(薩長)にしてみれば、天皇をすり替える必要に迫られた。
基本は「倒幕開国」(薩長派=目的実現の為には、「天皇暗殺」をも厭(いと)わない自称「勤皇派」) 孝明天皇の政策「攘夷」を180度転換。
この場合、天皇=現人神の「御聖断」(攘夷放棄と開国承諾)により、日本の開国・近代化が実現。国策としての殖産興業・富国強兵によって、アジアで唯一、列強の地位を獲得。
3.追補
幕末維新期の関連年表を下記に掲載します。(年表作成:匿名希望「G氏」)
年次 事績 天保8(1837)年 9月29日 徳川慶喜(よしのぶ:幼名は七郎麿)、水戸(徳川)斉昭(なりあき)の七男として誕生。 弘化4(1847)年 9月 徳川慶喜、第12代将軍・徳川家慶(いえよし)の命により御三卿の一つ、一橋家を相続。 嘉永3(1850)年 1月10日 寅吉(後の大室寅之祐=東京明治天皇)誕生。 嘉永6(1853)年 6月3日 黒船(ペリー艦隊)来航。 6月22日 将軍・家慶薨去。徳川家定、第13代将軍に就任。 安政5(1858)年 この頃、宮崎鉄雄の養父・敬治誕生。 4月23日、 彦根藩主・井伊掃部頭直弼(かもんのかみ-なおすけ)、大老職に就任。慶福(よしとみ)を井伊が推して将軍継嗣とし、将軍継嗣を争った慶喜は江戸登城停止処分を受ける。 7月16日 将軍・家定薨去。安政大獄が開始され、慶福は家茂と改名し、第14代将軍に就任。 万延元(1858)年 3月3日 桜田門外の変(井伊大老、暗殺される) 文久2(1862)年 7月1日 一橋慶喜、朝命により将軍後見職に就任。 7月6日 長州藩、長井雅楽(うた)の航海遠略策を放棄し、尊攘(尊皇攘夷)に鞍替え。慶喜をあてにして倒幕路線を進み出す。 文久3(1863)年 4月20日 幕府、朝廷に対して、5月10日を攘夷期限と上奏。 5月10日 長州藩、この日より馬関(下関)において、米・仏・蘭艦を砲撃開始(攘夷実行)。 7月2日 薩摩藩、薩英戦争に敗北し、開国に路線転換。 8月18日 薩摩・会津両藩、幕府と連合して公武合体派クーデターを起こし、長州系尊壊派を追放。 元治元(1864)年 1月 将軍・家茂が老中と共に薩摩藩の開国論に反対し、上洛して壊夷を主張。慶喜も変節、これに賛成、中川宮邸において、島津久光(薩摩藩)・松平慶永(福井藩)・伊達宗城(仙台藩)と口論し、参線会議が解体。慶喜、将軍後見職を辞して禁裏御守衛総督を拝命。
(しかし、慶喜は慶永と共に密かに将軍家茂の暗殺を計画。この後、薩摩藩も孝明天皇を暗殺しなければ、開港不可能と考え、横浜鎖港を通告された英国もこれに同意したと思われる)7月19日 蛤(はまぐり)御門の変 7月24日 第1次長州征伐(征長の役) 8月5日 四国(列強)艦隊、馬関を砲撃。 慶応元(1865)年 5月10日 英国公使パークス、木戸・井上と会談。 8月 伊藤博文・大室寅之祐(当時寅吉)等が長崎のフルベッキの下へ行く。
(翌慶応2(1866)年1月か2月頃、記念写真を全員で撮る?)慶応2(1866)年 1月12日 薩長同盟成立(敗北者同志の同盟)。 6月頃 寅之祐(当時は大室寅吉)、行方不明となる。
(田布施町麻郷の村人が手分けして探索)6月7日 第2次長州征伐開始。慶永はしきりに反対するも、慶喜はこの戦いで大室寅之祐に関する支配権を求めた(鹿島f説)。 6月17日 英国公使パークス、島津久光・西郷吉之助(隆盛)等と会談。 6月20日 将軍家茂、第二次長州征伐で大阪に到着後、朝廷差向けの医師と称する者に毒殺される。
(大坂城内に引き込み役がいた筈であるが、犯人は慶喜・慶永らしい)12月25日 孝明天皇、堀河紀子邸において、伊藤博文に刺殺される。岩倉が便所の箱番を買収しておいた。
(刺殺では無く、毒殺されたとの説もあり)慶応3(1867)年 1月9日 睦仁親王、践祚(京都明治天皇)。幕府、大量の軍艦・輸送船を購入。横浜で歩兵・砲兵・騎兵の訓練を開始(約5000人)。幕府に金がなくロッシュ公使を通じて仏国から生糸輸出権を抵当として借款を受ける。将軍慶喜、内政・外交全般にわたって、ロッシュ公使の助言受ける(通訳は渡辺歌女)。 6月16日 島津久光、山県・鳥尾に対して、西郷を萩に行かせると約束する。 6月下旬 西郷隆盛が寅之祐(この頃、大室寅助)と共に上洛(鹿島説)。 6月23日 大室寅之祐(当時、寅助)の教育係・鍋島直正が入京し、寅助を半年余教導。 6月24日 仏国公使ロッシュ、小笠原長行と会談。 6月25日 英国公使パークス、小笠原と会談。 7月 使番、地蔵菩薩・鬼子母神の尊像を預かる。この仏像は京都睦仁の遺体であろう。同日、中山慶子5ヶ日の宿下がり(『明治天皇紀』) (7月8日、幼帝・睦仁親王(京都明治天皇)、手に軽傷を負い、伊良子光順らの侍医が膏薬を貼る。これが毒入りで京都明治天皇は毒殺される) 匿名希望「G氏」のコメント 7月17日 「奇兵隊の天皇、来る正月上中旬内に御元服」と言う手紙を引用(『明治天皇紀』)
(但し、薩摩藩邸に寅之祐待機)7月19日 『中山日記』に「寄(奇)兵隊の天皇」とある。睦仁親王(京都明治天皇)は既に暗殺され、大室寅之祐(東京明治天皇)にすり替えられていた。 10月13日 薩長両藩に倒幕の密勅が下る。将軍慶喜、朝廷に対して大政奉還を上奏。坂本竜馬・中岡慎太郎、西郷等に暗殺される。王政復古の声と共に全国的デモ「エエジャナイカ」始まる。その人数は500万人と言われる。 12月 寅吉(寅助)が芸者連れて田布施に帰ってくる。寅吉を寅之祐と改名。通史の王政復古の大号令とは、田布施町麻郷の井神(地家の隣の)の高松八幡宮での事で、三条実美(さねとみ)も同席。 慶応4(1868)年
明治元(1868)年1月13日 鳥羽・伏見で幕軍2万と薩長軍4千の兵が戦うも、薩長軍の「錦旗」により、幕府側は戦意を喪失し惨敗。(1月15日、正式に大室寅之祐が「明治天皇」として御所に向かい入れられる。三条等、勤皇派の公卿等も京都御所に復帰) 4月1日 アーネスト=サトウ、「睦仁」に会う。
(京都・(大室寅之祐)睦仁東本願寺にあり。誠に御強壮(『木戸日記』)慶応4(1868)年
大政元(1868)年6月15日 輪王寺宮公現法親王(後の北白川宮能久親王)、諱(いみな:本名)を陸運(むつとき)と改め、奥羽越列藩同盟(北日本政府)の「東武皇帝」に即位。慶応4年6月15日を以て、「大政」元年と改元。
◆◇◆ 匿名希望「G氏」のコメント ◆◇◆
1.天皇すり替えに関しての疑問
天皇(院)の存在自体知らない、あるいは存在は知っていても、現代の様にテレビがある訳では無いので顔は知らない、と言うのが庶民レベルなのかなと思いまして。だとすれば顔が変わっても、庶民には分からないのかな?と思った次第です。
2.解説
いやいや、実は、テレビが無い時代、庶民は情報を得難かったと思うでしょう。それがどうも違うみたいなんです。と言うのは、孝明天皇暗殺事件等はとっくのとうに京の庶民の間に噂が広まっていた訳ですし、古くは菅原道真の時代(平安時代)等も、一般庶民の間に道真の怨霊(天神様)の噂があった位ですから。案外庶民と言うものは馬鹿じゃないんですよ。鹿島f氏の著書に、京都御所内だから天皇を大室寅之祐にすり替えた所でばれない等と書いてありましたが、正しくは、鳥羽・伏見の戦で薩長軍が勝ったからこそ、明治元(1868)年1月15日に、大室寅之祐が京都御所に「明治天皇」として迎え入れられた訳です。それ迄は薩摩藩邸に待機していた訳ですが、仮に京都御所内ですり替えられたとしたら、公家や女官が何百人もいる訳で、全員の口を塞ぐ等と言う事は無理な話ですし、孝明天皇暗殺の噂と同様に、瞬く間に天皇すり替えの噂が京の庶民に広まるでしょう。ですから、田中光顕が三浦天皇に語った通り、明治天皇はすり替えられたのでは無く、京都御所に維新の時迎え入れられたと言う方が正しい。慶応3(1867)年7月に京都明治天皇(睦仁親王)の方は暗殺されていましたから、半年間、日本に天皇が存在しなかった事(空位)になります。